一人の人生を読む
上映後の映画館で歌った
2020年1月、神戸の元町映画館に、76歳の田中美津がいた。
上映されていたのは、彼女の半生を追った記録映画『この星は、私の星じゃない』。田中は上映後の催しで、1970年代に自分たちが始めたウーマン・リブについて話した。女性が性被害を自ら告発できるようになるまでには、それ以前にも声を上げた女たちの歴史がある。そのことを若い世代にも知ってほしい、と語った。
田中が話したのは、権利や制度のことばかりではなかった。誰もが反対できる性暴力への怒りも、自分は誰に触れてほしいのかという個人的な欲望も、片方だけでは生きられない。「大義」と「欲望」の両方を大事にしてきたのが、自分たちのリブだったという。
催しの最後、田中は自ら作詞した「パワフル ウィメンズ ブルース」を歌った。五十年前にも、田中は自分の言葉で人々に呼びかけていた。ただし、その間ずっと同じ立場にいたわけではない。運動の中心から離れ、外国で子を産み、鍼灸師として患者と向き合う仕事を続けてきた。大勢の前で声を上げた人に、何があったのだろう。
「母」か「便所」かという二択
田中美津は1943年、東京に生まれた。
2019年のインタビューで、田中は家族に恵まれたと振り返っている。自分のままでよいと受け止められて育った。その一方で、家の外では人の顔色を読み、周囲に合わせて生きることがうまくできず、孤独な青春時代を過ごしたという。
本人は幼少期に性被害を受けた経験も公に語っている。そうした個人的な痛みを、やがて自分が社会に向けて発する言葉の出発点の一つと位置づけた。
1960年代後半、ベトナム戦争への反対や学生運動が広がった。田中もそうした運動に関わるなかで、社会を変えようとする男たちの集まりでも、女には女としての役割が求められるという不満を深めていった。
1970年、田中は「便所からの解放」という題のビラを発表した。
言葉は荒々しい。そこに込められていたのは、女は慈しむ「母」であるか、男の性欲に応じる存在であるか、そのどちらかでしか見てもらえないことへの怒りだった。
田中たちの問いは、男と女に同じ扱いを要求するだけでは収まらない。女性らしい理想像を演じることで、自分の中にある嫌な気持ちも、矛盾する願いも、なかったことにしなければならない。そういう生き方から、どう抜け出すのか。
田中は仲間と「ぐるーぷ・闘うおんな」を結成し、やがてリブ新宿センターを活動の拠点にした。異なる立場の女たちが、自分の生きづらさを持ち寄り、言葉にする場ができていった。
家族に自分らしく生きろと言われて育った田中は、それでも社会では孤独だったという。リブに集まった女たちと話すことで、他人も同じように、自分を偽って暮らす苦しさを抱えていたと知った。そのことを、田中は後年、自分が救われた経験として語った。
集まった女たちと、目立ち始めた一人
活動はビラを書くことだけにとどまらなかった。
田中の回想によれば、1971年には一枚の呼びかけをきっかけに約300人の女性がリブ合宿へ集まった。女同士で暮らして助け合う共同生活が生まれ、女性の解放を歌や芝居で表現する「ミューズカル」もつくられた。堅苦しい演説だけでなく、笑いや身体を使って、女が決められた姿でいなくてもよいことを示そうとした。
リブは田中一人の運動ではない。ビラを配る人、合宿を準備する人、暮らしを一緒にする人、舞台をつくる人がいた。そのさまざまな営みのなかで、田中の書く言葉と語る姿は大きな注目を集めていく。
1972年、田中は『いのちの女たちへ とり乱しウーマン・リブ論』を刊行した。
「とり乱す」という言葉には、自分の内側で食い違う願いを、きれいに整理しないという意味がある。
たとえば、好きでもない男から身体を触られたくない。しかし、自分が好きな男には触れてほしい。その両方を持つ自分がいる。性暴力に反対するという誰もが掲げやすい主張と、一人ひとりで異なる欲望を、田中は同じ言葉の中で引き受けようとした。
女たちが向き合ったのは、個人的な葛藤だけではない。
当時、優生保護法の改正によって中絶を難しくする動きがあった。妊娠した女性が、子を産むかどうかを自分で決められるのか。田中たちは、中絶する権利だけを唱えればよいとは考えなかった。貧困や育児の負担、十分でない支援に追いつめられ、産みたくても産めない人がいる。子を産める社会、産みたいと思える社会を求めながら、それでも最後の判断は当事者にあると主張した。
ここには、簡単には一致しない人々の事情がある。一つの正しい結論を示すためではなく、女たち自身が生きる条件を話し合うために、田中は言葉を書いた。
ところが、運動が広がるにつれて、田中自身は別の苦しさを感じるようになった。
後年の本人の説明では、次第に田中が何かを言うと、周囲がすぐにうなずいてしまうようになった。女が誰かの決めた姿に従わず、自分で考えられるようにと始めた場で、自分の発言が他人の判断を先取りしてしまう。
仲間の目からどう映っていたかは、それだけでは分からない。それでも田中本人にとって、みんなが自分を頼りにする関係は、ありがたさと息苦しさが同時にあるものだった。
メキシコで産んだ子に、何を言えるのか
1975年、国連が主催する国際婦人年世界会議がメキシコで開かれた。田中はそこへ渡り、その後も日本へはすぐ戻らず、約四年半をメキシコで暮らすことになる。
