一人の人生を読む
哲学者になる前の十年
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルは1770年、南ドイツのシュトゥットガルトに生まれた。後に「ドイツ観念論」を代表する哲学者として知られるが、大学を出てすぐ教授になった人物ではない。18歳でテュービンゲン神学校に入り、詩人となるフリードリヒ・ヘルダーリン、哲学者となるフリードリヒ・シェリングと同じ環境で学んだあと、23歳から長く家庭教師として働いた。
最初はスイスのベルン、次いでフランクフルトで個人宅の子どもを教えた。宗教や政治についての草稿を書いてはいたが、まだ大学に職を持つ哲学者ではなかった。1801年、30歳を過ぎてからイェナへ移り、ようやく大学で哲学を教え始める。先に名声を得ていた年下のシェリングと近い立場から出発しながら、次第に独自の体系を形にしていった。
この時期のヘーゲルが考えていたのは、世界を動かない原理の一覧として説明することではなかった。意識や社会の形が矛盾や対立を含み、それまでの形を変えながら次の形へ移っていく。その運動そのものを哲学で捉えようとした。後に「弁証法」という語でまとめられることが多いが、単純な「正・反・合」の三段階に置き換えると、彼が追った複雑な運動はかえって見えにくくなる。
1806年10月13日、イェナ
36歳のヘーゲルは『精神現象学』の原稿を仕上げつつあった。ところが1806年秋、ナポレオン率いるフランス軍とプロイセン軍の戦争が、大学町イェナへ迫った。
10月13日、ヘーゲルは友人フリードリヒ・イマヌエル・ニートハンマーへ手紙を書いた。前夜には町の周辺で発砲が続き、その朝にはフランス軍の先遣隊が市内へ入ったことを記している。そして同じ手紙のなかで、皇帝ナポレオンが町を通って偵察へ出るところを見たとも報告した。後世に繰り返し語られる場面だが、ここで確実なのは、ヘーゲル自身がその日の手紙にそう書き残したということである。
同時に、彼が気にしていたのは歴史上の人物だけではなかった。出版社へ送った自分の原稿が無事に届くか、戦闘のなかで仕事をどう終えるかという問題も手紙には入り込んでいる。翌14日にはイェナ・アウエルシュテットの戦いが起き、プロイセン軍は大敗した。大きな歴史と、一冊の本を完成させようとする36歳の仕事が、同じ数日のなかで重なっていた。
1807年、『精神現象学』が刊行された。しかし、それによって安定した大学教授の地位が手に入ったわけではない。戦争の影響もあってイェナ大学での仕事を続けることは難しくなり、ヘーゲルは大学を離れることになる。
新聞をつくり、学校を運営する
イェナを離れたヘーゲルは、1807年にバンベルクで新聞の編集に携わった。翌1808年にはニュルンベルクのギムナジウム校長となる。哲学史の教科書では『精神現象学』から『大論理学』へと著作だけが並びやすいが、その間の彼は、十代の生徒が通う学校を運営する管理職でもあった。
1811年、41歳でマリー・フォン・トゥーハーと結婚した。ヘーゲルにはそれ以前、イェナ時代にクリスティアーネ・ブルクハルトとの間に生まれた息子ルートヴィヒもいた。家庭を持ち、学校長として働く時期に、1812年から1816年にかけて『大論理学』を刊行していく。
「哲学者」という職業だけを追うと、この時期は遠回りに見える。しかしヘーゲルが後に論じる教育、家族、市民社会、制度は、抽象語だけでできていたわけではない。だからといって学校運営の経験から特定の哲学命題が直接生まれたと断定することもできない。確認できるのは、彼が体系的な哲学を書いていた時期と、家庭や学校という制度の内部で働いていた時期が重なっていたということだ。
46歳で、ようやく教授になる
1816年、46歳のヘーゲルはハイデルベルク大学教授となった。翌1817年には『エンチクロペディー』を刊行し、論理学、自然哲学、精神哲学を一つの体系として示した。1818年にはベルリン大学へ移る。家庭教師として大学を離れてから二十年以上、イェナの職を失ってからも十年以上が過ぎていた。
