一人の人生を読む
映画館に入ってきた政治
1930年12月、ベルリンでは映画『西部戦線異状なし』(All Quiet on the Western Front)の上映が大きな騒動になった。観客がいる劇場に鼠を放ち、悪臭を発する物を持ち込んで上映を妨げる。ナチ党の活動家たちは、第一次世界大戦のドイツ兵を描いた映画を標的にした。映画はドイツで一時、上映禁止となる。
原作を書いたエーリヒ・マリア・レマルク(Erich Maria Remarque)は、前年までにドイツ語版で大きな売上げを記録し、海外でも知られる作家になっていた。書いた物語が、作者の手を離れ、ベルリンの映画館で政治的な争いの中心になっていた。
その物語は、戦闘で勝つ英雄の話ではなかった。若い兵士が戦場で傷つき、仲間を失い、普通の暮らしへ戻ることも難しくなっていく。戦争について書いたその小説は、レマルクの生活を一変させた。さらに、作品に怒りを向けた政治勢力が政権を取ることで、彼が暮らす場所そのものも変わっていく。
病院へ運ばれた十九歳
レマルクは1898年、ドイツ西北部のオスナブリュックに生まれた。本名はエーリヒ・パウル・レマルク(Erich Paul Remark)。父ペーターは製本の仕事をしていた。家族は市内で何度も住まいを移り、レマルク自身はカトリック系の教員養成課程で学んだ。若いころから音楽や文学にも親しんでいたが、まず目指していた職業は小学校の教師だった。
1916年11月、十八歳のレマルクは軍に召集された。翌1917年6月、ドイツ軍兵士として西部戦線に送られる。そして7月31日、ベルギーのフートフルスト付近で砲弾によって負傷した。左脚と右腕、首に傷を負い、野戦病院を経てデュースブルクの病院へ運ばれている。前線にいたのは何年もではなく、ひと月余りだった。
負傷後の入院は長引いた。同じ年の9月、母アンナが亡くなる。入院中、レマルクは戦争を題材に小説の断片を書き始めた。その作品がすぐ本になることはなかった。『西部戦線異状なし』の刊行までには、さらに十年以上かかる。
終戦後、彼はオスナブリュックに戻って教員試験を受け、農村部の学校で臨時教員を務める。だが、この仕事は続かなかった。1920年には教職を離れ、墓石を売る会社で働き、ピアノも教えた。死者のための石を扱う商売は、彼の戦後の現実の職業の一つだった。
墓石会社から雑誌の編集部へ
1920年、レマルクは最初の小説『夢の部屋』(Die Traumbude、日本語題仮訳)を刊行した。青年時代に親しんだ芸術家の世界を扱った作品だったが、作家としての成功にはつながらない。詩や短編も書いたものの、文章だけで暮らせるわけではなかった。
1922年にはハノーファーへ移り、タイヤ会社コンチネンタルの広告文や社内誌の編集を担当した。商品や会社を人に伝えるために言葉を使う仕事である。その後ベルリンへ移ると、スポーツや流行を扱う雑誌『シュポルト・イム・ビルト』(Sport im Bild)の編集者になった。服飾やスポーツについての記事を書き、出版業界の内側で生活するようになる。
そんな時期に『西部戦線異状なし』を書き上げた。1928年春、原稿を持ち込んだフィッシャー社は採用しなかった。しかし別の出版グループ、ウルシュタイン社が8月に受け入れる。11月には新聞『フォシッシェ・ツァイトゥング』(Vossische Zeitung)で連載が始まる。連載開始の五日後、勤め先の『シュポルト・イム・ビルト』からは解雇された。翌1929年1月、小説は単行本になった。
売行きは急激に伸びた。1930年6月までにドイツ語版の部数は100万を超え、翻訳も広がる。雑誌編集の仕事を失ったレマルクは、その直後から小説によって大きな収入を得る作家となった。墓石を売り、タイヤ会社の宣伝文を書いていた時代から、生活は一変した。
ただ、成功と同じ速度で攻撃も強まった。戦争での名誉や兵士の勇敢さを重んじる国粋主義者たちは、小説に描かれた兵士像を許容しなかった。原作者の出自に関する根拠のない噂まで広められる。1930年にはハリウッドで制作された映画がドイツでも上映され、冒頭の劇場妨害へとつながった。作品の人気を示す映画化が、同時に反対者を集める出来事となったのである。
湖畔の家から、国籍のない暮らしへ
1931年、レマルクはスイス南部、マッジョーレ湖畔のポルト・ロンコに家を得た。翌1932年には生活の拠点を移す。背景には政治的攻撃ばかりでなく、税金や外貨に関わる問題もあった。彼は世界的に売れる小説を書いて豊かになった人間でもあり、その富が生活上の新たな問題を生んでもいた。
1933年、ドイツでナチ党が政権を握ると、レマルクの本は焚書の対象となった。国内で排除が進み、1938年にはドイツ国籍そのものを剥奪される。彼はすでに祖国の外で暮らしていたが、国家との関係を一方的に断ち切られたことになる。
