一人の人生を読む
学べば学ぶほど、確かなものが減っていった
ルネ・デカルトは1596年、フランス中西部のラ・エーに生まれた。後に町そのものが彼の名を取って「デカルト」と改称されるほど有名になるが、少年期の彼が学んだのは、まだ中世以来の学問体系が大きな力を持っていた時代である。
11歳ごろ、イエズス会のラ・フレーシュ学院に入学した。古典、論理学、哲学、数学などを幅広く学び、当時としては非常に充実した教育を受けた。しかし後年の『方法序説』で彼が振り返るのは、知識を手に入れたという満足より、学問の世界に意見の対立や不確実さがあまりに多いという感覚だった。
ただし、学校教育そのものを無価値だと考えたわけではない。数学の確実さには強く惹かれ続けた。問題は、なぜ数学では答えがこれほど明瞭なのに、哲学や他の学問では人々の意見が割れ続けるのか、というところにあった。
1616年、ポワティエ大学で法学の学位を得た。父親が期待した法律家の道へ進むこともできたが、デカルトはそこに定着しなかった。彼は本だけでなく、自分で世界を見て考える方へ向かう。
軍隊で出会った、もう一人の数学好き
1618年、22歳のデカルトはネーデルラントのブレダにいた。軍務に身を置きながら、軍事工学や数学にも関心を向けていた。そこで出会ったのが、医師で自然研究者でもあったイサーク・ベークマンである。
二人は数学や力学について議論し、デカルトは個別の問題を解くだけでなく、さまざまな量や図形を共通の方法で扱えないかと考えるようになった。後の解析幾何学へつながる発想は、哲学とは別の場所で突然生まれたのではない。確実な方法を探すという一つの問題が、数学と哲学の両方に伸びていった。
彼はその後もドイツや中欧を移動した。軍人として名を上げることより、移動しながら人や学問に触れ、自分の考えを組み立てていく時間の方が長くなる。
1619年11月10日の夜
1619年11月10日、23歳のデカルトはドイツに滞在していた。その夜、三つの夢を見たと後年の伝記に伝えられている。本人が残した断片と、17世紀末に伝記を書いたアドリアン・バイエの記述を通して知られている出来事である。
デカルトはこの夢を、単なる奇妙な睡眠中の出来事とは受け取らなかった。異なる学問をばらばらに学ぶのではなく、知識全体を共通の基礎から組み立て直すという仕事に、自分が向かうべきだと考える契機になった。
夢の細部には後世の解釈がいくつも重なっている。しかし、この時期以後のデカルトが「確実な方法」を一つの大きな課題として追い続けたことは、その後の仕事からもはっきり見える。
人の多いパリを離れる
1620年代、デカルトは各地を旅し、パリでは数学者や自然研究者とも交流した。とくにマラン・メルセンヌとの関係は重要だった。メルセンヌはヨーロッパ各地の研究者を手紙でつなぐ役割を果たしており、デカルトがのちに人目を避けて暮らしても、学問のネットワークから切れずに済んだ。
1628年ごろ、デカルトはネーデルラントへ移った。そこから約20年、都市を何度も移りながら研究と執筆を続ける。静かな環境を求めつつ、手紙によってヨーロッパの研究者と議論する。この距離感が、彼の働き方になった。
彼が考えていたのは哲学だけではない。光はどう屈折するのか。虹はなぜ見えるのか。物体はどう動くのか。人体を機械的にどこまで説明できるのか。世界全体を数学と運動の法則から説明しようとする計画へ進んでいった。
書き上げた本を、出さない
1633年、デカルトは自然学の大著『世界論』をほぼ刊行できる状態まで進めていた。ところが同じ年、ガリレオが地動説をめぐってローマの異端審問で有罪判決を受けたことを知る。
デカルトの宇宙論もコペルニクス的な地動説を前提にしていた。彼は11月、メルセンヌへの手紙で刊行を見送る考えを伝えた。思想史の大人物という後世の姿から見ると、どんな考えでも押し通した人物に見えやすい。しかし実際のデカルトは、書くことと公表することのあいだでかなり慎重に動いていた。
完全に沈黙したわけではない。4年後の1637年、『方法序説』をフランス語で刊行し、そこに『屈折光学』『気象学』『幾何学』という三つの試論を付けた。方法を抽象的に述べるだけでなく、その方法を実際の科学や数学でどう使うかまで示そうとした構成だった。
すべてを疑っても、疑っていることは残る
デカルトの名を最も有名にしたのは、「我思う、ゆえに我あり」と要約される考えである。
感覚は間違うことがある。夢の中では、起きていると思い込むこともある。数学の計算さえ、もし自分を徹底的に欺く存在がいたなら疑えるかもしれない。そうやって可能な限り疑いを広げていく。
それでも、いま疑っているという働きそのものは消えない。疑いが起きているなら、少なくともその瞬間に考えている存在がある。この一点を足場に、知識をもう一度組み立てようとした。
この方法は、「何でも疑って何も信じない」という態度とは違う。むしろ逆で、疑いに耐えられるほど確かなものを探すために、いったん疑う。デカルトにとって懐疑は結論ではなく、出発点だった。
哲学者であり、数学者でもあった
1637年の『幾何学』では、代数の方法を幾何学へ持ち込み、図形を方程式で扱う方向を大きく前進させた。今日「デカルト座標」と呼ばれる考え方は、その名に残っている。
光学では屈折の法則を公刊し、虹の説明にも取り組んだ。自然を目的や性質の言葉だけで説明するのではなく、形、運動、量の関係から説明しようとしたのである。
その一方で、1641年の『省察』では、心とは何か、外界の存在をどう確かめられるのか、神の存在をどう考えるのかという形而上学の問題へ深く入っていった。後世から見ると「哲学」と「科学」に分かれる仕事が、彼の中では一つの計画の両側にあった。
朝の遅い人が、北国の宮廷へ行く
1649年、デカルトはスウェーデン女王クリスティーナの招きを受け、ストックホルムへ移った。女王は学問に強い関心を持ち、デカルトから哲学を学ぶことを望んでいた。
長年、朝遅くまでベッドで考えたり仕事をしたりする生活を送ってきたデカルトにとって、ストックホルムの生活は大きく異なった。女王との学習は早朝に行われ、北国の冬の生活も重なった。
移住から数か月後の1650年2月11日、デカルトは53歳でストックホルムに没した。
彼の生涯を見ると、「近代哲学の父」という肩書きだけでは見えない動きがある。学校を出て、旅をし、軍隊に身を置き、人と議論し、静かな国へ移り、完成した本を一度は引っ込める。その途中で、確かな知識とは何かという同じ問いを、数学、自然学、哲学へ何度も持ち込んだ。
確実な答えから出発したのではない。不確かさを避けずに、その中からどこまで確かな足場をつくれるかを考え続けた人だった。
主な参考資料
- Stanford Encyclopedia of Philosophy, “René Descartes”
- Stanford Encyclopedia of Philosophy, “Descartes’ Life and Works”
- MacTutor History of Mathematics, “René Descartes”
- 筑摩書房『方法序説』『省察』『幾何学』
- Wikimedia Commons, “Frans Hals, Portrait of René Descartes”
- Wikimedia Commons, “Descartes Discours de la Methode”




