一人の人生を読む
読んだら燃やしてほしい
1590年7月7日、伊達政宗は富沢貞連という東北の城主へ手紙を書いた。豊臣秀吉の小田原攻めに参陣して帰ってきたものの、会津の領地を没収されることになった、と伝える手紙である。その一方で、秀吉から奥羽の大名の処遇について意見を求められており、政宗自身の意向が反映される見込みだとも知らせていた。
末尾には、読んだら火に入れて燃やしてほしい、と書き添えた。手紙は燃やされずに残り、現在まで伝わっている。会津を失う知らせと、奥羽の処遇に自分の意向が反映されるという政宗の見込みが、焼却を求めた一通に残った。
このとき政宗は、まだ二十代前半だった。数年前まで東北で戦いを重ねた若い当主は、遠くから来た天下人の決定によって、自分の領地の行方を左右されることになっていた。
米沢で継いだ家
伊達政宗は1567年、現在の山形県米沢市にあたる米沢城で生まれた。父は伊達輝宗、母は義姫。幼名は梵天丸という。幼いころ疱瘡にかかり、右目の視力を失った。後世の「独眼竜」という呼び名はこの身体的特徴と結びついているが、若い日の政宗にはまず伊達家の後継者としての暮らしがあった。
禅僧の虎哉宗乙から学び、1579年には田村家の愛姫を妻に迎えた。1584年、父の輝宗から家督を受け継ぐ。城や兵を引き受けると同時に、縁戚や家臣、周囲の領主との関係も継いだのである。
家督を譲られる少し前、政宗は病んでいた大叔父の亘理元宗へ見舞いの手紙を出している。天正12年、1584年8月13日付である。大叔父はすでに隠居していたが、伊達家の内部で重きをなす人物だった。若い政宗にとって、戦場へ出ることと、有力な親族の健康を気遣い関係を保つことは、別々の人生ではなかった。
戦って伸ばした土地を失う
家督を継ぐと、政宗は東北各地の勢力と戦い、支配する土地を広げようとした。だが、その歩みは勝利だけで続いたわけではない。1588年、大崎氏を攻めた伊達方は、現在の宮城県加美町にあたる中新田付近で大敗を喫する。政宗は家臣たちを動員して救援を求め、応じて出陣した石母田景頼をねぎらう手紙を書いた。他方面の戦況まで気にかけている。大軍を動かす当主にも、一度の敗北の後始末があった。
翌1589年には会津を得て、領地を大きく広げる。だが、豊臣秀吉はすでに西日本を支配下に入れ、東日本の大名にも従うよう求めていた。1590年、秀吉が北条氏の小田原城を攻めると、政宗にも参陣が求められる。家臣の間では、戦うべきか、秀吉に従うべきかで意見が分かれた。伊達成実が戦いを主張し、片倉景綱は従属を勧めたと仙台市博物館の解説は伝える。
政宗は小田原へ向かい、秀吉に従った。しかし、それだけで新しく獲得した土地を保持できたわけではない。会津は没収され、蒲生氏郷に与えられた。勢力を広げる戦いは、自分よりはるかに大きな権力のもとで終わりを迎えた。冒頭の密かな書状が書かれたのは、このときである。
翌1591年には、豊臣政権に反発して起きた葛西・大崎地方の一揆の鎮圧に加わる。政宗には新しい領地が与えられた一方で、米沢を中心とする従来の領地は取り上げられた。住み慣れた米沢を離れ、本拠を岩出山へ移すことになる。幼いころから暮らした米沢を離れ、今度は岩出山で伊達家の拠点を整え直さなければならなかった。
朝鮮の陣から届く細かな注文
1593年8月14日、政宗は朝鮮にいた。豊臣秀吉による朝鮮出兵の命令に従い、海を渡っていたのである。この日付の長い書状が残っている。宛先の部分は欠けているが、仙台市博物館は、岩出山で留守を守っていた屋代景頼に宛てたものとみている。
その長文には、離れた領地や京都の屋敷に関する指示が並ぶ。年貢を厳重に集め、帳簿を作って翌年三月までに京都へ届けるよう求める。伏見や聚楽に造っていた屋敷には多額の金がかかり、その費用も調達しなければならなかった。雁や鶴、白鳥を京都へ送り、馬や鷹も手配するよう細かく指示した。幼い政宗の世話をしていた片倉喜多を、京都から片倉景綱のいる亘理へ送るようにも伝えている。
国元にいる人々の労働と年貢が、遠い京都の屋敷や贈答を支える。朝鮮にいる政宗自身もまた、秀吉のもとで経済的な負担と儀礼を引き受けていた。書状の途中には、帰国して再び会い、京都で語り合いたいという趣旨の一節もある。年貢や屋敷の費用、人の行き来に関する細かな指示のなかに、再会を待つ言葉も残されていた。
関ヶ原の勝報を伝えた先に
