Hegelroom / Biography

Robert Moses

都市計画 / ニューヨーク市 / 1888–1981

人びとのために都市を造り替えた。その都市に、すでに暮らしていた人びともいた。

1939年、未完成のバッテリー橋計画模型の前に立ち、下を向くロバート・モーゼスの白黒写真。
1888Born
1981Died
92歳Age
都市計画Field

02 / Profile

ロバート・モーゼスとは?

ロバート・モーゼス(1888–1981)は、20世紀ニューヨークの公園、橋、高速道路、公共施設の建設を推進した行政官。若いころの公務員制度改革は実らなかったが、州知事の側近から公園行政へ進み、複数の公社と行政職を通じて都市を大きく変えた。市営プールや海浜を整備する一方、道路建設では住民の立ち退きと反対運動を招き、晩年は権限を失った後も未成の橋を構想し続けた。

生誕
1888年12月18日
死去
1981年7月29日
年齢
92歳
出生地
アメリカ・コネティカット州ニューヘイブン
活動地域
ニューヨーク市、ロングアイランド、ブロンクス
分野
都市計画、公共事業、政治・行政

03 / Life

一人の人生を読む

一度に1700人が泳げる場所

1936年6月24日、ニューヨークのロウアーイーストサイドで、市営のハミルトン・フィッシュ・プールが開場した。そこには市長のフィオレロ・ラガーディアと、公園局長のロバート・モーゼスがいた。

水泳場には大きなプール、飛び込み用の水槽、幼い子ども向けの浅いプールがあり、三つ合わせて1700人を収容できた。14歳未満の子どもは、土日と祝日を除く午前10時から午後1時まで無料で入れた。料金と利用時間も、公園局が開場日に発表した具体的な約束だった。

橋や道路の建設者として知られるモーゼスは、人が泳ぎ、夏を過ごすための場所も造った。市営プールは、彼が進めた公共事業の利益が、利用時間や入場料という形で住民に届く場所だった。

その一方で、彼が進めた高速道路の建設では、住まいを失った人びともいた。新しい施設が開くことと、すでにある街の暮らしを守ること。その両方が、彼の仕事の中で問われていく。

公務員を変えられなかった青年

モーゼスは1888年、コネティカット州ニューヘイブンの商人の家庭に生まれた。1897年に一家でニューヨークへ移る。母ベラは、移民の生活を助ける地域活動にかかわっていた。

エール大学を卒業し、オックスフォード大学を経て、コロンビア大学で政治学の博士号を得た。1915年にはメアリー・ルイーズ・シムズと結婚し、のちに二人の娘を持つ。そのころ仕事で取り組んでいたのは、道路でも建築でもなかった。

市役所の仕事を、縁故ではなく能力で人を採用・昇進させる仕組みに変えようとしたのである。当時のニューヨークでは、公務員の採用や職の配分が政党組織と深く結びついていた。若いモーゼスは行政改革の調査機関に入り、制度の変更を提案した。だが、その案は採用されなかった。

州政府の組織を組み直そうとする仕事でも、すぐには結果を得られなかった。しかし、その活動を通じてモーゼスを見いだしたのが、政治改革に携わったベル・モスコウィッツだった。彼女が仕えた州知事アル・スミスの下で、モーゼスは州の行政に仕事場を移す。

市役所を改革する案は退けられた。次に彼が実際に動かしたのは、州の法律を通じて行政組織そのものをつくり直す仕事だった。

浜辺まで続く道路

1924年、モーゼスは州公園評議会とロングアイランド州立公園委員会を設ける法律を起草し、二つの組織の長に就いた。改革案を採用してもらえなかった青年が、今度は自ら制度をつくり、事業を進める立場になった。

大都市の外に広い公園をつくり、そこへ行く道路も一緒に整える。彼が力を注いだロングアイランドのジョーンズ・ビーチは、1929年に開かれた。浜辺の整備に道路や駐車場の建設を組み合わせ、行楽地へ着くまでを一つの事業にした。

