一人の人生を読む
「結婚しない」という選択だけでは、この人は分からない
シモーヌ・ド・ボーヴォワールの名前には、しばしばジャン=ポール・サルトルの名前が続く。
二人は結婚せず、生涯にわたって特別な関係を保ち、その一方で互いに別の恋愛を認めた。1929年には、自分たちを「本質的な愛」とし、それ以外の恋愛を「偶然的な愛」として認める取り決めをつくったことで知られている。
この関係だけでも、一人の人生について長く語れてしまう。けれど、ボーヴォワールを「自由恋愛をした女性」として読むだけでは、むしろ彼女が何を考え続けたのかが見えなくなる。
彼女の問いは、単に「私は自由か」ではなかった。
人は自由であろうとするとき、社会、身体、性別、他者、歴史から本当に自由でいられるのか。
その問題が、恋愛から『第二の性』へ、植民地主義へ、中絶へ、そして老いへと広がっていく。
「良家の娘」として育つ
1908年1月9日、ボーヴォワールはパリのブルジョワ家庭に生まれた。カトリック的な教育を受け、少女時代には信仰も強かった。しかし成長するにつれて宗教から離れ、自分が期待されている「良家の女性」の人生にも距離を置くようになる。
当時のフランスで、女性が高等教育を受け、結婚を生活の前提とせず、知的職業で生きていくことは現在ほど普通ではなかった。ボーヴォワールは哲学を学び、1929年、21歳で哲学のアグレガシオンに合格する。
その試験勉強の過程で出会ったのが、三歳年上のサルトルだった。二人は恋人であると同時に、互いの文章を読み、哲学を議論する相手になった。
後世、ボーヴォワールは長く「サルトルの思想を広めた女性」のように扱われることがあった。しかし現在の研究では、彼女自身の哲学的な独創性が強く再評価されている。二人は互いに影響し合った。だからといって、一人がもう一人の付属物だったわけではない。
「本質的な愛」と「偶然的な愛」
1929年、ボーヴォワールとサルトルは、普通の婚姻とは違う関係をつくろうとした。互いを生涯の中心的な相手としながら、他の恋愛関係も認める。原則として、その関係を互いに隠さない。
現在の言葉なら「オープン・リレーションシップ」や「非一夫一婦制」に近く見える。ただ、後から現代のカテゴリーをそのまま当てはめるのは慎重であるべきだろう。
なぜなら、その関係はきれいな理論どおりには進んでいないからである。
フランス国立図書館に残るボーヴォワールの1929〜30年の日記には、サルトルに精神的に依存しすぎている自分への苦しさや、彼から独立して生きることを求められたときの激しい動揺が記されている。
後年の「自由な二人」というイメージだけを見ると見えにくい部分だ。自由な関係を宣言したから、嫉妬も依存も傷つきも消えるわけではなかった。
そして二人は、その後それぞれ別の恋愛を持つ。ボーヴォワールは男性とも女性とも関係を持った。
人数を数えることには、あまり意味がない。
自由を制度として決めることと、感情として自由でいられることは同じではない。
これは、彼女の人生全体に残り続ける問題だった。
小説で、「他者」が自分の自由を壊す瞬間を書く
ボーヴォワールは学校で哲学を教えながら文章を書き続けた。1943年、35歳で『招かれた女』を刊行する。
この小説には、複数の人間の恋愛関係、嫉妬、自由、相手を自分の世界へ閉じ込めようとする欲望が描かれている。恋愛は、自分が自由になるための場所であると同時に、別の自由な人間が存在するために、自分の思い通りにならない場所でもある。
実存主義では「自由」という言葉がよく使われる。しかしボーヴォワールにとって、自由は「好きなことをする」という単純な意味ではなかった。
自分も自由なら、相手も自由である。そこから問題が始まる。
戦争のあと、「自由」は個人だけの問題ではなくなる
第二次世界大戦は、ボーヴォワールとサルトルの世界を大きく変える。戦後、二人は雑誌『レ・タン・モデルヌ』の中心に加わり、文学だけでなく政治、社会、植民地主義を論じるようになった。
1947年には『曖昧さの倫理学』を刊行する。人間は自由である。しかし、その自由は何もない空間に存在するわけではない。
生まれた時代、社会制度、他人との関係、身体、経済条件。その中で選ぶしかない。ボーヴォワールが重視した「状況」という考え方は、ここで大きな意味を持つ。
制約があるから自由がゼロになるわけではない。しかし「本人が選んだのだから全部本人の責任だ」と言えるわけでもない。
自由と制約は、同時にある。
アメリカで、サルトルではない人を深く愛する
1947年、ボーヴォワールはアメリカを旅し、シカゴの作家ネルソン・オルグレンと出会う。
二人の関係は数年にわたって続き、大量の手紙が残った。ボーヴォワールはパリとアメリカを行き来しながら、サルトルとの関係を維持し、同時にオルグレンにも強い愛情を持った。
「サルトルが本質的、その他は偶然的」という1929年の取り決めだけでは、この関係を簡単に説明できない。現在の研究でも、オルグレンはボーヴォワールにとって形式上の区分以上に重要な存在だったと考えられている。
この経験は後に小説『レ・マンダラン』の素材にもなる。ただし、小説は日記ではない。人生をそのまま写したのではなく、戦後の知識人が政治と愛情の間でどう生きるのかを、フィクションとして組み替えた。
1954年、この作品はゴンクール賞を受賞する。
41歳、「女であるとは、どういうことか」を調べる
