一人の人生を読む
5ドルを求めて、人が工場へ集まった
1914年1月。ミシガン州ハイランドパークのフォード・モーター(Ford Motor Company)工場の外に、仕事を求める大勢の人が集まった。その光景は写真に残っている。
理由は、会社が発表した新しい報酬制度だった。
それまでの基本的な日給は2ドル34セントで、労働時間は9時間。フォードは、条件を満たす労働者に利益分配を加えて1日5ドル、8時間とする制度を打ち出した。金額は従来の倍を超えた。
なぜ、そこまで払う必要があったのか。
前年から本格化していた移動式組立ライン(moving assembly line)は、生産を驚くほど速くした。一方で、同じ作業をラインの速度に合わせて繰り返す仕事を嫌い、辞める労働者も続出した。フォード史の資料を所蔵するフォード博物館(The Henry Ford)の資料では、1913年末の労働者の入れ替わり率は380%に達していたとされる。
5ドル制度は、従来より大きな収入を労働者にもたらした。同時に、それは無条件の贈り物でもなかった。
会社の社会部(Sociological Department)は、高い報酬の対象となる従業員が会社の定める生活基準を満たしているか調べた。調査員は予告なく家庭を訪れ、家の清潔さ、間借り人、子どもの就学、銀行への貯蓄まで確認した。
高い賃金を払う会社が、家の中まで入ってくる。
ヘンリー・フォードの生涯には、この二つが何度も同時に現れる。
多くの人へ豊かさを届けること。そして、その仕組みを自分の考える正しい形へそろえること。
農場を継ぐより、機械を触りたかった
ヘンリー・フォードは1863年7月30日、ミシガン州ウェイン郡の農家に生まれた。父ウィリアム、母メアリーの六人の子どもの長男だった。
農家の跡を継ぐ道はあったが、フォードが強く惹かれたのは機械だった。1879年、16歳で農場を離れ、デトロイトの機械工場で働き始める。1882年にいったん戻った後も、農作業そのものより、農家で使う蒸気機関の整備や工場仕事、木材の仕事に時間を使った。
1888年にはクララ・ブライアントと結婚した。1891年、二人はデトロイトへ移り、フォードはエジソン照明会社(Edison Illuminating Company)の技師として働き始める。1893年には主任技師となり、同じ年に一人息子エドセルが生まれた。
仕事のかたわら、フォードは内燃機関を使った車を作っていた。1896年、四つの自転車用車輪をつけた最初の自走車クアドリサイクル(Quadricycle)を完成させる。
しかし、自動車を動かせることと、自動車会社を経営できることは別だった。
1899年に設立したデトロイト自動車会社(Detroit Automobile Company)は約18か月で行き詰まった。次のヘンリー・フォード社(Henry Ford Company)でも出資者との方針対立から離れることになる。
1903年6月16日。三度目の自動車事業としてフォード・モーターが設立された。
フォードは39歳になっていた。
高価な自動車を、大衆の商品へ変える
当時、自動車そのものはフォードの発明ではなかった。アメリカでもヨーロッパでも、すでに多くの人が自動車を作っていた。
フォードが変えたのは、誰がそれを持てるかだった。
1908年に登場したT型フォード(Model T)は、丈夫で扱いやすく、量産しやすい車として設計された。フォード・モーターの技術者や現場は、部品の標準化、工作機械の配置、作業の分割を組み合わせ、1913年には移動式組立ラインを各工程へ広げていく。
以前は一台のシャシーを組み立てるのに12時間半ほどかかっていた。1914年初めには、それが約93分まで短縮された。
時間が短くなれば、一台あたりのコストも下げられる。
1908年から1927年までにT型フォードは1500万台以上生産された。価格は初期の約850ドルから、後期には仕様によって260ドルほどまで下がった。
かつて一部の人の高価な機械だった自動車が、普通の家庭でも手の届く商品になっていく。
これはフォードとフォード・モーターが社会に起こした大きな変化だった。
ただし、安い自動車が工場の外へ出ていくほど、工場の中では人の仕事も細かく標準化されていった。