道路そのものを緑に囲まれた行楽路として整える構想には、人びとに海や自然へ出かけてもらう意図があった。一方、その行楽路は主として自家用車で走ることを想定していた。公園が開かれたことと、誰もが同じように行けたことは、同じではない。

1939年のロバート・モーゼスが、実現しなかったバッテリー橋と都市の模型を見つめる白黒写真。
1939年、実現しなかったバッテリー橋計画の模型を前にするモーゼス。C. M. Stieglitz撮影/Wikimedia Commons(パブリックドメイン)。 — C. M. Stieglitz (New York World-Telegram & Sun) / Public domain (PD-NYWT&S)

選挙で選ばれないまま

1934年、モーゼスはニューヨーク市の公園局長となり、トライボロー橋梁当局の責任者にもなった。それまでの州の役職も重ね、広い地域の道路、橋、公園を同時に扱った。

モーゼスは都市の施設を決める大きな力を持ったが、選挙で当選して得た公職は一度もなかった。1934年には州知事選に立候補して敗れている。

落選しても、任命された役職と公社の権限は残った。公社は、特定の公共事業を建設・運営するための組織である。1936年、公園局の発表には、マリン・パークウェイ橋の建設資金として発行した600万ドルの債券を、橋の通行料15セントと駐車料金25セントで返済する仕組みが記されている。

橋を架け、その利用者から料金を集め、借り入れた資金を返す。モーゼスは行政の肩書だけでなく、こうした事業を動かし続ける財源を手にした。

道路予定地には、すでに家があった

ブロンクスを横断する高速道路の計画は、地図の上では地域をつなぐ一本の線だった。現地には、その線が通る前から住宅や商店が並び、人びとの生活があった。

道路の建設に伴い、イースト・トレモント地区では多くの住民が立ち退いた。伝記作家ロバート・カロは、後年その住民たちを取材し、住まいと地域のつながりが失われていく過程を書き残した。かつて遠方の海岸への行き方を変えたモーゼスの道路づくりは、ブロンクスでは人びとを街区から移転させる事業にもなった。

マンハッタンのワシントン・スクエア公園でも、計画の受け止め方が分かれた。モーゼスは公園を通る車の流れをつくり直そうとし、1952年には凱旋門の両側を通る二本の車道を提案した。地域に住むシャーリー・ヘイズやイーディス・ライオンズらが反対運動を組織し、ジェイン・ジェイコブズなども後から運動に加わった。住民側は手紙や請願書を集め、車が走る場所でなく、人がとどまる公園を求めた。

1958年に車の通行を一時的に止める決定がなされ、1959年に一般車両を通さない方針が認められた。法的な手続きは1963年までかかった。

交通の流れをつくり直すモーゼスの案に対して、ヘイズたちは公園から車をなくそうとした。建設を進める側ではなく、そこで暮らす人びとの活動によって、道路の計画が退けられた。

まだ造りたい橋があった

1968年、トライボロー橋梁トンネル公社は、鉄道や道路などを広域で扱うニューヨーク都市圏交通公社(MTA)に統合された。モーゼスは長年の責任者の地位を離れ、顧問となった。

役職が変わっても、彼には造りたい橋があった。ロングアイランドと対岸を結ぶ、海峡横断橋である。交通の混雑を減らし、新しい経路をつくる計画として、彼は長くその必要を訴えていた。

しかし1973年、ネルソン・ロックフェラー州知事は橋の計画を中止した。環境への影響に加えて、沿岸地域の暮らしを大きく変えることも理由に挙げられた。大規模な工事を実現し続けたモーゼスには、最後まで手にできない計画が残った。

翌1974年の夏、ロバート・カロによる評伝『パワー・ブローカー』からの抜粋が『ニューヨーカー』誌に連載された。モーゼスは8月26日、23ページにわたる反論を公にした。道路を造るには人を移さずに済ませる方法などあるのか、と彼は批判者へ問い返す。立ち退き後の生活は良くなった、とも主張した。

