一人の人生を読む
読むことはできても、集会へは行けない
1921年、治安警察法の改正を求めた605人の請願に、平塚明の名が記された。平塚明(はる)は、文芸誌『青鞜』を創刊した平塚らいてうの本名である。35歳のらいてうには、このとき二人の子どもがいた。
女性も新聞や雑誌で政治の記事を読み、議会を傍聴できる。それなのに政治集会への参加や政治団体への加入は禁じられていた。請願者たちは、読むことを許しながら集まることを禁じる法律の矛盾を指摘した。
衆議院は請願の趣旨を認めた。しかし内務省の回答案は、女性を政治団体に加えれば家庭を顧みなくなり、家族制度が損なわれかねないと懸念した。「女子の天分は家庭の内」にあるとの考えが社会に根強いとも記す。政府はこの時点で、政治団体への加入を認めなかった。
『青鞜』の創刊から十年。女性が自分の言葉で書く場所をつくったらいてうは、今度は仲間とともに、政治の話を聞くための扉を開こうとしていた。
「平塚明」が世間に知られたころ
平塚は1886年、東京の官僚の家庭に生まれた。名前は明と書いて「はる」と読む。日本女子大学校で学び、若いころには禅にも関心を寄せた。家の期待や女子教育に触れながら、自分の暮らし方を探していた時期だった。
1908年、作家の森田草平と栃木県の塩原へ出かけたことが、心中未遂事件として世間の注目を集めた。若い平塚は、書き手として知られる前に、一つの事件の当事者として名を広めることになった。
三年後、平塚は女性たちと文芸誌『青鞜』を創刊する。一人の名前が事件を通じて広まったのとは異なり、こちらは複数の書き手が共同でつくる発表の場だった。
女たちの文芸誌を始める
1911年9月、文芸誌『青鞜』が創刊された。平塚の創刊の辞は「元始、女性は太陽であった」の一節で始まる。女性は誰かを照らすための存在ではなく、自分の光を持ちうる。その呼びかけは強く、後の時代にも繰り返し読まれてきた。
雑誌をつくったのは、らいてう一人ではなかった。初期には複数の女性たちが編集と執筆に関わり、歌人の与謝野晶子も作品を寄せている。創刊号の表紙を手がけたのは長沼智恵子、のちの高村智恵子だった。
誌面には小説や詩、評論が並んだ。そこから女性が結婚や恋愛、性について語ることにも議論が広がり、反発や批判も起きた。『青鞜』は、文学の雑誌であると同時に、女性たちが自分の経験を自分の言葉にするための場になった。
らいてうは原稿を集め、編集を担った。『青鞜』に向き合う時間が続く一方で、彼女自身の生活も変わり始めた。
原稿を書く手と、子を抱く手
1914年、らいてうは『青鞜』の誌面で、画家を志す奥村博との共同生活を両親に伝える手紙を公にした。法律上の婚姻ではなく、二人で暮らすことを選んだ。奥村は後に博史と名乗る。
1915年には娘の曙生が生まれ、1917年には息子の敦史が生まれた。その間に『青鞜』の編集は伊藤野枝へと移り、雑誌は1916年に刊行を終える。らいてうの人生から文章が消えたわけではないが、暮らしの中心には乳児の世話が加わった。
らいてうは後年、締め切りの迫った原稿を徹夜で書き、乳が止まった経験を振り返った。後年の本人の回想が伝えるのは、書く仕事と乳児の世話を両立させる難しさだった。
『青鞜』では女性の自立を訴えた。だが、子どもが生まれれば、働く時間をどう確保し、育児を誰が支えるのかという問題がある。その問いは、次の論争で彼女の主張の中心となった。
与謝野晶子と、母性をめぐって争う
1918年、与謝野晶子が女性の経済的独立を強く説き、母性を理由に国家へ特別な保護を求めることを批判した。らいてうはこれに反論する。妊娠や出産、育児を担う女性が生きていくには、社会の側からの保護が必要だという立場だった。
二人は、ともに女性の自由を求めていた。しかし、その自由をどのような条件で成り立たせるかについては違った。与謝野には、国家に頼ることが女性の自立を弱めるという懸念があった。らいてうには、現実の母親にかかる負担を個人の努力に委ねてはならないという考えがあった。