その頃、彼女は四年半ほど激しい活動を続けていた。後年のインタビューで田中は、もともと慢性腎炎を抱えていて、身体が疲れ切っていたと説明している。それ以上につらかったのは、周囲が自分を特別な指導者のように扱う関係だったという。
自分の身体も、人々との関係も、続けるには無理があった。運動の中心人物として次に何をすべきか、という問いから田中はいったん離れた。
メキシコでは、結婚せずに息子を産んだ。田中が帰国したとき、子どもは三歳になっていた。
2019年、田中はその帰国を振り返り、家族が息子を歓迎してくれたと語っている。だが、自分の選択を認めてもらうことと、他人の選択を認めることは、同じほど簡単ではない。
息子を育てるなかで田中は、本人のためを思って、つい先回りして指図する自分に気づいたという。こうした方がうまくいく、こうしてほしい。親が安心できる道を、子どものためだと言って押しつけてしまう。
口を出すほど息子の元気がなくなり、信頼関係を作り直すまで時間がかかったと、田中は後年振り返った。
田中は、子が失敗するかもしれない不安を抱えたまま、本人のやりたいことを見守るように考え直した。それで母親としての葛藤が消えたわけではない。息子に自由を与えたいという気持ちと、困らない道を選んでほしいという親の気持ちは、一人の中に同時に残った。
かつて「女らしく」という他人の期待を拒んだ田中が、母親になってからは、自分もまた誰かの生き方を決めたくなる人間だと知ったのである。
診療室では、一人と一人だった
帰国後、田中は鍼灸師になり、1982年に治療院「れらはるせ」を開いた。
リブ運動の中心にいた期間は、田中の長い人生から見れば数年にすぎない。その後の何十年かを、彼女は患者に鍼や灸を施す仕事とともに生きた。
2019年の映画に関するインタビューで、田中はその仕事を自分の天職だと話した。運動の頃は、一人の自分に大勢が向き合うような関係になっていた。しかし鍼灸は、一人と一人の関係だという。
この違いは、仕事を換えたという履歴以上のものに思える。
運動の場では、言葉の鋭さが田中を人々の前に立たせた。鍼灸院では、相手は「女性たち」という大きなくくりではなく、そのとき身体を持ってやってくる一人の患者だ。どちらも他人と向き合う営みだが、田中自身は、前者とは違う距離で相手に向き合えることを大切にしていた。
ただし、田中は鍼灸院で政治の話をやめたわけではない。
2005年には『かけがえのない、大したことのない私』を刊行した。そこには、女性の解放をめぐる文章だけでなく、身体や自分の暮らしに向き合ってきた言葉、かつて仲間とつくったミューズカルの台本も収められた。
治療院を営むようになっても、文章を書き、かつて仲間と試みた表現を本に残した。
沖縄で、写真の使い方を問われる
年齢を重ねてからも、田中は沖縄に繰り返し足を運んだ。
2019年の対談で田中は、1965年に米軍の車にはねられて亡くなった少女の写真を見て衝撃を受けたと語っている。それまで沖縄の問題を自分自身の問題として考えてこなかった、と気づいたからだという。
田中は周囲に呼びかけて沖縄へ行く集まりを企画し、訪問を重ねた。そのため、出版社と進めていた二冊の本の仕事を後回しにしたとも振り返っている。
しかし、写真の使い方については異議も出た。記録映画『この星は、私の星じゃない』には、少女の写真を入れた田中のビラについて、ある男性が配らないでほしいと求め、田中と口論になる場面がある。沖縄にはその写真を見るのがつらい人もいる、というのが男性の理由だった。
田中は、写真を見て自分の無関心に気づき、沖縄へ向かった。その写真は、現地で別の人にとっては見たくないものでもあった。自分の意思で声を上げれば、相手にも同じ声が届くとは限らない。
2019年に公開された吉峯美和監督の映画は、こうした沖縄での行動に加え、鍼灸院で働く姿や1970年代のリブも収めている。
題名の『この星は、私の星じゃない』という言葉は、田中が生きてきた世界との折り合いの悪さを思わせる。沖縄の場面にも、対立が残った。
2019年には『明日は生きてないかもしれない……という自由』も刊行された。老い、病、自分の身体、子育て。若い頃から田中が問題にしてきた、自分の中にある矛盾は、年齢とともに別の形で現れていた。
それでも声は外へ出た
2020年の元町映画館で、田中は女たちの昔の運動を説明したあと、歌を歌った。
田中の言葉が多くの人に届いたことは間違いない。だが、その本人は、人に注目されることが自由を狭くする、と感じた時期を経てきた。
母としては、他人の人生に口を出したくなる自分を見つけた。鍼灸師としては、目の前にいる人と一対一で向き合う仕事を続けた。沖縄については、自分が知っているつもりになっていたと認めて、足を運んだ。
田中美津は2024年8月7日、81歳で亡くなった。翌2025年には、1983年に刊行されていた文章集が『何処にいようと、りぶりあん 田中美津表現集』として復刊された。1970年の「便所からの解放」も、その本に収められている。
1970年のビラと、2020年の映画館での歌とのあいだには、息子に指図しすぎた時間があり、患者と一対一で向き合う日々があり、沖縄でビラに異議を唱えられた出来事があった。
女たちが自分の言葉を持つことを求めた田中も、他人の自由や痛みと向き合うときには、簡単に答えを出せなかった。それでも彼女は、書き、働き、足を運び、歌った。



