一人の人生を読む
父を早く失い、哲学へ進む
モーリス・メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty)は1908年3月14日、フランス西部のロシュフォール=シュル=メールに生まれた。父は1913年、彼が5歳のときに亡くなり、家族はパリへ移った。メルロ=ポンティは母と近い関係を保ちながら育ち、パリのリセを経て1926年に高等師範学校へ入る。
同世代にはジャン=ポール・サルトルやシモーヌ・ド・ボーヴォワールがいた。1930年、哲学のアグレガシオンに合格。その後は地方のリセや高等師範学校で教えながら、知覚、心理学、ゲシュタルト理論、フッサールの現象学を調べていった。
1939年4月、まだ刊行されていないフッサールを読む
1939年4月、31歳のメルロ=ポンティはベルギーのルーヴァンにあるフッサール文庫を訪れた。新設された文庫を訪れた最初の外部研究者だった。そこでオイゲン・フィンクと会い、フッサールが生前に刊行していなかった『イデーン第二巻』や『ヨーロッパ諸学の危機』後半部の草稿を閲覧した。
のちにメルロ=ポンティは、知覚する主体を世界から切り離された意識としてではなく、身体を通じてすでに世界の中にいる存在として考えていく。1939年の文庫訪問は、完成した教科書を読むのではなく、まだ整理され切っていない草稿に直接触れた時期でもあった。
数か月後、ヨーロッパは戦争に入る。
戦争、結婚、父になること
第二次世界大戦が始まると、メルロ=ポンティはフランス軍の将校として従軍した。1940年6月、休戦直前の戦闘で負傷し、数か月の療養を経てパリのリセ・カルノーで教職に戻った。軍務ではクロワ・ド・ゲールを授与されている。
同年11月、シュザンヌ・ジョリボワと結婚し、翌1941年6月に娘マリアンヌが生まれた。戦争、療養、結婚、父親になることが短い期間に重なっている。
この時期、メルロ=ポンティは学生時代から知っていたサルトルとも再び近くなる。二人は抵抗運動グループ「社会主義と自由」に関わった。地下出版物を出した小さなグループだったが、1942年にメンバーが逮捕され、解散する。
『知覚の現象学』と、雑誌をつくる仕事
1945年、メルロ=ポンティは『知覚の現象学』を刊行した。同じ年、サルトル、ボーヴォワールらと雑誌『レ・タン・モデルヌ』を創刊する。
雑誌での彼は、名前だけを連ねる思想家ではなかった。政治面の編集を担い、日常的な運営にも深く関わり、多くの政治的論説を書いた。大学ではリヨンで教え、1949年からパリ大学で児童心理学と教育学を担当する。子どもの発達、精神分析、現象学、ゲシュタルト心理学、人類学までを講義した。
『知覚の現象学』が扱ったのは、目や耳から情報が入り、頭の中で世界が組み立てられるという単純な図式ではない。私たちは身体を「持っている」だけではなく、その身体で立ち、歩き、触れ、他人を見ながら、すでに世界に関わっている。知覚は、世界を外から眺める観察ではなく、身体と世界が接触しているところから始まる。
サルトルと一緒に始めた雑誌から離れる
戦後しばらく、メルロ=ポンティとサルトルは同じ雑誌を動かし、左派の立場から同時代政治を論じた。しかし冷戦が進み、ソ連、共産主義、朝鮮戦争をどう評価するかをめぐって二人の立場は離れていく。
1952年12月、メルロ=ポンティは『レ・タン・モデルヌ』の政治編集を辞任し、翌年には編集委員会そのものから退いた。1955年の『弁証法の冒険』では、サルトルの政治姿勢を公に批判する。ボーヴォワールも反論し、戦後の雑誌を一緒につくった人々の関係には修復されない亀裂が残った。
政治にどう関わるのか、革命や共産主義をどう考えるのかという判断が、共同編集という日常的な仕事の関係まで変えていった。
44歳でコレージュ・ド・フランスへ
同じ1952年、44歳のメルロ=ポンティはコレージュ・ド・フランスの哲学講座に選ばれた。就任は順調ではなかった。教授会はメルロ=ポンティを第一候補に選んだが、道徳政治学アカデミーが異例にも候補者名簿から彼の名を外した。最終的に教育大臣が教授会の選択を認め、就任が実現した。
ここでの講義では、自然、言語、歴史、受動性、制度、哲学史など、研究対象がさらに広がった。初期の知覚の問題を捨てたのではなく、身体と世界の関係を、他者、言語、歴史、存在そのものへ押し広げていった。
見ることを、絵画から考え直す
晩年の仕事の一つが『眼と精神』である。メルロ=ポンティにとって、画家は外界を一方的に写す人ではない。見る身体自身が、見られる世界の一部でもある。見る側と見られる側を完全に切り分けることができないという問題を、絵画を通して考えた。
この関心は、初期から続く身体と知覚の問題につながっている。同時に晩年には、「見えるもの」と「見えないもの」、「肉」といった概念を用いながら、主観と客観を最初から二つに分ける考え方そのものを組み替えようとしていた。
53歳で、仕事は未完のまま終わる
1961年5月3日、メルロ=ポンティはパリで亡くなった。53歳だった。コレージュ・ド・フランスの哲学講座に就いてから9年しか経っていない。
死後、『見えるものと見えないもの』をはじめ、未完の草稿や講義ノートが刊行された。そのため、現在読まれている後期のメルロ=ポンティには、生前に刊行した文章だけでなく、死後に編集された講義や草稿も含まれている。
31歳でルーヴァンの未刊草稿を読んだ研究者自身が、53歳で未完の草稿を残すことになった。メルロ=ポンティの哲学は、完成した答えを外から世界へ当てはめるよりも、身体が世界の中ですでに何かに触れ、そこから考え始めることを重視した。彼自身の仕事も、最後まで途中にあるものとして残された。




