一人の人生を読む
経済記者から、「経済を民主化する」構想へ
フリッツ・ナフタリ(Fritz Naphtali、のちPeretz Naftali)は1888年3月、ベルリンに生まれた。生まれた日については資料に19日と29日の二つがあるため、ここでは月までにとどめる。
大学の研究室から出発した経済学者ではない。商業教育を受け、企業で働き、経済記者になった。1920年代には『フランクフルター・ツァイトゥング(Frankfurter Zeitung)』の経済部門で仕事をし、1927年からはドイツ自由労働組合総同盟(ADGB)で経済政策の研究部門を率いた。
新聞で市場を読む仕事から、労働運動の内部で制度を考える仕事へ移ったことになる。
1928年、ナフタリはドイツ自由労働組合総同盟の委員会作業を取りまとめ、『経済民主主義――その本質・道・目標(Wirtschaftsdemokratie: ihr Wesen, Weg und Ziel)』を刊行した。そこにはフリッツ・バーデ(Fritz Baade)、ルドルフ・ヒルファーディング(Rudolf Hilferding)、エリク・ネルティング(Erik Nölting)、フーゴー・ジンツハイマー(Hugo Sinzheimer)らも関わっている。ナフタリ一人の発明ではない。
しかし、彼がこの議論の顔の一人になったのは確かだった。
投票できるだけで、経済は民主的なのか
ワイマール共和国には選挙があり、議会があった。それでも企業やカルテル、金融、公共事業の決定は、資本を持つ側へ大きく偏っている。
ナフタリたちの「経済民主主義」は、このずれから始まる。
労働者の共同決定、社会保険の自治、公共企業、独占・カルテルへの統制、協同組合、教育機会。対象は会社の会議室だけではない。政治の民主主義を、働く場所と経済制度へどこまで広げられるかという構想だった。
ただし、彼の政策判断がいつも後世から見て「進歩的」だったわけではない。世界恐慌が深まった1931〜32年、労働組合内部で国家支出と信用を使った雇用創出策が提案されると、ナフタリはインフレを警戒して批判側に回った。
経済民主主義という大きな方向と、目の前の恐慌政策の判断は同じではなかった。
1933年、制度の外へ追い出される
1933年、ナチ政権が成立する。
ユダヤ人であり、社会民主主義と労働運動の経済専門家だったナフタリは、5月12日に逮捕された。釈放後、7月27日にパレスチナへ到着した。
それまで彼が議論してきたのは「制度をどう変えるか」だった。ところが今度は、自分自身が制度の外へ追い出された。
ベルリンの仕事も組織も、そのまま持っていくことはできない。新しい土地で、言語と職業を作り直す必要があった。
1934年2月3日、まだ何者にも戻れていない
1934年2月3日。テルアビブ、ナハマニ通り(Nachmani Street)19番地。
ナフタリはドイツにいた友人パウル・ヘルツ(Paul Hertz)へ手紙を書いた。
書簡には、新しい土地の暖かい季節の美しさを楽しんでいること、娘イーゼ(Ise)がここを新しい故郷にできそうだと感じていることが記されている。その一方で、自分の仕事はまだ固まっていなかった。経済分野で少し新聞仕事をしていたが、それだけでは暮らせない。ハイファへつながる仕事と小さな教職の可能性はあったが、まだ決まっていない。ヘブライ語の勉強にも時間とエネルギーが必要だった。
後から見ると、この人は労働者銀行(Bank Hapoalim)の経営者になり、イスラエル議会(Knesset)議員になり、大臣になる。
けれど1934年2月3日の手紙には、その結末はない。
あるのは、娘が新しい土地になじむことへの安堵と、自分はまだ生活の足場をつくれていないという時間だった。
教える、銀行を動かす、政治へ入る
その後、仕事は少しずつ形になる。1934年からテクニオンで経済学を教え、ユダヤ機関の経済調査にも関わった。
1938年には、労働運動系の労働者銀行の総支配人となる。1937年からはヒスタドルート(Histadrut)の中央組織にも加わった。
1928年のナフタリが文章で考えていたのは、経済の意思決定へ労働者や公共性をどう入れるかという問題だった。パレスチナでの仕事は同じ理論をそのまま実装したわけではない。それでも、研究報告を書く側から、銀行・労働組合・都市の制度を運営する側へ移ったのは大きい。
1949年、イスラエル建国後のイスラエル議会議員となった。1950年代には農業、福祉など複数の大臣職を務める。
経済民主主義という言葉から始まった仕事が、別の国で制度を運営する仕事へ変わっていった。
一つの国で完成しなかった問い
ナフタリは1961年4月30日、テルアビブで死去した。
彼の人生を「経済民主主義の理論家」とだけ呼ぶと、1928年で話が止まる。「イスラエルの政治家」とだけ呼ぶと、その前のドイツで何を考えていたかが消える。
二つをつなぐと、別の輪郭が出てくる。
政治制度に投票権があるだけで、経済は民主的と言えるのか。働く人が、自分の生活を左右する経済の意思決定へ入るには、どんな制度が必要なのか。
ナフタリはその問いを書いた。その後、自分自身が国も仕事も失い、別の社会で銀行と労働運動と政府の制度へ入っていった。
答えは一冊の本の中では終わらなかった。




