Hegelroom / Biography

Henry Ford

自動車産業 / ミシガン州 / 1863–1947

自動車を大衆に渡した男は、決める力まで大衆に渡したわけではなかった。

1919年頃のヘンリー・フォードの白黒肖像写真
Hartsook / Library of Congress / Wikimedia Commons / Public domain in the United States as marked by Wikimedia Commons (PD-US).
1863Born
1947Died
83Age
自動車産業Field

02 / Profile

ヘンリー・フォードとは?

ヘンリー・フォード(1863–1947)は、自動車を発明した人物ではない。T型フォードと生産システムの再設計によって、自動車を一部の富裕層だけのものから大衆商品へ変えた産業家である。同時に、5ドル日給と家庭への監視、息子エドセルとの権限関係、フォードランディア、労働組合との衝突、ディアボーン・インディペンデントによる反ユダヤ主義宣伝まで、豊かさを広げる力と権力を集中させる力が同じ生涯に並んだ。

生誕
1863年7月30日
死去
1947年4月7日
年齢
83歳
出生地
アメリカ合衆国ミシガン州ウェイン郡スプリングウェルズ・タウンシップ
活動地域
ミシガン州、デトロイト、ディアボーン、ブラジル・アマゾン
分野
自動車産業、生産システム、経営、社会思想

03 / Life

一人の人生を読む

5ドルを求めて、人が工場へ集まった

1914年1月。ミシガン州ハイランドパークのフォード・モーター(Ford Motor Company)工場の外に、仕事を求める大勢の人が集まった。その光景は写真に残っている。

理由は、会社が発表した新しい報酬制度だった。

それまでの基本的な日給は2ドル34セントで、労働時間は9時間。フォードは、条件を満たす労働者に利益分配を加えて1日5ドル、8時間とする制度を打ち出した。金額は従来の倍を超えた。

なぜ、そこまで払う必要があったのか。

前年から本格化していた移動式組立ライン(moving assembly line)は、生産を驚くほど速くした。一方で、同じ作業をラインの速度に合わせて繰り返す仕事を嫌い、辞める労働者も続出した。フォード史の資料を所蔵するフォード博物館(The Henry Ford)の資料では、1913年末の労働者の入れ替わり率は380%に達していたとされる。

5ドル制度は、従来より大きな収入を労働者にもたらした。同時に、それは無条件の贈り物でもなかった。

会社の社会部(Sociological Department)は、高い報酬の対象となる従業員が会社の定める生活基準を満たしているか調べた。調査員は予告なく家庭を訪れ、家の清潔さ、間借り人、子どもの就学、銀行への貯蓄まで確認した。

高い賃金を払う会社が、家の中まで入ってくる。

ヘンリー・フォードの生涯には、この二つが何度も同時に現れる。

多くの人へ豊かさを届けること。そして、その仕組みを自分の考える正しい形へそろえること。

農場を継ぐより、機械を触りたかった

ヘンリー・フォードは1863年7月30日、ミシガン州ウェイン郡の農家に生まれた。父ウィリアム、母メアリーの六人の子どもの長男だった。

農家の跡を継ぐ道はあったが、フォードが強く惹かれたのは機械だった。1879年、16歳で農場を離れ、デトロイトの機械工場で働き始める。1882年にいったん戻った後も、農作業そのものより、農家で使う蒸気機関の整備や工場仕事、木材の仕事に時間を使った。

1888年にはクララ・ブライアントと結婚した。1891年、二人はデトロイトへ移り、フォードはエジソン照明会社(Edison Illuminating Company)の技師として働き始める。1893年には主任技師となり、同じ年に一人息子エドセルが生まれた。

仕事のかたわら、フォードは内燃機関を使った車を作っていた。1896年、四つの自転車用車輪をつけた最初の自走車クアドリサイクル(Quadricycle)を完成させる。

しかし、自動車を動かせることと、自動車会社を経営できることは別だった。

1899年に設立したデトロイト自動車会社(Detroit Automobile Company)は約18か月で行き詰まった。次のヘンリー・フォード社(Henry Ford Company)でも出資者との方針対立から離れることになる。

1903年6月16日。三度目の自動車事業としてフォード・モーターが設立された。

フォードは39歳になっていた。

高価な自動車を、大衆の商品へ変える

当時、自動車そのものはフォードの発明ではなかった。アメリカでもヨーロッパでも、すでに多くの人が自動車を作っていた。

フォードが変えたのは、誰がそれを持てるかだった。

1908年に登場したT型フォード(Model T)は、丈夫で扱いやすく、量産しやすい車として設計された。フォード・モーターの技術者や現場は、部品の標準化、工作機械の配置、作業の分割を組み合わせ、1913年には移動式組立ラインを各工程へ広げていく。