1940年代後半、ボーヴォワールは自分の人生について考える中で、女であるとは何だったのか、という問いを深めていく。
調べ始めると、自分が生きてきた世界そのものが男性を基準に組み立てられていることが見えてきた。生物学、精神分析、歴史、文学、神話、労働、結婚、母性、性。さまざまな領域を調べた結果、1949年に二巻本の『第二の性』を刊行する。
この本の中心にあるのは、「女性には生まれつきこういう本質がある」と考えることへの疑いだった。女性がどのように「女性」として扱われ、期待され、教育され、自分自身を理解するようになるのか。それを個人の性格ではなく、歴史と社会の問題として考えた。
出版されると激しい反発を受けた。しかしその後、『第二の性』は20世紀フェミニズムの基礎的著作の一つになる。
少女時代に自分が拒もうとした「女性はこう生きるものだ」という規範が、巨大な研究テーマになった。
自分の人生そのものを、研究対象にする
1958年、ボーヴォワールは『ある良家の娘の回想』を刊行する。
これは単に有名人が過去を思い出す本ではない。自分はどうして今の自分になったのか。家庭、宗教、友情、教育、恋愛、読書。その一つ一つが、自分の選択とどうつながったのかをたどっていく。
その後も回想録は続く。フランス国立図書館には、若いころの日記と、後に書き直された回想録の原稿の両方が残っている。
人生を書くという行為そのものが、過去を編集し直す作業だったことも見えてくる。ボーヴォワールにとって自伝は、哲学の外側にある余談ではなかった。
一人の人間が、与えられた条件の中でどう自分になっていくかを考える方法でもあった。
アルジェリア戦争で、「他者」の問題が政治になる
1950年代末から60年代、フランスはアルジェリア独立戦争のただ中にあった。
1960年、アルジェリア人女性ジャミラ・ブーパシャがフランス軍による拷問と性的暴力を訴えた事件で、弁護士ジゼル・アリミとともに、ボーヴォワールは事件を公にするために動いた。
それまで考えてきた「他者」「自由」「状況」という問題が、植民地支配という具体的な暴力の中で問われた。
抽象的に「すべての人は自由だ」と言うだけでは足りない。ある人の選択肢そのものが、国家や軍隊によって物理的に奪われているとき、自由について何を言えるのか。
ボーヴォワールの政治的活動は、次第にそこへ向かっていった。
62歳、「老い」を社会の問題にする
1970年、ボーヴォワールは『老い』を刊行した。
女性について書いたときと同じように、老年についても「自然にそうなるだけ」とは考えなかった。身体は変化する。しかし、その身体を社会がどう扱うかは別の問題である。
仕事から退出させられること。経済的に依存すること。見えない人間として扱われること。老いにもまた、身体と社会が重なっている。
20代で「結婚して妻になる」という規範から距離を取った女性が、60代では「老人とは何か」という別の規範を調べている。問いの形は変わっても、やっていることはかなり一貫している。
63歳、自分が中絶したことを公にする
1971年4月、フランスの雑誌に、343人の女性による声明が掲載された。彼女たちは、自分が人工妊娠中絶を経験したと公言した。当時、フランスで中絶は違法だった。
声明を起草し、自ら署名した一人がボーヴォワールである。
これは「女性の自由」を抽象的に支持することとは違う。自分自身が法律違反をしたと公言することで、制度を変える運動へ参加した。
若いころのボーヴォワールは、必ずしも自分をフェミニスト運動の一員だとは考えていなかった。しかし『第二の性』出版後の社会変化と運動を通じ、1970年代には明確にフェミニストとして活動するようになる。
若いころには自分自身の生き方として始まった自由の問題が、ここでは法律や制度を変える政治運動にまで広がっている。
サルトルと「最後まで一緒」だった、だけではない
1980年、サルトルが死去する。二人は法的には夫婦ではなかった。それでも半世紀以上にわたり、互いの人生から消えることはなかった。
ボーヴォワールは晩年、サルトルの最後の年月について『別れの儀式』を書く。そして1986年4月14日、78歳で死去した。パリのモンパルナス墓地で、二人は同じ墓に眠っている。
この結末だけを見ると、1929年につくった関係がそのまま成功した物語のようにも見える。しかし、その間には、別の恋愛、嫉妬、依存、距離、政治的対立、戦争、老いがある。
だから「二人は自由恋愛を貫いた」とだけ書くと、人生をきれいにしすぎる。
自由とは、条件がないことではない
ボーヴォワールの人生には、何度も同じ構造が現れる。
結婚しないことを選べる。しかし、愛する相手から完全に自由にはなれない。
女性として別の人生を選べる。しかし、女性を取り巻く制度や期待は存在する。
政治的に声を上げることはできる。しかし、植民地支配や法律によって自由そのものを奪われる人もいる。
老いても自分であり続ける。しかし、社会は老人を別の存在として扱う。
彼女が考えた「状況」とは、こういうことだった。
人間は完全に決められているわけではない。同時に、何の条件もなく自由なわけでもない。その間で選び、失敗し、他者と衝突し、それでも自分の生をつくっていく。
サルトルとの関係も、『第二の性』も、343人の声明も、その問題の別々の場面だった。
ボーヴォワールの人生を一本の言葉でまとめるなら、「自由恋愛」ではない。
自由を、現実の中でどこまで生きられるのか。
その問いを、自分自身の人生まで材料にしながら考え続けた人だった。