モーゼスは、道路のための移転を事業の必要な代償として弁護した。カロの取材が記録したのは、その代償を引き受けた住民の暮らしだった。工事を動かす権限から離れた晩年にも、自分が都市に残したものをめぐる論争は続いた。

都市に残る、違う二つの風景

ロバート・モーゼスは1981年7月29日、92歳で亡くなった。彼が手がけた施設と道路は、その後も都市の中で使われ続けた。

いまもニューヨークには、彼が整備を進めた海浜、公園、橋、道路がある。公園で泳ぐ人も、橋を渡る人も、それぞれに恩恵を受ける。一方、地図から消えた街路や、道路に分けられた地区も都市の歴史に含まれている。

1936年にモーゼスが開場に立ち会ったプールは、子どもたちが無料で泳げる時間を用意した。クロスブロンクス高速道路の予定地には、工事の前からそこに暮らす人びとの家があった。利用できる場所を新しく造った人と、すでにある場所を取り去った人。それは同じロバート・モーゼスだった。

04 / Timeline

時間の輪郭

  1. 1888年

    コネティカット州ニューヘイブンに生まれる。

  2. 1897年

    一家でニューヨークへ移る。

  3. 1914年

    コロンビア大学で博士号を取得。行政制度改革に取り組むが、案は採用されない。

  4. 1924年

    ニューヨーク州の公園行政の制度設計に携わり、州公園委員会の幹部となる。

  5. 1929年

    ロングアイランドのジョーンズ・ビーチ州立公園が開園する。

  6. 1934年

    ニューヨーク市公園局長とトライボロー橋梁当局の長を兼ねる。知事選には出馬して敗れる。

  7. 1936年

    ハミルトン・フィッシュ市営プールが開場。

  8. 1950年代

    高速道路による立ち退きと公園内車道案をめぐる反対運動が激しくなる。

  9. 1968年

    トライボロー橋梁トンネル公社が交通公社に統合され、本人は顧問職に移る。

  10. 1973年

    最後まで構想したロングアイランド海峡横断橋が中止される。

  11. 1974年

    ロバート・カロの評伝からの雑誌連載に対し、23ページの反論文を発表する。

  12. 1981年

    92歳で死去。

05 / Works

主な事業と計画

01

海浜公園 / ニューヨーク州ロングアイランド / 1929年

ジョーンズ・ビーチ州立公園

都市の人びとに広い海浜を開く構想を実現した。車で行くための道路整備と結びついていた。

02

市営水泳施設 / ニューヨーク市ロウアーイーストサイド / 1936年

ハミルトン・フィッシュ・プール

1936年6月24日に開場。子どもの無料利用時間を設けた。

03

橋梁事業 / ニューヨーク市 / 1936年

トライボロー橋

複数の地域を結ぶ橋。通行料収入を伴う公社事業の象徴となった。

04

都市高速道路 / ブロンクス

クロスブロンクス高速道路

移動を結ぶ工事のため、沿道では立ち退きと生活の断絶が起きた。

05

実現しなかった道路計画 / マンハッタン

ワシントン・スクエア公園の車道計画

住民運動が公園の車両通行を終わらせる方向へ動き、本人の構想どおりにはならなかった。

06 / Conditions

ロバート・モーゼスの人生をつくったもの

  • 01

    水辺を公園に変える

    誰もが使える海浜やプールを増やすため、州と市の公園事業を押し進めた。

  • 02

    選挙に勝たずに都市を動かす

    法律、行政の役職、公社とその財源を組み合わせ、長期間にわたり公共事業を動かした。

  • 03

    道路が通る場所に住む人

    高速道路の建設は移動を便利にした一方、既存の街区や住民生活を壊した。

  • 04

    造れなかった最後の橋

    強い権限を失ったあとも橋の計画を進めたが、中止され、自らの仕事への批判にも反論し続けた。

07 / Read more

もっと知る

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