以前は一台のシャシーを組み立てるのに12時間半ほどかかっていた。1914年初めには、それが約93分まで短縮された。

時間が短くなれば、一台あたりのコストも下げられる。

1908年から1927年までにT型フォードは1500万台以上生産された。価格は初期の約850ドルから、後期には仕様によって260ドルほどまで下がった。

かつて一部の人の高価な機械だった自動車が、普通の家庭でも手の届く商品になっていく。

これはフォードとフォード・モーターが社会に起こした大きな変化だった。

ただし、安い自動車が工場の外へ出ていくほど、工場の中では人の仕事も細かく標準化されていった。

ハイランドパーク工場の組立ラインから出てくるT型フォードの車列
ハイランドパーク工場のT型フォード生産ライン。大量生産が自動車の価格と生産時間を大きく変えた。 — Library of Congress / Wikimedia Commons / Public domain in the United States; no known restrictions on publication.

豊かさを渡す。生活の形まで決める

フォード・モーターは5ドル制度に加え、1926年には工場労働者へ週5日・40時間制を導入した。

高い賃金、短い労働時間、安い商品。

フォードが産業を通して広げようとした「豊かさ」は、かなり具体的だった。

1922年、フォードはジャーナリストのサミュエル・クローザー(Samuel Crowther)と『私の人生と事業(My Life and Work)』をまとめた。その中には「民主主義と産業(Democracy and Industry)」という章がある。

そこで語られる民主主義(democracy)は、会社の経営者を労働者が投票で選ぶという意味ではない。フォードは、人が能力に応じて機会を得られること、産業が人びとへ奉仕すること、良い商品を安く供給することを重く見ていた。

フォードにとって産業の社会的価値は、「誰が会議で決めるか」より、「何を、どれだけ多くの人へ届けられるか」に強く置かれていた。

T型フォードの大衆化には、その考えがはっきり表れていた。

一方、社会部では、会社が従業員の家庭の清潔さや貯蓄まで評価した。

豊かな生活を可能にする賃金を渡しながら、どんな生活が望ましいかについても会社が答えを持つ。

フォードの仕組みでは、この二つは矛盾ではなく、同じ政策の一部として置かれていた。

息子を社長にしても、支配は渡さなかった

1919年、25歳のエドセル・フォードがフォード・モーターの社長になった。

肩書だけを見れば、世代交代だった。

しかし、フォード博物館は、ヘンリーが会社への実際の支配を完全には手放さなかったと説明している。幼いころには親密だった父子関係も、二人が年齢を重ねるにつれて緊張していった。

エドセルは父の影にいるだけの人物ではなかった。

1927年に登場したA型フォード(Model A)では色、スタイル、内装に大きく関わり、安全ガラスの採用を進めた。のちにはマーキュリー(Mercury)部門の創設にもつながる市場判断をした。デトロイト美術館ではディエゴ・リベラ(Diego Rivera)に「デトロイト産業(Detroit Industry)」の壁画を依頼している。

会社を大きくした父と、その会社を別の方向へ動かそうとする息子。

ヘンリーは社長の椅子を渡した。しかし、決める力まで同じように渡したわけではなかった。

世界の問題にも、自分の方法で手を伸ばした

フォードの関心は自動車会社の中だけに収まらなかった。

1915年、第一次世界大戦が続く中、フォードは客船オスカー2世号(Oscar II)を自費でチャーターした。市民の仲介団をヨーロッパへ送り、戦争を終わらせようとする「平和船(Peace Ship)」である。

だが、参加者同士の対立や報道の支持低下もあり、計画は失敗した。

フォードはその後も、自分の資本と組織を使って、工場の外の社会問題へ働きかけた。

その大きな試みの一つが、1928年からブラジル・アマゾンで進めたゴム農園だった。

フォードランディア(Fordlandia)には二つの目的があった。タイヤに必要なゴムを自社で安定調達すること。そして、そこで働くブラジル人に会社が考える「よりよい生活」を提供することだった。

賃金は比較的高く、住宅、食事、医療施設、店、娯楽施設も整えられた。

一方で、仕事の時間や生活にはディアボーン(Dearborn)式の規則が持ち込まれた。現地の習慣と合わない生活様式への介入も起きた。農業面でも、初期の管理者に熱帯農業の専門知識が乏しく、雨、土壌、害虫、葉の病気に苦しんだ。

後に下流のベルテラ(Belterra)へ中心を移すと、管理者は食事や娯楽などで現地習慣を以前より受け入れた。生産は改善したが、フォードが必要とした量には届かなかった。

