一人の人生を読む
17歳、数学より「正しい社会」を選ぶ
ジェームズ・ロバート・フリン(James Robert Flynn)は1934年、世界恐慌のさなかのワシントンD.C.に生まれた。後に彼の名前は「フリン効果」、つまり世代を追うごとにIQテストの平均得点が上昇してきた現象と結びつけられる。しかし、若いフリンが目指していたのは心理学ではなかった。
晩年にオタゴ大学がまとめた回想によれば、17歳ごろのフリンは、数学や純粋に知的な問題を解くことだけでは自分には足りないと考えたという。彼が選んだのは政治哲学だった。人はどんな社会をつくるべきか。自由や平等をどう考えるのか。問いの中心には、人間の能力を測ることより「何が正しいか」があった。
シカゴ大学へ進み、1958年に政治哲学で博士号を取得した。当時のアメリカでは、学校、住宅、公共施設などに人種隔離の制度と慣行が残っていた。フリンにとって政治哲学は、書物の中だけの問題ではなくなっていく。
公民権運動と、大学の外にある政治
学生時代から若手研究者の時期にかけて、フリンは公民権運動へ関わった。全米黒人地位向上協会(NAACP)に関連する住宅問題の活動を行い、人種平等会議(CORE)の活動にも参加した。オタゴ大学の追悼記事によれば、アメリカ南部で人種平等会議のデモに参加した際には暴力を受け、警察から守られることも期待できないと感じた経験があったという。
同時に社会主義運動や平和運動にも関わった。ユージン・デブスを敬愛し、社会保障や医療、反戦について公に発言する。その活動は研究生活と切り離されてはいなかった。1960年代初頭、アメリカの大学で職を得ながらも、政治活動を理由の一つとして担当を外されたり、職場との関係を悪化させたりしたと、後にオタゴ大学は記録している。
ここでフリンの生涯に一つの特徴が現れる。研究によって政治から距離を置くのではなく、政治的な問題を考えるために研究する。その姿勢は、後にまったく別分野のIQ研究へ入ったときにも変わらなかった。
1963年、アメリカからニュージーランドへ
1963年、29歳のフリンは妻エミリーと家族を連れてニュージーランドへ移った。アメリカで希望する大学職を得ることが難しくなっていた時期で、最初はクライストチャーチのカンタベリー大学で教えた。
数年後、ダニーデンのオタゴ大学へ移る。1967年、大学で政治学が独立した部門となると、フリンはその初代教授となった。以後およそ30年にわたり部門を率い、政治哲学を教え続ける。学生が彼から学んだ中心科目も、知能心理学ではなく政治思想だった。
ニュージーランドへ移ったことは、政治から離れたことを意味しなかった。反戦・反核運動に関わり、首相ノーマン・カークへ外交政策について助言し、のちにはニュー・レイバー党(NewLabour Party)やアライアンス党(Alliance)の政治活動にも参加した。大学教授としての仕事と政治参加が、長く並行していた。
ジェンセンに反論するため、IQ研究へ入る
1960年代末から1970年代にかけて、アメリカでは人種集団間のIQ得点差と、その原因をめぐる論争が激しくなった。心理学者アーサー・R・ジェンセンは、個人差に強い遺伝的影響があるという研究をもとに、黒人と白人の平均IQ差についても遺伝的要因が関係している可能性を論じた。
フリンは、この議論に反対した。だが政治的に不快だから退けるのではなく、ジェンセンが使っている研究そのものを調べようとした。心理測定学、知能検査、遺伝率、集団差の統計を読み込み、1980年、46歳で『人種・IQ・ジェンセン』(Race, IQ and Jensen)を刊行する。
これはフリンにとって本来の専門から外れた仕事だった。しかし、反論するためには相手の議論を最も強い形で理解しなければならない。その姿勢はジェンセンとの関係にも現れた。両者は結論では長く対立したが、オタゴ大学の追悼記事によれば、ジェンセンは後にフリンの研究姿勢の誠実さを評価したという。
1981年、古いテストの表に現れた奇妙な差
1981年、47歳のフリンは、アメリカ軍の知能検査資料を調べていた。最初の目的は「黒人と白人の得点差が時間とともにどう変わっているか」を確認することだった。ところが調査を続けるうちに、別の現象が見えてきた。
1999年に本人が研究の経緯を振り返った論文によれば、フリンはウェクスラー式知能検査やスタンフォード=ビネー式知能検査の古いマニュアルにある標準化データを読み比べた。知能検査は時代に合わせて改訂される。その移行期には、同じ人たちへ旧版と新版を受けてもらい、二つの尺度を比較した資料が残る。
そこに奇妙な差があった。新しい基準では平均100になる集団が、数十年前につくられた古い基準で採点すると、100よりかなり高くなる。測っている人間が一夜で変わったわけではない。基準になった世代そのもののテスト成績が違っていたのである。
