一人の人生を読む
二度のノーベル賞を取っても、研究材料が足りなかった
1920年ごろ、マリー・キュリーはすでに世界でもっとも有名な科学者の一人だった。
1903年にノーベル物理学賞。1911年にノーベル化学賞。
二つの異なる科学分野でノーベル賞を受けた。
それでも、パリの研究所には研究を続けるためのラジウムが十分になかった。
ラジウムは非常に高価になっていた。一方、キュリー夫妻はラジウムの製造法を特許で囲い込まず、研究成果を広く使える形にしていた。
1921年、アメリカの女性たちが10万ドルを集め、研究用のラジウム1グラムを用意した。マリーは二人の娘と米国へ渡り、ホワイトハウスでハーディング大統領から、その研究資源を受け取る。
世界的な名声があっても、科学は名声だけでは続かない。
場所がいる。材料がいる。設備がいる。一緒に働く人がいる。
マリー・キュリーの人生は、「二度ノーベル賞を取った天才」の話として有名になった。しかし66年をたどると、発見のあとに彼女が長く取り組んだのは、科学を続けるための条件そのものをつくる仕事でもあった。
24歳、大学へ行くために国を出る
1867年11月7日、マリア・スクウォドフスカはワルシャワに生まれた。
当時のワルシャワはロシア帝国の支配下にあった。両親は教育に関わる仕事をしており、家庭には学ぶことを重視する空気があった。
ただし、学ぶ力があればそのまま大学へ進めるわけではない。
当時のポーランドで、女性が正式な大学教育を受ける道は大きく制限されていた。
姉ブローニャが先にパリで学び、マリアは家庭教師として働きながら姉を支える。その後、自分が学ぶ番が来る。
1891年、24歳でパリへ移った。
ソルボンヌで物理と数学を学ぶ。
ここで「マリー・キュリー」という科学者の人生が始まるが、その出発点は、才能を発見されたことではない。
学べる場所へ、自分から移動したことである。
ピエールと出会う前に、研究課題を選ぶ
1894年、マリーはピエール・キュリーと出会った。
ピエールはすでに磁性や結晶を研究していた物理学者だった。二人は1895年に結婚し、その後、放射能研究を共同で進める。ただ、その研究の出発点はマリー自身にあった。
マリー自身の1903年の博士論文を読むと、その順番が分かる。
1896年、アンリ・ベクレルがウランから未知の放射線が出ていることを発見した。
マリーはこの現象を自分の研究課題に選び、さまざまな物質の放射能を測り始めた。
その結果があまりに興味深かったため、ピエールはそれまで進めていた研究をいったん中断し、マリーの研究へ加わったと、本人が書いている。
共同研究だったことと、研究の始まりがマリー自身にあったことは、両立する。
30歳、鉱石の「余分な放射能」を追う
マリーが調べた鉱石の中に、含まれているウランだけでは説明できないほど強い放射能を示すものがあった。
もし測定が間違っていないなら、そこにはまだ知られていない別の元素が含まれているはずだった。
マリーとピエールはピッチブレンドを調べ、1898年、まずポロニウム、続いてラジウムという新しい放射性元素の存在を発表する。
存在を示すことと、実際にその物質を取り出すことは別だった。
マリーは大量の鉱石を何度も化学的に分離し、放射能を測り、少しずつラジウムを濃縮していった。
1903年、その研究を博士論文としてまとめる。
同じ年、マリー、ピエール、ベクレルの三人にノーベル物理学賞が贈られた。
ただ、受賞によって研究環境まで整ったわけではなかった。
発見の大きさに対して、研究環境の方が追いついていなかったのである。
名声が高まるほど、訪問者や講演依頼が増え、静かに研究する時間も失われていく。マリー自身も後年、その負担を書き残している。
38歳、共同研究者を突然失う
1906年4月19日、ピエールはパリで馬車にひかれ、突然死亡した。
マリーは夫を失っただけではない。
約十年にわたって研究をともにした共同研究者も失った。
その後、マリーはピエールが担当していた研究室と大学での仕事を引き継ぐ。
同年11月5日、ソルボンヌの物理学講堂には、多くの学生だけでなく報道関係者まで集まった。
マリー・キュリーが初めて講義をする日だった。
この場面は、後世の伝記でしばしば劇的に描かれてきた。
しかし、キュリー博物館(Musée Curie)の記録から確実に言えることだけでも十分に大きい。
ピエールが亡くれてから半年余り。マリーは彼の研究室を引き継ぎ、同じ大学で放射能について教え始めた。
1908年には、その講座で初の女性正教授になる。
共同研究の一員だった人が、研究を続けるだけでなく、研究室と教育を率いる立場へ移っていった。
1911年、科学の評価と私生活の評価が同じ場所に流れ込む
1911年は、マリーの人生でもっとも奇妙な年の一つである。