1600年、徳川家康と石田三成らの対立が関ヶ原の戦いにつながると、政宗は家康の側についた。政宗は東北で上杉勢と戦っており、九月末には北目城にいた。そこから角田城主の石川昭光とその子義宗へ、関ヶ原で東軍が勝ったという速報を書き送っている。遠くの戦場の勝敗は、家康についた政宗の立場を左右する重要な知らせだった。
居城を移す話は、関ヶ原の勝敗が決まる前から進んでいた。上杉景勝への備えについて家康から協力を求められた際、政宗は岩出山から千代(せんだい)への移転を願い出ていた。東軍勝利の知らせが届いた後の10月にも、家康の側近・今井宗薫を通じて築城の伺いを立てている。1600年末に築城を始め、千代を仙台と改めた。翌1601年、まだ工事中の城へ政宗は移った。
東軍が勝ったからといって、政宗の望んだ大規模な領地拡大が実現したわけではない。関ヶ原の戦いで実際に得た加増地の一つは、南の藩境にあたる白石を含む刈田郡だった。1602年末、政宗は片倉景綱へ白石城を与える書状を送り、景綱のいた亘理には伊達成実を入れるよう指示した。城を築く仕事は、同時に領内の重要な場所を誰に守らせるかを決める仕事でもあった。
仙台に移された人々
仙台城の建設は、城主一人の移転では済まなかった。岩出山にいた武士と町人も新しい城下へ移され、周辺の住民まで工事に動員された。新しい町ができる一方、そこで暮らすことになる人々には、従来の生活の場所を離れ、土地を整え、建物を造る負担が生じた。
1610年には城の大広間が完成し、主要部分がほぼ整った。政宗が進めたのは城下の建設だけではない。北上川の流れを変える工事や新田の開発、石巻を年貢米の輸送港に整える仕事にも取り組んだ。田で収穫した米を川から海へ運び、江戸へ届ける道筋がつくられていった。
政宗が岩出山に本拠を置いていたころは、京都や大坂で過ごす時間が長かった。秀吉のもとへ出向かねばならない時期であると同時に、そこで和歌・茶の湯・能などの文化に触れた。仙台城を築く際には、上方から建築や絵画、工芸の担い手を招き、瑞巌寺や大崎八幡宮などの造営にも力を注いだ。
仙台は政宗の居城であると同時に、移住を命じられた武士や町人が新たに暮らす土地になった。工事に動員された周辺の住民も、上方から招かれた職人たちも、その町を形づくる仕事に携わっていた。
太平洋の向こうへ出した使節
1613年、政宗は支倉常長を中心とする使節を海外へ送り出した。慶長遣欧使節である。一行は月の浦から船で太平洋を横断し、メキシコを経てスペイン、ローマへ進んだ。政宗が求めていたのは、新イスパニア、現在のメキシコとの通商と、ローマからの宣教師招聘だった。
使節の出発直前に作られた書状案と協定書案、さらに1616年付の書状案が、仙台市博物館に伝わる一冊に写されている。宛先にはスペイン国王、ローマ教皇、メキシコ副王らが並ぶ。政宗の構想は、航路だけでなく外交文書としても形になっていた。
使節が帰国したのは1620年。送り出してから七年が過ぎていた。その間に幕府はキリスト教を禁じ、政宗が望んだ通商と宣教師の招聘についても、確かな回答は得られなかった。海の向こうへの企ては大胆だったが、帰国した使節を迎えた日本の政策は出発時とは違っていた。
仙台で城下の整備を進めた政宗にも、交渉相手の返答や幕府の禁教政策までは決められなかった。
若林城の茶と、江戸での最期
1628年、政宗は晩年の住まいとして若林城へ移った。将軍は三代目の徳川家光に代わり、家康や戦国時代をともに生きた武将の多くは、すでに世を去っていた。政宗は引き続き政務に関わりながら、茶会や歌会、漁や狩りを楽しんだという。
年が特定されていない政宗の書状に、伊達成実の仙台屋敷を翌朝六時頃に訪ねると伝え、さらに十一月九日の朝に茶を振る舞う予定を書き送ったものがある。そこには招きたい相手の名前が並んでいる。戦場や領内の配置をめぐって政宗と関わってきた成実に、今度は茶の招待が書き送られていた。
1636年、政宗は病を抱えながら江戸へ向かった。仙台市博物館の解説によれば、将軍家光が見舞いに訪れ、五月二十三日には妻の愛姫と娘の五郎八(いろは)が面会を求めたが、政宗は会うことを断り、遺言と形見を渡したという。翌二十四日、江戸で亡くなった。
遺体は政宗が指定した仙台の経ケ峯へ葬られ、翌年、後継の忠宗が瑞鳳殿を建てた。米沢で家を継いだ青年の本拠は、岩出山を経て仙台へ移り、そこに城と町が残った。ともに働いた人へ出した数多くの手紙も残り、失った領地や実現しなかった外交の試みまで、今もたどることができる。




