一人の人生を読む
恋愛を讃える本が、生活費を論じた
1921年秋、英文学者の厨川白村が朝日新聞に連載した恋愛論は、大きな反響を呼んだ。翌1922年、白村は『近代の恋愛観』を単行本として刊行した。冒頭の「ラブ・イズ・ベスト」という章題は、恋愛に高い価値を置いた彼の姿勢をよく表している。
だが、同じ本には「結婚と恋愛」があり、後半には「恋愛と結婚と経済関係」という項目まで置かれていた。恋愛の自由を説きながら、結婚と生活費を切り離してはいなかった。
恋愛に理想を求めながら、生活の条件を論じる。そう書いた男自身も、若いころには学費の苦労を抱え、周囲の人々と折り合いながら学校で生きてきた。
一緒に学校を去ることに、賛成しなかった学生
白村は1880年11月19日、京都に生まれた。本名は辰夫という。京都や大阪で育ち、やがて東京帝国大学の英文科へ進んだ。小泉八雲や上田敏、夏目漱石といった教師から英文学を学んだ。
白村の養父は大阪造幣局の下級官吏で、学費の捻出に苦労したという。2025年刊行の張競による評伝を、鹿島茂が書評で紹介している。
1903年、大学では小泉八雲の退任が問題となった。同級生の小山内薫らは全員で退学して抗議しようと提案したが、白村は最後まで反対したという。学校を辞めれば、卒業とその先の教職も遠のく。評伝は、年老いた養父母を支えようとする白村の事情に、この反対の理由を見ている。
学生たちの抗議が収まったあとも、八雲に代わって来た夏目漱石の授業には反発があった。そんななか白村は漱石の講義に通い続けたと、評伝は伝える。学内で周囲と歩調を合わせなかった経験は、そのまま彼の学生生活の一部になった。
教壇で学んだ文学を、本にする
1904年に大学を卒業すると、白村は熊本の第五高等学校で英語を教え、のちに京都の第三高等学校へ移った。学問は生活を支える仕事になった。教員時代には蝶子と結婚した。張競の評伝は、二人が恋愛の末に結婚したと伝えている。
教師として英語や文学を伝えるだけでなく、白村は、欧米の新しい文学を日本の読者にもわかる言葉で紹介するようになった。1912年の『近代文学十講』はその代表作である。
近代文学に何が起きたのか。どのように文学の考え方が変わってきたのか。白村は西洋のさまざまな文学思潮を並べ、読み解く仕事をした。大学の教室で扱う知識が、印刷された本を通じて別の読者へ届く。1914年には『文芸思潮論』も刊行し、英文学者という職業の傍らで、評論家としての活動を広げていった。
本は読者を得たが、白村の率直な物言いや目立つ文筆活動には、売名的だと反発する人もいた。鹿島茂が紹介する評伝には、白村が周囲と衝突しがちだった姿も描かれている。教室で文学を教えながら、教室の外で知られるほど、人間関係は平穏ばかりではなかった。
左足を失い、海を渡る
1910年代、白村は左足を失った。2025年の評伝は切断を一章の題に掲げるほど、この出来事を大きく扱っている。教職と著述を続けていた一人の人間の生活に、身体の変化が加わった。
1916年にはアメリカへ留学した。その後、京都帝国大学でも英文学の研究と教育を担う。アメリカでの経験は、帰国後に日本の社会や文化を論じる仕事にもつながった。白村が向き合う題材は、文学作品そのものから、文学を生んだ社会へと広がっていった。
「象牙の塔」の外で書く
1920年、白村は『象牙の塔を出て』を刊行する。象牙の塔とは、研究や思索の世界に閉じこもり、社会の現実から距離を置く姿を示す言葉である。
白村は大学で英文学を教えながら、文筆家も社会の現実に向き合うべきだと論じた。若いころには退学の呼びかけに加わらず学校に残り、今度はその学校の外へ向けて文章を書く。学問を捨てたわけではない。教室で培った知識を、社会について考える言葉にもしていった。
恋愛を讃える言葉の、その先
1921年9月の新聞連載が反響を呼んだころ、世間では白蓮事件をめぐる話題も広がっていた。恋愛は個人の心の問題にとどまらず、結婚を誰が決めるか、いまの家庭をどうするかという社会の議論でもあった。白村はそのさなかに、恋愛を自由や自我の解放と結びつけて語った。
翌年の本には「恋愛と自我解放」「結婚と恋愛」に加え、「恋愛と結婚と経済関係」が収められた。後者で白村は、女性が経済的に独立することを人格と恋愛の双方を守る手段として論じている。収入や生活の不安によって恋愛が脅かされることを避けたい。しかし、その独立を恋愛の必須条件とまでは言わなかった。恋愛を何より大切にする言葉のなかに、生活条件の厄介さを認める一節がある。
一方、恋愛を最上の価値とする思想が、誰にとっても自由に働くとは限らない。菅野聡美は2001年の『消費される恋愛論』で、なぜ白村の本が売れたのか、恋愛の理想が結婚にどんな規範をもたらしたかを検討している。自由を約束する恋愛が、新たな「そうあるべき」を生むこともある。そんな批判的な読みを呼び込むほど、白村の恋愛論は当時の結婚のあり方に深く触れていた。
白村自身は、蝶子と恋愛の末に結婚したと伝えられる。しかし、公に論じた理想が、二人の日々の暮らしでどのように実現していたかは、別の問題として残る。
鎌倉で止まった仕事
『近代の恋愛観』が刊行された翌年、1923年9月1日、関東大震災が起きた。白村は鎌倉で地震に伴う津波に遭い、翌2日に亡くなった。42歳だった。
評論を続ける時間は突然断ち切られた。残された著作は、その後も刊行された。『苦悶の象徴』の単行本が出たのは1924年、白村の死後である。1929年には『厨川白村全集』も編まれた。
その著作は、海を越えて読まれた。中国の作家・魯迅は『苦悶の象徴』や『象牙の塔を出て』を中国語に翻訳した。東京の教室で学生として退学に反対し、京都で文学を教え、新聞で恋愛を語った白村の人生は鎌倉で途切れた。それでも、彼が書いた言葉は日本の外でも読み継がれていった。