移住と並行して、結婚生活にも変化があった。1925年に結婚したイルゼ・ユッタ・ザンボナ(Ilse Jutta Zambona)とはいったん離婚し、1938年に再婚している。1930年代後半には俳優マレーネ・ディートリヒ(Marlene Dietrich)との親しい関係も生まれた。パリやスイスを行き来し、著名な芸術家と交流する生活は、貧しい難民の暮らしとは異なっていた。それでも、欧州で戦争の危険が迫り、住まいと身分の問題が消えることはない。
1939年、レマルクは米国へ渡った。同年には欧州との往復もあったが、第二次世界大戦の開戦とともに米国が重要な生活の場となっていく。ニューヨークやハリウッドで映画関係者や亡命者たちと交わり、1947年には米国市民権を取得した。
米国にいた彼は、引き続き小説を書いた。1941年の『汝の隣人を愛せ』(Liebe Deinen Nächsten)では国境を越えて移動する人々を、1945年の『凱旋門』(Arc de Triomphe)ではパリに暮らす亡命者を描く。そこで登場人物たちを追い詰めるのは、戦闘だけではない。働く資格や住む場所、身分証明書、愛する人との別れが、日々の生活を左右する。レマルクの小説には、国境を越えて暮らさざるを得なくなった人々が現れるようになった。
妹の死を知ったのは戦後だった
レマルクが国外で暮らす間、妹エルフリーデ・ショルツ(Elfriede Scholz)はドイツのドレスデンで洋裁店を営んでいた。兄とは別の土地で仕事を持ち、暮らしていた彼女は、1943年に逮捕された。
エルフリーデは戦争やナチス政権についての発言を知人に密告され、人民法廷で死刑判決を受け、同年12月に処刑された。裁判長が兄の名を持ち出したとする証言も残るが、訴追されたのはエルフリーデ自身の発言だった。米国にいたレマルクが処刑を知ったのは1946年6月、姉エルナからの手紙によってだった。妹の死から約二年半が過ぎていた。
故郷を訪ね、戦後ドイツを書いた
第二次世界大戦が終わっても、レマルクはドイツで再び暮らすことを当然とはしなかった。米国とヨーロッパを行き来し、1952年にはオスナブリュックを通って、父ペーターと姉エルナを訪ねている。少年時代に生活した町へ戻ることと、以前の生活を取り戻すことは同じではなかった。
作家として向き合う題材にも新しい戦争が入ってきた。1952年の『生命の火花』(Der Funke Leben)は、ナチスの強制収容所にいる人々を描いた。レマルクはこの小説を妹エルフリーデの思い出に献じた。翌々年の『愛する時と死する時』(Zeit zu leben und Zeit zu sterben)は、第二次世界大戦のドイツ軍兵士を主人公とし、ドイツ側が何をしたかという問題にも触れる。
こうした仕事は、ドイツ語圏の出版者と必ずしも円滑に進まなかった。『生命の火花』の原稿はスイスの出版社から断られ、『愛する時と死する時』のドイツ語版には出版社から変更を求められ、1954年に修正された版が刊行された。戦後ドイツで小説を出すことは、なお出版社との折衝を伴う仕事だった。彼は1956年には『黒いオベリスク』(Der schwarze Obelisk)を発表し、第一次世界大戦後のドイツの混乱へも題材を戻している。かつて墓石を売ったころの生活が、この作品には形を変えて現れる。
その間に父は1954年に亡くなった。レマルクは映画の脚本や舞台にも関わり、『愛する時と死する時』の映画化では自ら教師ポールマンの役を演じた。1958年には俳優パウレット・ゴダード(Paulette Goddard)と結婚する。小説を書きながら、映画や舞台の仕事を通じてもドイツと米国を行き来していた。
ポルト・ロンコで書きかけたもの
1962年に刊行した『リスボンの夜』(Die Nacht von Lissabon)でも、レマルクは欧州から逃れようとする人々を書いた。初期の戦争小説から三十年以上が過ぎていた。戦争が終わった後にも国境を越えざるを得なかった人々が、再び物語の中心にいた。
ドイツとの関係にも変化はあった。故郷オスナブリュックの顕彰を受け、1967年にはドイツ連邦功労十字章を授与される。かつて作品を焼かれ、国籍を取り上げられた作家が、戦後のドイツから賞を受け取るようになったのだ。ドイツを訪ねることはあっても、晩年の住まいはスイスの湖畔にあった。
レマルクは1970年9月25日、ロカルノで亡くなった。72歳だった。最晩年にも、アメリカへたどり着いた亡命者たちを扱う長編『約束の地』(Das gelobte Land、日本語題仮訳)に取り組んでいたが、完成には至らなかった。
最初の大きな成功をもたらしたのは、第一次世界大戦の兵士たちを描く小説だった。晩年、レマルクの手元に残ったのは、欧州を逃れ、アメリカへ渡った人々についての未完の原稿だった。




