「男なんだから泣くな」「女なんだから気を配りなさい」。子どものころ、そんな言葉を聞いたことがある人もいるだろう。大人になれば、働き方、家事、育児、結婚にも「男性はこうするもの」「女性はこうするもの」という期待が現れる。
もちろん、どの家庭でも同じ暮らしをしているわけではない。しかし、周囲から期待される役割が、自分のやりたいことと食い違うことはある。その役割は、誰が決め、どう変わってきたのだろうか。
この問題を異なる場所から考えた4人がいる。哲学者ボーヴォワール、日本で女性解放運動(ウーマン・リブ)を進めた田中美津、男性学を研究した伊藤公雄、家族社会学者の山田昌弘だ。ヨーロッパの哲学、日本の女性運動、男性たちの対話、親子の生活調査。それぞれが見たものは違っていた。
4人は、何を変え、何を調べたのか
- シモーヌ・ド・ボーヴォワール:女性らしさが生まれつき決まっているという見方を問い直し、社会が女性に期待する生き方を哲学と歴史から考えた。
- 田中美津:1970年代の日本で、女性に求められる役割への怒りや葛藤を女性たちと話し合い、ウーマン・リブの運動を進めた。
- 伊藤公雄:男性にも「一家を支える」「弱さを見せない」といった期待があることを研究し、大阪で男性たちの語り合いの場づくりに関わった。
- 山田昌弘:就職後も親と暮らす若者や、結婚と家計の関係を調査し、家族の中で誰が誰を支えているのかを問い直した。
初めの二人は女性の生き方をめぐる思想と運動、後の二人は男性の生き方と家族の実態を考える入口となる。
ボーヴォワール――「女らしさ」は生まれつきなのか
1949年、『第二の性』を出版する
シモーヌ・ド・ボーヴォワールは1908年、フランスのパリに生まれた。家庭ではカトリックの教育を受け、成長するにつれて信仰から離れ、哲学を学んだ。1929年には哲学の教員資格試験に合格する。
当時のフランスでは、女性が結婚して家庭を持つことが人生の当然の進路と考えられやすかった。ボーヴォワールは教職を持ち、作家として働き、ジャン=ポール・サルトルとは結婚せずに関係を続けた。彼女自身の生活も、社会が女性に期待した道とは異なっていた。
1949年に刊行した『第二の性』では、女性が歴史や文学、教育、労働、結婚の中でどう扱われてきたのかを幅広く調べた。女性の人生を、生物学的な身体の違いだけで説明することはできない。幼いころからの育てられ方や、周囲の期待、働ける場所の制限が、一人の女性の選択を形づくっていく。
仕事と結婚を、自分の問題として考える
ボーヴォワールは、女性の自由を法律上の権利だけの問題として考えたのではなかった。学び、仕事を持ち、収入を得て、人とどう暮らすか。そうした生活の条件が変わらなければ、本人に選択肢があるように見えても、実際には選びにくい道が残る。
彼女の『第二の性』は発表当時から反発を呼んだが、その後の女性解放運動や研究に大きな影響を与えた。女性の人生を「個人の性格」や「性別だから」という説明から、社会全体の仕組みへ広げた仕事だった。
田中美津――決められた女性像に、声を上げた
1970年、「母」か「便所」か
田中美津は1943年に東京で生まれた。1960年代の学生運動や反戦運動に関わる中で、社会の変革を語る男性たちの集まりにも、女性へ決められた役割を求める雰囲気があることを感じていた。
1970年、田中は「便所からの解放」という刺激の強い題のビラを書いた。彼女が批判したのは、女は人を包み込む「母」であるか、男性の性欲に応じる存在であるか、という極端な二つの役割だった。
そこには、女性自身の怒りや欲望、弱さを口にする場所が少ないという問題があった。田中たちは「ぐるーぷ・闘うおんな」をつくり、女性同士が経験を話し合える場を広げていく。
1971年、女性たちが集まり、自分の経験を話した
1971年には女性たちが集まるリブ合宿が開かれ、共同生活や歌、芝居などの活動も広がった。1972年には『いのちの女たちへ とり乱しウーマン・リブ論』を刊行する。
田中たちが向き合ったのは、働く場だけではない。妊娠と出産、性暴力、中絶の権利、子育てを支える条件も問題になった。当時、中絶の条件などを定めていた優生保護法の改正が議論される中では、中絶できるかという問題と、産みたい人が安心して子どもを育てられるかという問題の両方が議論された。
1975年に国際婦人年の世界会議でメキシコへ渡った田中は、その後もしばらく現地で暮らした。活動の中心に立つ役割から離れ、子どもを育てながら自分の生活を築く時期に入った。