ベルリンでヘーゲルは、法、歴史、宗教、美学、哲学史など幅広いテーマを講じた。1820年から21年にかけて刊行された『法の哲学』では、自由を個人が好きなことを選べる状態だけとして扱わず、権利、道徳、家族、市民社会、国家といった制度のなかで具体的な形を取るものとして考えた。
ここにはヘーゲル哲学の難しさもある。彼は近代社会が個人の自由を広げたことを重視する一方、自由が現実になるには他者との関係や制度が必要だと考えた。そのため彼の政治哲学は、近代的自由を理論化したものとも、国家を強く評価しすぎたものとも読まれてきた。一つの標語だけで片づけにくいのは、個人と社会をどちらか一方へ還元しようとしなかったからでもある。
歴史を、完成した結果からではなく運動として考える
ヘーゲルの名前と結びつく大きな主題の一つが「歴史」である。ただし、彼自身が生前に現在知られる形の『歴史哲学講義』を一冊の完成著作として出版したわけではない。ベルリンで繰り返した講義が、本人の草稿や学生の筆記をもとに死後編集され、広く読まれるようになった。
彼が歴史のなかで追った中心的な問題は自由だった。人間が自由であるという考えが、ただ頭のなかに存在するのではなく、法や政治、社会の制度としてどのように現れてきたのか。その過程を、異なる時代や社会の形を通して考えようとした。
この見方は、歴史上の出来事をすべて「進歩」として肯定することとは同じではない。ヘーゲルの体系には19世紀ヨーロッパから世界を見た限界もあり、その歴史記述は後世から多く批判されてきた。それでも、思想を時代から切り離さず、制度や社会の変化そのものを哲学の問題にしたことは、その後の思想に大きな影響を残した。マルクスをはじめ、ヘーゲルを批判した思想家たちもまた、彼が立てた問題を無視することはできなかった。
学生が残した「最後の講義」
1829年、59歳のヘーゲルはベルリン大学の学長となった。60歳を過ぎても講義を続け、1831年11月10日と11日にも教壇に立っている。
その講義を聞いていた若い学生の一人が、後に『イエスの生涯』で知られるダーフィト・フリードリヒ・シュトラウスだった。シュトラウスが取った講義ノートが残されている。これはヘーゲル本人の自筆原稿ではない。学生が教室で聞いた言葉を書き留めた資料であり、ベルリン時代の哲学が講義という場を通して伝えられていたことを示す記録である。
その数日後、ヘーゲルは急に病み、11月14日に61歳で死去した。当時ベルリンではコレラが流行しており、長く死因もコレラとされてきたが、現在はその診断を確定的に扱わない研究・資料もある。ここでは流行下での死だったというところまでにとどめる。
死後、弟子や学生たちは講義録を編集し、歴史哲学、美学、宗教哲学、哲学史などを刊行した。そのため、私たちが「ヘーゲルの著作」として出会うものには、本人が完成させて出版した本と、教室で語られた内容を死後に編集した本が混在している。
遅れて形になった哲学者
ヘーゲルがベルリン大学教授になったのは48歳だった。20代は家庭教師、30代後半には新聞編集者、38歳からは学校長を務めている。『精神現象学』を書いたあとでさえ、現在知られる「大哲学者」の地位がすぐに与えられたわけではなかった。
その生涯の途中には、フランス革命後のヨーロッパ、ナポレオン戦争、ドイツ諸邦の政治秩序、近代大学の形成があった。ヘーゲルはそうした歴史を背景として哲学を書いただけではなく、意識や自由や社会そのものが、時間のなかで形を変えることを哲学の中心に置いた。
1831年の肖像に描かれたのは、完成した体系を最初から持っていた若者ではない。家庭教師から大学へ入り、戦争で職場を失い、新聞と学校で働き、40代半ばを過ぎて教授となった人物である。ヘーゲルの哲学が歴史を重く見るのと同じように、その哲学者自身の姿も、そこへ至る時間を含めて見るほうがよく分かる。



