一人の人生を読む
書き手が、住民の代表として立つ
1961年11月28日、ニューヨークのウェスト・ヴィレッジにあるレストランで、一人の女性が書類を手に掲げた。ジェイン・ジェイコブズ、45歳。当時の新聞社が撮影した写真には、眼鏡をかけた彼女が、地域の再開発をめぐる記者会見で資料を示す姿が残っている。場所はハドソン通りとチャールズ通りの角にあったライオンズ・ヘッド・レストラン。彼女はウェスト・ヴィレッジを守る住民委員会の代表だった。
ジェイコブズは、この年に都市についての大きな本を出していた。のちに都市計画を学ぶ人びとの基本文献となる『アメリカ大都市の死と生』である。しかし、写真に写っているのは大学の研究室でも、建築家が計画図を広げる会議室でもない。彼女が暮らす地区をどうするか、その決定に住民として異議を唱える場だった。
彼女はどうやって、ここに立つことになったのだろう。
ニューヨークを、仕事を探しながら歩いた
ジェイコブズは1916年、ペンシルベニア州の工業都市スクラントンに生まれた。父は医師で、母には教師や看護職として働いた経験があった。幼いころから都市の専門家を目指していたわけではない。地元の新聞社で働く経験を重ね、文章を書く仕事に関心を向けた。
1935年、19歳で姉妹のベティとニューヨークへ出た。大恐慌の影響がなお残る時期で、安定した仕事をすぐに得られたわけではなかった。事務の仕事や速記などで収入を得ながら、街の仕事や商店について記事を書いた。雇い主のいる建物へ通い、取材先を歩いて回り、通りによって違う仕事が営まれているのを見た。
彼女は生活のために働き、記事を書くために取材先へ向かった。都市について本を書くよりずっと前から、ニューヨークの通りは、仕事を見つけ、人に会い、文章の材料を探す場所だった。
1944年には建築家のロバート・ハイド・ジェイコブズと結婚した。夫妻は三人の子どもを育てた。子育てと住まい、雑誌の仕事、地域の人間関係が、同じ街のなかに重なっていた。建築家の夫と暮らす一方で、彼女自身も取材と執筆を続け、住んでいる街で起きる変化を見ていた。
図面からは見えない、街の仕事
1950年代、ジェイコブズは建築専門誌『アーキテクチュラル・フォーラム』の編集に携わった。建物や都市の計画を扱う雑誌で働きながら、彼女が関心を深めたのは、完成予想図の美しさよりも、実際にその場所を使う人びとの動きだった。
1958年、彼女は『フォーチュン』誌に「ダウンタウンは人びとのために」と題する論考を発表した。都市の中心を魅力ある場所にしようとする計画で、広場や高層建物を大きく配置しても、そこに人が歩き、働き、立ち寄る理由がなければ街は生き生きとしない。彼女が問題にしたのは、見た目の整った計画と、使われる場所との距離だった。
たとえば、昼は職場に来る人で賑わうが、夕方には誰もいなくなる街と、住宅、仕事場、店が入り交じり、時間によって異なる人が行き交う街とでは、通りの使われ方が違う。古い建物は単に「老朽化した建物」ではない。新しい建物より家賃が低ければ、資金に余裕のない商売が始められる場所にもなる。短い街区には角が増え、歩く人には道を選ぶ余地が生まれる。
こうした観察は1961年の『アメリカ大都市の死と生』に結びついた。歩道での見守り、住宅と仕事場の混在、短い街区、年代の違う建物といった条件を、彼女は都市の多様さを支えるものとして考えた。都心には改修が必要だと認めながらも、建物を整然と配置する前に、人がすでにどのように街を使っているかを知るべきだと考えた。
計画された街に、住民として異議を唱える
本に書いたことは、遠くの都市への批評では済まなかった。ジェイコブズが暮らしたグリニッジ・ヴィレッジ周辺にも、行政による都市改造の構想があった。ワシントン・スクエア公園を車道から守る運動、ウェスト・ヴィレッジを再開発対象にする方針への反対、のちのロウアー・マンハッタンを横切る高速道路計画への反対は、場所も時期も異なる争いである。
そのなかでジェイコブズは、近隣の住民や商店主らと集まり、委員会の活動に加わった。どの通りを使っているのか、家や店を失うことが何を意味するのか。行政が街を一つの計画区域として扱うとき、住民はそこにある生活の具体的な事情を示そうとした。冒頭の記者会見で彼女が掲げた書類も、そうした政治的な仕事の一場面として残っている。