1月、フランス科学アカデミーの会員選挙に立候補した。
すでにノーベル賞を受けた研究者だったが、僅差で落選する。選挙前後の新聞には、女性であること、外国生まれであることを問題にする攻撃が広がった。
さらに秋になると、物理学者ポール・ランジュヴァンとの関係をめぐって報道が激化した。
ランジュヴァンは結婚していたが、夫婦関係はすでに悪化していた。彼の部屋から手紙が盗まれ、それが新聞へ渡る。
マリーは「外国から来てフランス人の夫を奪った女」のように描かれ、家の前まで人が集まるほど攻撃された。
ここで注意が必要なのは、二人の関係を後世から簡単に確定できないことである。
ノーベル賞公式サイト(Nobel Prize)の歴史記事も、マリーとランジュヴァンの関係が正確にどのようなものだったのかは確実には分からないとしている。
確認できるのは、関係をめぐる報道が起こり、手紙が盗まれ、彼女の国籍や性別まで含めた激しい社会的攻撃へ発展したことだ。
そして、その最中に、マリーは二度目のノーベル賞を受ける。
今度は化学賞だった。
私生活の報道を理由に授賞式へ来ない方がよいという働きかけまであった。マリーは、科学的業績の価値を私生活への中傷によって左右するという考えを受け入れず、ストックホルムへ向かった。
1911年のマリー・キュリーには、「科学者」と「女性」と「外国出身者」と「私生活を持つ個人」という別々の評価が、一度に押し寄せている。
発見するだけでは、研究分野は残らない
1909年、パリ大学とパスツール研究所は、放射能を研究するラジウム研究所の設立で合意した。
物理・化学部門を率いるのがマリーだった。
施設が整うころ、第一次世界大戦が始まる。
戦争は研究所の予定を大きく変えた。
マリーはX線を使って負傷兵の体内にある弾丸や骨折の位置を調べるため、放射線設備を病院や前線近くへ運ぶ活動に入った。
大型病院だけに装置を置くのではなく、自動車にX線設備を積み、必要な場所へ移動できるようにする。さらに装置を使える技術者や看護師を育てる。
娘イレーヌもこの活動に加わった。
放射能研究は、実験室の中だけの問題ではなくなっていた。
戦後には、研究と治療を支えるキュリー財団も設立される。
マリーの仕事は、一つの物質を発見することから、その物質と放射線を研究し、教え、医療へ使い、次の研究者が働ける場所をつくることへ広がっていった。
53歳、世界的な科学者が「ラジウムをください」と言う
それでも研究資源は足りなかった。
キュリー夫妻は、ラジウムの製造法を特許で独占しなかった。
研究成果は科学全体で使えるべきだという考えがあった。
しかしラジウムの価格は上がり、マリーの研究所が自由に使える量は少なかった。
アメリカのジャーナリスト、マリー・メロニーがその状況を知り、女性たちから10万ドルを集めるキャンペーンを始める。
1921年5月20日、マリーはホワイトハウスへ行った。
贈られたのは、研究用のラジウム1グラムだった。実物は安全上その場には置かれず、米国の標準機関が測定し、輸送の準備をしている。
米国国立標準技術研究所(NIST)には、そのときの計量と梱包の記録が残っている。
興味深いのは、ここにいるマリーが「成功した科学者」として研究費から自由になっていないことである。
科学的な発見が世界へ広がることと、その発見者の研究所に材料が集まることは、同じではない。
研究を続けるには、誰かが資金を集め、誰かが材料を精製し、誰かが測定し、誰かが研究所を維持しなければならない。
二度のノーベル賞のあとにも、その仕事は残っていた。
「女性初」より長い人生を見る
マリー・キュリーには、「女性初」という記録が多い。
女性初のノーベル賞受賞者。ソルボンヌで同講座初の女性正教授。そして、二つの異なる科学分野でノーベル賞を受けた人物。
どれも重要な事実である。
ただ、それだけを並べると、人生が記録更新の一覧になってしまう。
ワルシャワでは、学ぶために国を出る必要があった。
パリでは、自分で研究課題を選んだ。
ピエールと共同研究をつくった。
ピエールが死ぬと、研究室と教育を引き受けた。
社会から攻撃されても研究を続けた。
戦争が始まると、X線装置を研究室の外へ運んだ。
世界的に有名になった後には、研究材料を得るために大西洋を渡った。
1934年7月4日、マリー・キュリーは66歳で死去した。
この66年では、一つの問題を越えるたびに、次の条件が必要になった。
研究を始めれば、共同する人が必要になる。
発見すれば、それを確かめ続ける場所が必要になる。
教えるなら、次の研究者が必要になる。
医療へ使うなら、装置を動かす人が必要になる。
研究所を持てば、材料と資金が必要になる。
マリー・キュリーが生涯を通して増やしていったのは、賞の数だけではなかった。
科学を続けられる条件そのものだった。