議論に加わった山川菊栄は、働く女性の階級や社会の仕組みを問題にした。山田わかも発言した。母性保護論争と呼ばれるこの応酬は1919年まで続き、母親を守るとは何を守ることなのか、働くことと育てることの関係をどう考えるかを浮かび上がらせた。
らいてう自身も働く女性であり、同時に二人の子の母親だった。その立場からの主張には力がある。一方で、母性を女性の重要な役割として語る言葉が、どの女性にも同じ生き方を当てはめることにならないかという問題は残る。この緊張を、一つの論争の勝敗で片づけることはできない。
集会に入ることを求めて
1919年にかけて新しい女性団体の構想が進み、1920年3月、新婦人協会が発会した。らいてうは市川房枝、奥むめおらとともに、女性の社会的な立場を改善するために行動する。『青鞜』が書き手の場だったのに対し、協会は法律や議会に向かう団体だった。
当時の治安警察法は、女性が政治団体に加入したり、政治に関する集会に参加したりすることを制限していた。女性は政治を読むことはできても、会場に入り、話を聞き、会合をつくることができない。協会はその不合理を変えようとした。
請願が目指した改革は、一度にすべて実現したわけではない。1922年、治安警察法第5条第2項が削除され、女性は政治に関する集会へ参加できるようになった。しかし政治団体への加入はなお制限され、国政選挙権も認められていなかった。
女性が集会の会場へ入り、演説を聞けるようになった。選挙権の実現にはなお長い道が残っていたが、女性たちの請願は、法律が閉ざしていた入口の一つを開いた。
成城で、買い物の仕組みをつくる
新婦人協会の時期を過ぎても、らいてうは暮らしに関わる活動を続けた。1920年代末には、住まいを移した成城で消費組合の活動に参加する。1930年、組合の拠点となる「我等の家」ができた。階下には店、階上には組合員の集会所があった。女性たちが中心になって運営し、らいてうもその仕事を担った。
1932年には独立した「消費組合我等の家」となり、らいてうが組合長を務めた。資料に残るのは、商品を選んで売る工夫や、共同炊事、講習会などの地道な活動である。雑誌の誌面や議会への請願とは異なり、毎日の買い物と家事の仕組みを仲間と動かそうとした。実際の組合運営には対立や限界もあり、理想だけで続けられる仕事ではなかった。
奥村博史との家族生活も続いていた。二人が婚姻届を出したのは1941年、共同生活を公表してから二十七年後である。翌1942年には茨城県の村へ移り、農耕生活を始めた。1945年の敗戦はそこで迎える。戦争が終わったとき、らいてうは59歳になっていた。
七十代になっても、名前を連ねる
敗戦後、らいてうは講和と非武装をめぐって発言した。1950年には野上弥生子や植村環らとともに「非武装国日本女性の講和問題についての希望要項」をまとめ、来日中のアメリカ国務省顧問ジョン・フォスター・ダレスに提出した。政府が決める外交の問題に、女性たちの立場から意見を届けようとしたのである。
1955年、らいてうは湯川秀樹、上代たのらとともに「世界平和アピール七人委員会」の最初の委員となった。七人は国連と各国首脳に向けて平和を訴えた。さらに1962年には、いわさきちひろや野上弥生子らと新日本婦人の会の創立を呼びかけた。七十代になっても、仲間と名前を連ねて新しい活動を始めていた。
1964年には、長く生活をともにした奥村博史を失った。それでも公的な発言をやめなかった。1970年、84歳のらいてうは日米安全保障条約について声明を出し、仲間と成城の町をデモ行進した。
翌1971年5月24日、平塚らいてうは85歳で亡くなった。
「元始、女性は太陽であった」と書いた1911年のらいてうは、まだ二十代だった。後には子どもを育てながら原稿を書き、女性の集会参加を求めて請願し、成城では共同の店を運営し、八十代には自分の住む町を歩いた。有名な一句だけでは、こうした手足を動かす長い人生は収まらない。