豊かさを渡す。生活の形まで決める
フォード・モーターは5ドル制度に加え、1926年には工場労働者へ週5日・40時間制を導入した。
高い賃金、短い労働時間、安い商品。
フォードが産業を通して広げようとした「豊かさ」は、かなり具体的だった。
1922年、フォードはジャーナリストのサミュエル・クローザー(Samuel Crowther)と『私の人生と事業(My Life and Work)』をまとめた。その中には「民主主義と産業(Democracy and Industry)」という章がある。
そこで語られる民主主義(democracy)は、会社の経営者を労働者が投票で選ぶという意味ではない。フォードは、人が能力に応じて機会を得られること、産業が人びとへ奉仕すること、良い商品を安く供給することを重く見ていた。
フォードにとって産業の社会的価値は、「誰が会議で決めるか」より、「何を、どれだけ多くの人へ届けられるか」に強く置かれていた。
T型フォードの大衆化には、その考えがはっきり表れていた。
一方、社会部では、会社が従業員の家庭の清潔さや貯蓄まで評価した。
豊かな生活を可能にする賃金を渡しながら、どんな生活が望ましいかについても会社が答えを持つ。
フォードの仕組みでは、この二つは矛盾ではなく、同じ政策の一部として置かれていた。
息子を社長にしても、支配は渡さなかった
1919年、25歳のエドセル・フォードがフォード・モーターの社長になった。
肩書だけを見れば、世代交代だった。
しかし、フォード博物館は、ヘンリーが会社への実際の支配を完全には手放さなかったと説明している。幼いころには親密だった父子関係も、二人が年齢を重ねるにつれて緊張していった。
エドセルは父の影にいるだけの人物ではなかった。
1927年に登場したA型フォード(Model A)では色、スタイル、内装に大きく関わり、安全ガラスの採用を進めた。のちにはマーキュリー(Mercury)部門の創設にもつながる市場判断をした。デトロイト美術館ではディエゴ・リベラ(Diego Rivera)に「デトロイト産業(Detroit Industry)」の壁画を依頼している。
会社を大きくした父と、その会社を別の方向へ動かそうとする息子。
ヘンリーは社長の椅子を渡した。しかし、決める力まで同じように渡したわけではなかった。
世界の問題にも、自分の方法で手を伸ばした
フォードの関心は自動車会社の中だけに収まらなかった。
1915年、第一次世界大戦が続く中、フォードは客船オスカー2世号(Oscar II)を自費でチャーターした。市民の仲介団をヨーロッパへ送り、戦争を終わらせようとする「平和船(Peace Ship)」である。
だが、参加者同士の対立や報道の支持低下もあり、計画は失敗した。
フォードはその後も、自分の資本と組織を使って、工場の外の社会問題へ働きかけた。
その大きな試みの一つが、1928年からブラジル・アマゾンで進めたゴム農園だった。
フォードランディア(Fordlandia)には二つの目的があった。タイヤに必要なゴムを自社で安定調達すること。そして、そこで働くブラジル人に会社が考える「よりよい生活」を提供することだった。
賃金は比較的高く、住宅、食事、医療施設、店、娯楽施設も整えられた。
一方で、仕事の時間や生活にはディアボーン(Dearborn)式の規則が持ち込まれた。現地の習慣と合わない生活様式への介入も起きた。農業面でも、初期の管理者に熱帯農業の専門知識が乏しく、雨、土壌、害虫、葉の病気に苦しんだ。
後に下流のベルテラ(Belterra)へ中心を移すと、管理者は食事や娯楽などで現地習慣を以前より受け入れた。生産は改善したが、フォードが必要とした量には届かなかった。
1945年、フォード・モーターはブラジルのゴム事業を政府へ譲渡した。投資総額は約2000万ドル、譲渡額は25万ドルだった。
ハイランドパーク(Highland Park)では大きな成果を生んだ「標準化して大規模に動かす」という方法が、別の土地では同じ結果を生まなかった。
新聞と販売網で、反ユダヤ主義を広げた
フォードは工場の外にも、大きな発信手段を持っていた。
