一人の人生を読む
元亀三年(一五七二)、越中の勝興寺へ届けられた書状には、武田信玄と息子・勝頼の名が並んでいる。宛先は寺の住職、顕栄。上杉謙信に対抗していた勝興寺など越中の勢力は、信玄が謙信の本拠を攻め、援護してくれることを期待していた。
書状で信玄は、遠江・三河方面への対応で出兵が遅れ、途中で病にかかったことなどを説明した。そして病は癒えたとして、今後は父子ともに出馬する意向を伝えている。
書状に連署した勝頼は、信玄の四男だった。長男の義信は、すでに武田家の後継者の立場を失っていた。
父が築いた国を、父から奪う
武田信玄は、一五二一年、甲斐国(現在の山梨県)で生まれた。のちに晴信と名乗る。父は甲斐の武田家当主・信虎、母は甲斐の有力一族である大井氏の出身だった。信虎は甲斐の諸勢力をまとめるために戦いを重ねた大名で、晴信が引き継ぐ領国の土台をつくった人物でもある。
しかし一五四一年、晴信はその父を駿河の今川氏のもとへ退け、自ら武田家の当主となった。まだ二十歳ほどの青年による権力交代だった。家臣団のなかにも信虎の統治に不満を抱く者がいたとされ、権力交代には家臣の支持や駿河の今川氏との関係も絡んでいた。晴信は、父が戦ってまとめた甲斐を、その父を退けることで継いだ。
晴信の婚姻もまた、甲斐だけでは閉じない政治の一部だった。正室の三条夫人は京都の公家の家に生まれ、二人の間には長男・義信が生まれた。晴信の姉は駿河の今川義元に嫁ぎ、のちには義信も義元の娘と結婚する。武田と今川は、同盟を親族の関係によって固めていた。
信濃へ進む軍と、甲斐に残る仕事
当主となった晴信は、甲斐の北に広がる信濃国(現在の長野県)へ軍を進めた。信濃には諏訪氏、小笠原氏、村上氏など、それぞれ土地と家臣を持つ有力者がいた。晴信の侵攻によって敗れた人々の中には、越後の長尾景虎、のちの上杉謙信に助けを求める者も現れた。両者が川中島をめぐって繰り返し対峙する背景には、そうした信濃の諸勢力の動きがあった。
信濃への進出は、合戦に勝てば終わる仕事ではなかった。獲得した土地をだれに任せ、家臣の争いをどう裁き、どれほどの兵と物資を用意させるか。軍を外へ出すほど、領国の内側には定めるべきことが増えていった。
一五四七年に原型が成立したとされる「甲州法度之次第」は、その統治の一面を示す。家臣の行動を規律する武田家の法であり、隣国今川氏の法からも強い影響を受けていた。
甲府盆地では、釜無川と御勅使川の流れが田畑や村を脅かしていた。のちに「信玄堤」と呼ばれる堤防は、信玄の命令で築かれたと伝えられる。だが、工事の年代や規模には後世の記録に頼る部分があり、現在知られる堤防も長い時間をかけて改修されている。
堤を維持するためには、川沿いの村々が労働や資材を負担した。洪水から田畑を守る一方、村の人々に仕事を割り当てることも、領国を治める大名の役割だった。
川中島で、弟を失う
信濃をめぐる上杉氏との争いは、一五五三年から一五六四年にかけて何度も繰り返された。一五六一年の戦いでは、武田方の損失が大きく、信玄の弟・信繁も命を落とした。
信繁が生前に出した書状が、長野市立博物館に残っている。そこには、長尾景虎が川中島へ進むという情報を受け、自分は佐久まで出陣したこと、敵に対して一戦を遂げようとしていることが書かれていたという。兄の戦を支えた弟自身の行動が、この書状に残されている。
大きな合戦として知られる川中島には、信玄と謙信が一騎討ちをしたという話も残る。江戸初期に成立した軍学書『甲陽軍鑑』が伝える合戦の描写は、のちの物語に広く影響した。その一騎討ちを同時代史料で確かめることは難しい。一方、信繁の戦死は記録に残り、信玄にとって川中島は弟を失った戦でもあった。