フリンは、一つの表だけで結論を出さなかった。別の検査、別の年代の標準化資料を集めていく。そして、IQテストの得点水準そのものが長期的に上昇しているという仮説へ進んだ。本人は後に、この発見には偶然が含まれていたと振り返っている。人種差を調べようとしていた研究が、世代差という別の問題を開いた。
「フリン効果」と呼ばれるまで
1984年、フリンは心理学専門誌『サイコロジカル・ブレティン』(Psychological Bulletin)に「アメリカ人の平均IQ――1932年から1978年の大幅な上昇」(The Mean IQ of Americans: Massive Gains 1932 to 1978)を発表した。アメリカの代表的な標本を比較すると、1932年から1978年までの46年間で、IQテストの成績は換算して約13.8点上昇していた。およそ10年に3点という大きさである。
その後、他国のデータも調べると、同じような世代間上昇が広く見つかった。現象はやがて「フリン効果(Flynn effect)」と呼ばれるようになる。フリン自身によれば、この名前を広めたのは彼と政治的立場の異なるチャールズ・マレーだった。
ただし、「人類が数十年でそれだけ賢くなった」と単純に読むことはできない。IQテストには語彙、知識、抽象推論、図形問題など異なる課題が含まれ、上昇幅は課題によって違う。後の研究では国や時代によって上昇の鈍化や反転も報告されている。
フリンが考え続けたのは、テスト得点がこれほど大きく動くなら、知能を固定された一つの数字として読むだけでは足りないということだった。学校教育、家族規模、職業、科学技術、日常生活で要求される抽象的な思考など、社会環境そのものが人の認知的な習慣へ作用している可能性を論じた。
遺伝か環境か、という二択をほどく
フリン効果は、「知能に遺伝は関係しない」という発見ではない。個人差の研究では、同じ社会の中でIQテスト得点に遺伝的要因が関係することを示す研究が積み重なっている。一方で、数十年という短い時間に国全体の平均得点が10点以上動くことを、遺伝子頻度の変化だけで説明することも難しい。
ここには、一見すると矛盾がある。同じ時代・同じ社会の中では遺伝的な違いが個人差と関係していても、世代全体の平均を大きく動かす原因は環境の変化かもしれない。遺伝と環境は「どちらが本当か」を競う二つの答えではなく、異なる水準の問いになりうる。
フリンはこの問題を、心理学者としてだけ考えたわけではなかった。人種集団の差を、測定された数字からそのまま生まれつきの能力差へ変換してよいのか。現実の社会が人間へどんな認知的要求を与えているのか。政治哲学者として出発した問いが、統計と心理測定を通って戻ってきたともいえる。
心理学者になっても、政治から離れない
知能研究で国際的に知られるようになったあとも、フリンは政治活動をやめなかった。ニュージーランドの外交、反核、社会政策に関わり、選挙政治にも参加した。1996年にオタゴ大学の部門長を退いた後も、名誉教授として研究と執筆を続ける。
2007年の『知能とは何か』(What Is Intelligence?)、2012年の『私たちはより賢くなっているのか』(Are We Getting Smarter?)では、世代間のIQ変化を単なる心理測定上の珍現象ではなく、現代社会が人の思考をどう変えるかという問題へ広げた。科学的分類や抽象概念を使う機会が増えた社会では、100年前とは異なる思考習慣が育つのではないか。フリンはそこから、知能検査の意味そのものを問い直した。
一方で、彼は自分を心理学者だけで説明することを好まなかった。オタゴ大学の追悼記事には、心理学は長い「休暇」のようなもので、自分は基本的には道徳哲学者なのだという本人の言葉が残っている。
最後まで「道徳哲学者」だった研究者
2020年12月11日、フリンは86歳で亡くなった。その名前は心理学の教科書では「フリン効果」とともに残っている。しかし生涯を最初からたどると、知能研究は突然現れた別の仕事ではない。
17歳のころから、人間社会で何が正しいのかを考えた。人種隔離へ反対し、公民権運動へ参加した。遺伝によって人種差を説明する議論が現れると、それを批判するために相手のデータを読み込んだ。その途中で、自分が探していたものとは違う現象を見つけた。
研究者にとって、最初の問いと最後の発見が一致するとは限らない。フリンの場合、政治的な信念が研究の入口をつくったが、得られたデータはその信念を確認するためだけの材料にはならなかった。古いテストの表に出ていた奇妙な数字を無視せず、別の問いとして追い続けたことが、彼の名前を残す発見につながった。
その意味でフリンの生涯は、信念を持つことと、証拠に従うことが必ずしも反対ではないことを示している。重要なのは、結論を先に決めることではなく、自分が反論したい相手の研究まで読み、そこで予想外の事実が見えたときに問いを変えられることだった。