1918年、彼は週刊紙『ディアボーン・インディペンデント(The Dearborn Independent)』を買収した。1920年から同紙は「国際ユダヤ人(The International Jew)」と題した反ユダヤ主義の記事シリーズを掲載し始める。
内容は、ユダヤ人が政治、金融、メディアなどを秘密裏に支配しているという虚偽の陰謀論だった。偽書『シオン賢者の議定書』の影響も取り込まれていた。
記事の多くは記者らによって書かれたが、フォードは新聞の所有者であり、その活動を支えた。自動車販売店のネットワークは、新聞の配布にも使われた。
反発も起きた。ユダヤ系の農業協同組合運動家で弁護士のアーロン・サピロ(Aaron Sapiro)は、新聞に名誉を傷つけられたとしてフォードらを訴えた。1927年、裁判は評決に至らず終わったが、その後フォードは謝罪文に署名し、『ディアボーン・インディペンデント』を閉鎖した。
しかし、冊子化された『国際ユダヤ人』は国外でも流通を続けた。
ドイツではアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)を含むナチ党指導者がフォードの反ユダヤ主義を賞賛した。1938年、フォードはナチ政権から外国人に与える高位の勲章、ドイツ鷲勲章大十字章を授与されている。
フォードが築いた大規模な組織と流通網は、自動車を広げる力になった。同じ影響力は、新聞を通じて虚偽と偏見を広げる方向にも使われた。
高い賃金と、組合を認めることは別だった
フォード・モーターが労働者へ高い賃金を払ったことと、労働者が会社と対等に交渉する組織を持つことは、フォードにとって同じ話ではなかった。
会社は長く全米自動車労働組合(United Auto Workers、UAW)の承認を拒んだ。
1937年5月26日。ルージュ(Rouge)工場の歩道橋で、組合活動のビラを配ろうとした全米自動車労働組合の組織者たちにフォード・サービス部門(Ford Service Department)の男たちが襲いかかった。
ウォルター・ルーサー(Walter Reuther)、リチャード・フランケンスティーン(Richard Frankensteen)らが暴行を受け、その写真は広く報じられた。「歩道橋の戦い(Battle of the Overpass)」と呼ばれるこの事件は、フォードの労組組織化をめぐる争いの象徴になった。
フォード・モーターが全米自動車労働組合と労働協約を結ぶのは1941年である。これは組合員であることを雇用条件とするクローズド・ショップ協約(closed-shop contract)で、12万3000人の従業員を対象とした。
5ドル制度から27年が過ぎていた。
会社が労働者に多く払うことと、労働者が集団として会社の決定へ力を持つこと。その二つの距離が、ここでははっきり見える。
息子が先に死に、孫へ会社が渡った
1943年5月26日、エドセルは胃癌のため49歳で死去した。
フォード・モーターは葬儀の日に操業を止め、追悼した。ヘンリーは、息子の死後に再び会社の社長になった。
しかし、すでに79歳だった。
二年後の1945年、ヘンリーは孫のヘンリー・フォード2世を後継の社長に推薦し、自らは退いた。同じ年、ブラジルのゴム事業も手放された。
1947年4月7日、ヘンリー・フォードはディアボーンの自宅フェア・レーン(Fair Lane)で脳出血の後に死去した。83歳だった。そばにはクララと家のスタッフがいた。
自動車を渡すことと、決める力を渡すこと
フォードが変えたものは大きい。
T型フォードは、高価だった自動車を大量の人が買える商品へ変えた。移動式組立ラインは製造の時間と価格を大きく変えた。5ドル制度や40時間週は、工場労働者の所得と時間にも影響を与えた。
一方で、社会部は家庭まで調べ、エドセルが社長になっても父は実権を保持し、フォードランディアでは「よりよい生活」の形を会社が決め、全米自動車労働組合の組織化には長く抵抗した。新聞と販売網を使った反ユダヤ主義の拡散では、大きな組織力そのものが人を傷つける方向へ使われた。
フォードは「多くの人が持てるようにする」という問題には、産業史に残る巨大な答えを出した。
しかし、「その仕組みを誰が決めるのか」という問題には、同じ答えを出さなかった。
その二つは、同じ生涯の中で最後まで重ならなかった。