ボーヴォワールが本で女性像を問い直したのに対し、田中の仕事は、女性たちが集まって自分の経験を言葉にし、社会へ訴える活動だった。
伊藤公雄――男性にも「男らしさ」の決まりがある
1991年、大阪で男性たちが集まった
伊藤公雄は1951年生まれの社会学者。京都大学の学生時代、女性差別をめぐる抗議活動に関わり、その後はイタリアの政治文化や文学の研究を通じて、社会がどんな男性像をつくるのかを考えた。
1991年4月、大阪で「メンズリブ研究会」が発足した。伊藤を含む5人が世話人になり、男性同士で自分の経験を語り合う場をつくった。
「一家の大黒柱でなければならない」「弱音を吐いてはいけない」。そんな期待に苦しむ男性がいる一方、家事や育児の負担、暴力や差別などで女性の側に不利益が生まれることもある。研究会では、男性が感じる生きづらさと、男性が持つ社会的な優位の両方が話題になった。
「男らしさ」を一つに決めない
研究会は例会や機関誌を通じて活動を続け、1995年には男性の相談を受ける場「メンズセンター」も生まれた。伊藤は大学での研究や自治体の男女共同参画の仕事にも関わった。
男性学は、男性がどれほど苦しんでいるかを競う学問ではない。仕事、家族、暴力、友人関係などを通じて、社会が男性にどんな振る舞いを求めているかを調べる研究である。
ボーヴォワールや田中が女性への役割期待を問題にしたのと同じ社会で、今度は男性の側にどのような決まりがあるのかが問われるようになった。
山田昌弘――親と子の暮らしを調べると、予想が変わった
1991年、働いても親と同居する若者たち
山田昌弘は1957年生まれの社会学者。大学時代には家庭で介護や家事を担った経験があり、家族の中で誰が生活を支えるのかを研究するようになった。
1991年、山田は研究仲間とともに、20代の未婚の子どもと50代の親の暮らしを調べた。就職すれば親元を離れて独立する若者が多いと思われていたが、実際には働きながら親と同居する人が目立った。
山田は1997年、「パラサイト・シングル」という言葉を新聞で使い、1999年には同名の著書を刊行した。親の住まいや家事の支えによって若者が自分の収入を使える、という当時の家族関係が注目を集めた。
同じ親子同居でも、理由は変わっていった
ところが2000年代に入ると、非正規雇用が増え、十分な収入がなくて親元を離れられない若者の問題が大きくなった。親に支えられる子もいれば、子の収入に頼る親もいる。
山田は後年、1990年代に立てた予測を見直している。親と暮らすかどうかだけでは、本人が自立しているのか、生活に余裕があるのかは決められない。
結婚についても、本人の希望だけではなく、仕事や収入、家族からの期待が関わる。山田は2008年の白河桃子との共著『「婚活」時代』などを通じ、結婚相手を探すことが社会的な活動やサービスにもなっていく変化を取り上げた。
4人の違いは、役割に気づく場所の違いでもある
① 「女らしさ」を考える方法が違った
ボーヴォワールは歴史、文学、哲学を調べ、女性に期待される生き方を論じた。田中美津は女性たちが集まって、日々の経験や怒りを言葉にする運動を広げた。一人は書物の研究から、もう一人は集団の活動から、女性に求められる役割を問うた。
② 男性の生活にも、同じ社会の決まりが及ぶ
伊藤たちが大阪で集まったのは、男性にも決められた役割があり、それが仕事や家庭での振る舞いに結びつくからだった。家事や育児をどう分担するかという問題は、女性だけでも男性だけでも完結しない。
③ 家族の実態は、言葉だけではつかめない
山田の調査では、親と暮らす若者の経済的な事情が時代とともに変わっていった。「自立した大人」「結婚する年齢」といった言葉から想像する暮らしと、実際の収入や家事の分担が違う場合もある。
4人を比べると、社会が期待する男女の姿と、一人ひとりが現実に送っている生活のあいだに、さまざまなずれがあることが分かる。
どこから読めばよいか
女性らしさの考え方の歴史ならボーヴォワール。1970年代の日本の女性運動なら田中美津。男らしさと男性学なら伊藤公雄。結婚や親子の暮らしなら山田昌弘から始めるとよい。
日本の女性史を教育や仕事の面から広く見渡すには、日本の女性解放とフェミニズムの人物ガイドがある。また、恋愛と結婚の関係については、なぜ恋愛して結婚することが、自分の人生を生きることになったのかで歴史をたどっている。