この時代の道路・再開発計画を推進した有力者の一人がロバート・モーゼスである。自動車交通を通し、都市を近代化するという目標には当時の行政上の力が伴っていた。ジェイコブズは住民たちと資料を集め、地域の問題を公の場に持ち出した。モーゼスが公的な事業を動かす力を持っていたのに対し、彼女たちが頼りにしたのは、その場所で暮らす人や商売を営む人の知識と、共同して異議を申し立てる力だった。
公聴会の抗議と、国境を越える家族
1968年4月10日、ロウアー・マンハッタン横断道路計画をめぐる公聴会で、ジェイコブズは抗議に加わり、逮捕された。市の大きな計画を批判する書き手が、市民として手続きのあり方を争い、実際に警察に拘束されるところまで来ていた。1961年の著書が広く読まれるようになっても、ニューヨークでは道路計画をめぐる争いが続いていた。
同じ1968年、ジェイコブズは家族とカナダのトロントへ移住した。ベトナム戦争が続くアメリカで、子どもたちの徴兵をめぐる事情も移住の理由として伝えられている。住まいを変える決断は、家族のこれからを左右するものだった。だが、街の問題から離れるための移住にはならなかった。
トロントでも、彼女は道路建設をめぐる運動に参加した。スパダイナ高速道路の延伸に反対する市民の働きかけが続き、1971年にはオンタリオ州政府が、市中心部へ向かう高速道路の延伸計画を中止した。ニューヨークでの経験を持つ彼女が、今度は新たに住む街の問題に関わったのである。ここでも計画が変わったのは、多くの住民、団体、行政、政治家が関わった結果だった。
街の歩道から、都市の経済へ
ジェイコブズの活動は、高速道路への反対だけにとどまらない。1969年に刊行した『都市の原理』では、都市が新しい仕事を生み、それまでになかった産業を育てる仕組みを考えた。街の違う仕事や建物が隣り合うことへの関心は、都市の経済活動がどう発展するかという問いにつながった。
1984年の『発展する地域 衰退する地域』の原著では、豊かな地域と衰える地域の違いを、国単位の数字だけでは説明しきれないと考えた。都市や地域が新しい仕事を生み出せるかどうかに目を向けたのである。街の歩道や建物から始まった関心は、都市が仕事を増やす仕組みへ、さらに国境を越えた地域経済の違いへと広がっていった。
1996年には長年連れ添った夫ロバートが亡くなった。ジェイコブズはトロントに暮らし続け、晩年も記者の取材を受け、著作の発表を続けた。2004年、88歳の彼女は新著の紹介に出向き、耳に音を集める器具を使って質問に答えたと、没後の新聞記事は伝えている。同年には『壊れゆくアメリカ』の原著を刊行した。都市の設計から、仕事、経済、教育、社会の制度へ。1961年の本を刊行してから40年以上が過ぎても、彼女は新しい著作について人前で語り続けていた。
街が賑わえば、誰が住み続けられるのか
ジェイコブズの都市論は、その後、多くの建築家や都市計画家に読み継がれた。街の歩きやすさ、店と住宅の混在、歩道の安全などを大切にする発想は、かつて彼女が批判した計画の専門家たちにも共有されるようになった。その変化は彼女の仕事が与えた影響の大きさを示している。
一方で、街に活気があることと、そこに誰もが住み続けられることは同じではない。地域が注目され、商売が栄えるほど、家賃や土地の値段が上がり、もとからいた人が住めなくなる場合もある。2019年には都市研究者アンドリュー・カービーが、身近な街路での経験だけでは都市全体の不平等や、誰が恩恵を受けるかという問題を十分に論じられないと批判した。ジェイコブズが大切にした街路の活気と、そこに住み続けられる条件とは、重なりながらも別の問題である。
2006年4月25日、ジェイコブズはトロントの病院で89歳で亡くなった。後年は体調を崩していたと報じられている。ニューヨークの一つの地区をめぐって書類を掲げた女性は、やがて都市計画の教科書に載る思想家になった。それでも、1961年の写真を見ると、出発点の一つははっきりしている。誰かが街の未来を決めようとするとき、そこで暮らす人が実際に知っていることを、決定の場へ持ち込もうとしていたのだ。