その間、信濃では村上氏などの旧領主が退き、武田に仕える者と、武田に抗する者との関係が組み替わっていた。信玄の領国が広がるにつれ、戦場で勝つことと、新しく従えた人々を長くつなぎ止めることは、ますます切り離せなくなった。
長男がいなくなった家
晴信は一五五九年に出家して、信玄と号した。
今川義元が一五六〇年の桶狭間の戦いで死去すると、跡を継いだ氏真のもとで今川氏の勢力は衰え、信玄は駿河への進出を図るようになった。嫡男・義信は今川義元の娘を妻に迎えており、父の駿河進出は息子の婚家との同盟を揺るがすものだった。
一五六五年、義信の側近だった飯富虎昌が謀反の疑いで処刑された。義信も甲府の東光寺に幽閉され、二年後の一五六七年に死去した。信玄と義信の対立には外交や家中の事情が重なり、経過には不明な部分も残る。武田家を継ぐはずだった長男は、父の存命中にその座を失った。
このころ、信玄は信濃の生島足島神社で家臣たちに誓約をさせた。残された八十三通の起請文には、信玄に背かず、上杉方から誘われても応じないといった約束が記されている。神前での誓いには血判も使われた。武田の領国は甲斐の外へ大きく伸びていたが、従う武将たちの忠誠は、改めて文書で確かめなければならないものだった。
駿河へ進み、同盟が崩れる
義信の失脚とともに、今川氏との婚姻を通じた結びつきも崩れた。信玄は一五六八年、駿河へ軍を進める。信玄は当初、徳川家康と今川領へ攻め込む取り決めを結んだ。しかし北条氏との同盟が破れ、徳川氏との協力関係も長くは続かなかった。
信玄の軍勢が攻め込んだ土地にも、戦の記録が残る。相模国の厚木周辺には、一五六九年の小田原方面への侵攻の際、寺社が焼かれたという地域の記録が伝わっている。
北条氏や上杉氏との対立を抱えたまま、武田と徳川の衝突は遠江・三河へと広がっていった。
のちに家を継ぐ勝頼は信玄の四男で、母は諏訪氏出身の女性だった。実名は伝わらず、一般には諏訪御料人と呼ばれる。義信の母である三条夫人とは異なる家筋に生まれた勝頼が、武田家の次を担う立場になった。
連署の先にあった帰路
冒頭の書状が出されたのは、そのような時期だった。元亀三年の旧暦十月一日付の信玄・勝頼連署書状は、越中で上杉謙信に対抗していた勝興寺住職の顕栄に宛てられている。信玄は、病にかかったため軍を進められなかったこと、今は回復していることを説明した。外交上の手紙で述べた病状が、どこまで実際の身体の状態に一致していたかは分からない。
現存する原本で父子の連署が確かめられるのは、この一通だけだという。勝頼を連署させた理由には研究者の解釈があるが、対上杉氏の交渉に、信玄が勝頼の名も連ねていたことは確かである。
同年秋、信玄は勝頼とともに軍を率いて遠江・三河方面へ進んだ。旧暦十二月、三方ヶ原で徳川家康らの軍と戦い、勝利を収める。武田の軍事力が広く知られる戦いの一つである。しかしその後、遠征を続ける信玄の体調は悪化していった。
翌一五七三年、武田軍は野田城を攻略した後、帰国へ向かうことになった。信玄は元亀四年の旧暦四月十二日(西暦一五七三年五月十三日)、甲斐へ戻る途中の信濃国駒場で死去する。五十一歳、数え年で五十三歳だった。死因は定かではない。野田城攻めで銃撃を受けたという後世の逸話もあるが、確証はない。
書き継がれた法、語り継がれた合戦
信玄の死後も、武田家の法は書き写された。東京大学に残る「甲州法度之次第」は、一五八〇年、勝頼の時代に写されたものと考えられている。信玄の時代に定められた法が、次の当主の時代にも書き写されて伝わった。
一方、川中島の一騎討ちのような場面は、江戸初期の軍学書を通して語り継がれた。現在「信玄堤」と呼ばれる河川施設にも、江戸時代の普請や後年の改修が重なっている。
父信虎を退けて武田家を継いだ晴信が亡くなると、家は勝頼へ引き継がれた。勝興寺の連署書状には、その前年、対上杉氏の交渉に名を並べた父と息子の姿が残されている。