1945年、フォード・モーターはブラジルのゴム事業を政府へ譲渡した。投資総額は約2000万ドル、譲渡額は25万ドルだった。

ハイランドパーク(Highland Park)では大きな成果を生んだ「標準化して大規模に動かす」という方法が、別の土地では同じ結果を生まなかった。

新聞と販売網で、反ユダヤ主義を広げた

フォードは工場の外にも、大きな発信手段を持っていた。

1918年、彼は週刊紙『ディアボーン・インディペンデント(The Dearborn Independent)』を買収した。1920年から同紙は「国際ユダヤ人(The International Jew)」と題した反ユダヤ主義の記事シリーズを掲載し始める。

内容は、ユダヤ人が政治、金融、メディアなどを秘密裏に支配しているという虚偽の陰謀論だった。偽書『シオン賢者の議定書』の影響も取り込まれていた。

記事の多くは記者らによって書かれたが、フォードは新聞の所有者であり、その活動を支えた。自動車販売店のネットワークは、新聞の配布にも使われた。

反発も起きた。ユダヤ系の農業協同組合運動家で弁護士のアーロン・サピロ(Aaron Sapiro)は、新聞に名誉を傷つけられたとしてフォードらを訴えた。1927年、裁判は評決に至らず終わったが、その後フォードは謝罪文に署名し、『ディアボーン・インディペンデント』を閉鎖した。

しかし、冊子化された『国際ユダヤ人』は国外でも流通を続けた。

ドイツではアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)を含むナチ党指導者がフォードの反ユダヤ主義を賞賛した。1938年、フォードはナチ政権から外国人に与える高位の勲章、ドイツ鷲勲章大十字章を授与されている。

フォードが築いた大規模な組織と流通網は、自動車を広げる力になった。同じ影響力は、新聞を通じて虚偽と偏見を広げる方向にも使われた。

高い賃金と、組合を認めることは別だった

フォード・モーターが労働者へ高い賃金を払ったことと、労働者が会社と対等に交渉する組織を持つことは、フォードにとって同じ話ではなかった。

会社は長く全米自動車労働組合(United Auto Workers、UAW)の承認を拒んだ。

1937年5月26日。ルージュ(Rouge)工場の歩道橋で、組合活動のビラを配ろうとした全米自動車労働組合の組織者たちにフォード・サービス部門(Ford Service Department)の男たちが襲いかかった。

ウォルター・ルーサー(Walter Reuther)、リチャード・フランケンスティーン(Richard Frankensteen)らが暴行を受け、その写真は広く報じられた。「歩道橋の戦い(Battle of the Overpass)」と呼ばれるこの事件は、フォードの労組組織化をめぐる争いの象徴になった。

フォード・モーターが全米自動車労働組合と労働協約を結ぶのは1941年である。これは組合員であることを雇用条件とするクローズド・ショップ協約(closed-shop contract)で、12万3000人の従業員を対象とした。

5ドル制度から27年が過ぎていた。

会社が労働者に多く払うことと、労働者が集団として会社の決定へ力を持つこと。その二つの距離が、ここでははっきり見える。

息子が先に死に、孫へ会社が渡った

1943年5月26日、エドセルは胃癌のため49歳で死去した。

フォード・モーターは葬儀の日に操業を止め、追悼した。ヘンリーは、息子の死後に再び会社の社長になった。

しかし、すでに79歳だった。

二年後の1945年、ヘンリーは孫のヘンリー・フォード2世を後継の社長に推薦し、自らは退いた。同じ年、ブラジルのゴム事業も手放された。

1947年4月7日、ヘンリー・フォードはディアボーンの自宅フェア・レーン(Fair Lane)で脳出血の後に死去した。83歳だった。そばにはクララと家のスタッフがいた。

自動車を渡すことと、決める力を渡すこと

フォードが変えたものは大きい。

T型フォードは、高価だった自動車を大量の人が買える商品へ変えた。移動式組立ラインは製造の時間と価格を大きく変えた。5ドル制度や40時間週は、工場労働者の所得と時間にも影響を与えた。

一方で、社会部は家庭まで調べ、エドセルが社長になっても父は実権を保持し、フォードランディアでは「よりよい生活」の形を会社が決め、全米自動車労働組合の組織化には長く抵抗した。新聞と販売網を使った反ユダヤ主義の拡散では、大きな組織力そのものが人を傷つける方向へ使われた。

フォードは「多くの人が持てるようにする」という問題には、産業史に残る巨大な答えを出した。

しかし、「その仕組みを誰が決めるのか」という問題には、同じ答えを出さなかった。

その二つは、同じ生涯の中で最後まで重ならなかった。

04 / Timeline

時間の輪郭

  1. 1863年7月30日0歳

    ミシガン州ウェイン郡の農家に生まれる

  2. 187916歳

    農場を離れ、デトロイトで機械工の仕事を始める

  3. 1888年4月11日24歳

    クララ・ブライアントと結婚する

  4. 189128歳

    エジソン照明会社(Edison Illuminating Company)で働き始める

  5. 1893年11月6日30歳

    一人息子エドセルが生まれる

  6. 189632歳

    最初の自走車クアドリサイクル(Quadricycle)を完成させる

  7. 189936歳

    デトロイト自動車会社(Detroit Automobile Company)を設立するが、約18か月後に失敗する

  8. 1903年6月16日39歳

    フォード・モーター(Ford Motor Company)を設立する

  9. 190845歳

    T型フォード(Model T)を発売する

  10. 1913–191450歳前後

    移動式組立ラインを本格化し、1914年に5ドル・8時間の制度を発表する

  11. 191552歳

    第一次世界大戦を止めようと平和船(Peace Ship)を欧州へ送る

  12. 191955歳

    エドセルがフォード・モーター(Ford Motor Company)社長となるが、ヘンリーは実権を完全には手放さない

  13. 192056歳

    所有する『ディアボーン・インディペンデント(Dearborn Independent)』で反ユダヤ主義シリーズ『国際ユダヤ人(The International Jew)』の掲載が始まる

  14. 192662歳

    工場労働者に週5日・40時間制を導入する

  15. 192763歳

    名誉毀損訴訟の後に謝罪文へ署名し、『ディアボーン・インディペンデント』を閉鎖する

  16. 1928–194564–81歳

    ブラジルでフォードランディア(Fordlandia)とベルテラ(Belterra)のゴム農園事業を進める

  17. 1937年5月26日73歳

    ルージュ工場でフォード・サービス部門(Ford Service Department)の男たちが全米自動車労働組合(UAW)の組織者を襲撃する『歩道橋の戦い(Battle of the Overpass)』が起きる

  18. 194177歳

    フォード・モーター(Ford Motor Company)が全米自動車労働組合(UAW)と労働協約を締結する

  19. 1943年5月26日79歳

    エドセルが49歳で死去し、ヘンリーが再び社長になる

  20. 194582歳

    孫ヘンリー・フォード2世へ社長職を移す

  21. 1947年4月7日83歳

    フェア・レーン(Fair Lane)で脳出血の後に死去する

05 / Works

大量生産だけではない、フォードがつくった仕組み

01

自動車・生産 / 1908–1927

T型フォード(Ford Model T)

1500万台以上が生産され、量産の進展とともに価格が大きく下がった。自動車の大衆化を象徴する製品となった。

02

生産システム / 1913–

移動式組立ライン(moving assembly line)

部品供給と作業を流れに沿って再配置し、生産時間を劇的に短縮した一方、作業速度をラインが規定する労働環境も生んだ。

03

労務制度 / 1914

5ドル日給/社会部

高い報酬と8時間労働を提示したが、利益分配(profit-sharing)の資格判定では従業員の家庭生活や貯蓄まで調査した。

04

著作 / 1922

私の人生と事業(My Life and Work)

サミュエル・クローザーとの共同名義で、産業、賃金、価格、奉仕、民主主義についてフォードの公的な自己像と思想を示した。

05

海外事業・社会設計 / 1928–1945

フォードランディア/ベルテラ(Fordlandia / Belterra)

ゴム供給と労働者の生活改善を同時に目指したが、現地の文化・生態条件に合わない統制や農業上の問題に直面した。

06 / Conditions

ヘンリー・フォードの人生をつくったもの

  • 01

    大量生産と大衆化

    高価だった自動車を、標準化と大量生産によって多くの人が買える商品へ変えた。

  • 02

    高賃金と生活管理

    高い賃金と短い労働時間を進める一方、その条件として従業員の家庭生活にまで会社が介入した。

  • 03

    豊かさと権力

    商品へのアクセスは広げたが、会社の意思決定や労働者の組織化、息子への権限移譲では強い統制を手放さなかった。

  • 04

    公共への影響と加害

    平和運動や社会改革を試みる一方、自らの新聞と販売網を使って反ユダヤ主義の陰謀論を広く流通させた。

07 / Read more

もっと知る

本、一次資料、アーカイブ、場所へ。ここから先は、その人を自分でたどるための入口です。

このセクションにはアフィリエイトリンクが含まれます。リンク経由の購入等により、当サイトが紹介料を受け取る場合があります。詳しく見る

Book / Further reading

『明日の君は、どこにいる?』書影

この図書館の背景にある本

『明日の君は、どこにいる?』

「自分の人生、このままでいいのか?」。この本は、その答えを教える本ではありません。先人たちの迷いや選択をたどりながら、自分ならどう生きるかを考えていく物語です。

本について詳しく見る