一人の人生を読む
一度に1700人が泳げる場所
1936年6月24日、ニューヨークのロウアーイーストサイドで、市営のハミルトン・フィッシュ・プールが開場した。そこには市長のフィオレロ・ラガーディアと、公園局長のロバート・モーゼスがいた。
水泳場には大きなプール、飛び込み用の水槽、幼い子ども向けの浅いプールがあり、三つ合わせて1700人を収容できた。14歳未満の子どもは、土日と祝日を除く午前10時から午後1時まで無料で入れた。料金と利用時間も、公園局が開場日に発表した具体的な約束だった。
橋や道路の建設者として知られるモーゼスは、人が泳ぎ、夏を過ごすための場所も造った。市営プールは、彼が進めた公共事業の利益が、利用時間や入場料という形で住民に届く場所だった。
その一方で、彼が進めた高速道路の建設では、住まいを失った人びともいた。新しい施設が開くことと、すでにある街の暮らしを守ること。その両方が、彼の仕事の中で問われていく。
公務員を変えられなかった青年
モーゼスは1888年、コネティカット州ニューヘイブンの商人の家庭に生まれた。1897年に一家でニューヨークへ移る。母ベラは、移民の生活を助ける地域活動にかかわっていた。
エール大学を卒業し、オックスフォード大学を経て、コロンビア大学で政治学の博士号を得た。1915年にはメアリー・ルイーズ・シムズと結婚し、のちに二人の娘を持つ。そのころ仕事で取り組んでいたのは、道路でも建築でもなかった。
市役所の仕事を、縁故ではなく能力で人を採用・昇進させる仕組みに変えようとしたのである。当時のニューヨークでは、公務員の採用や職の配分が政党組織と深く結びついていた。若いモーゼスは行政改革の調査機関に入り、制度の変更を提案した。だが、その案は採用されなかった。
州政府の組織を組み直そうとする仕事でも、すぐには結果を得られなかった。しかし、その活動を通じてモーゼスを見いだしたのが、政治改革に携わったベル・モスコウィッツだった。彼女が仕えた州知事アル・スミスの下で、モーゼスは州の行政に仕事場を移す。
市役所を改革する案は退けられた。次に彼が実際に動かしたのは、州の法律を通じて行政組織そのものをつくり直す仕事だった。
浜辺まで続く道路
1924年、モーゼスは州公園評議会とロングアイランド州立公園委員会を設ける法律を起草し、二つの組織の長に就いた。改革案を採用してもらえなかった青年が、今度は自ら制度をつくり、事業を進める立場になった。
大都市の外に広い公園をつくり、そこへ行く道路も一緒に整える。彼が力を注いだロングアイランドのジョーンズ・ビーチは、1929年に開かれた。浜辺の整備に道路や駐車場の建設を組み合わせ、行楽地へ着くまでを一つの事業にした。
道路そのものを緑に囲まれた行楽路として整える構想には、人びとに海や自然へ出かけてもらう意図があった。一方、その行楽路は主として自家用車で走ることを想定していた。公園が開かれたことと、誰もが同じように行けたことは、同じではない。
選挙で選ばれないまま
1934年、モーゼスはニューヨーク市の公園局長となり、トライボロー橋梁当局の責任者にもなった。それまでの州の役職も重ね、広い地域の道路、橋、公園を同時に扱った。
モーゼスは都市の施設を決める大きな力を持ったが、選挙で当選して得た公職は一度もなかった。1934年には州知事選に立候補して敗れている。
落選しても、任命された役職と公社の権限は残った。公社は、特定の公共事業を建設・運営するための組織である。1936年、公園局の発表には、マリン・パークウェイ橋の建設資金として発行した600万ドルの債券を、橋の通行料15セントと駐車料金25セントで返済する仕組みが記されている。
橋を架け、その利用者から料金を集め、借り入れた資金を返す。モーゼスは行政の肩書だけでなく、こうした事業を動かし続ける財源を手にした。
道路予定地には、すでに家があった
ブロンクスを横断する高速道路の計画は、地図の上では地域をつなぐ一本の線だった。現地には、その線が通る前から住宅や商店が並び、人びとの生活があった。
道路の建設に伴い、イースト・トレモント地区では多くの住民が立ち退いた。伝記作家ロバート・カロは、後年その住民たちを取材し、住まいと地域のつながりが失われていく過程を書き残した。かつて遠方の海岸への行き方を変えたモーゼスの道路づくりは、ブロンクスでは人びとを街区から移転させる事業にもなった。
マンハッタンのワシントン・スクエア公園でも、計画の受け止め方が分かれた。モーゼスは公園を通る車の流れをつくり直そうとし、1952年には凱旋門の両側を通る二本の車道を提案した。地域に住むシャーリー・ヘイズやイーディス・ライオンズらが反対運動を組織し、ジェイン・ジェイコブズなども後から運動に加わった。住民側は手紙や請願書を集め、車が走る場所でなく、人がとどまる公園を求めた。
1958年に車の通行を一時的に止める決定がなされ、1959年に一般車両を通さない方針が認められた。法的な手続きは1963年までかかった。
交通の流れをつくり直すモーゼスの案に対して、ヘイズたちは公園から車をなくそうとした。建設を進める側ではなく、そこで暮らす人びとの活動によって、道路の計画が退けられた。
まだ造りたい橋があった
1968年、トライボロー橋梁トンネル公社は、鉄道や道路などを広域で扱うニューヨーク都市圏交通公社(MTA)に統合された。モーゼスは長年の責任者の地位を離れ、顧問となった。
役職が変わっても、彼には造りたい橋があった。ロングアイランドと対岸を結ぶ、海峡横断橋である。交通の混雑を減らし、新しい経路をつくる計画として、彼は長くその必要を訴えていた。
しかし1973年、ネルソン・ロックフェラー州知事は橋の計画を中止した。環境への影響に加えて、沿岸地域の暮らしを大きく変えることも理由に挙げられた。大規模な工事を実現し続けたモーゼスには、最後まで手にできない計画が残った。
翌1974年の夏、ロバート・カロによる評伝『パワー・ブローカー』からの抜粋が『ニューヨーカー』誌に連載された。モーゼスは8月26日、23ページにわたる反論を公にした。道路を造るには人を移さずに済ませる方法などあるのか、と彼は批判者へ問い返す。立ち退き後の生活は良くなった、とも主張した。
モーゼスは、道路のための移転を事業の必要な代償として弁護した。カロの取材が記録したのは、その代償を引き受けた住民の暮らしだった。工事を動かす権限から離れた晩年にも、自分が都市に残したものをめぐる論争は続いた。
都市に残る、違う二つの風景
ロバート・モーゼスは1981年7月29日、92歳で亡くなった。彼が手がけた施設と道路は、その後も都市の中で使われ続けた。
いまもニューヨークには、彼が整備を進めた海浜、公園、橋、道路がある。公園で泳ぐ人も、橋を渡る人も、それぞれに恩恵を受ける。一方、地図から消えた街路や、道路に分けられた地区も都市の歴史に含まれている。
1936年にモーゼスが開場に立ち会ったプールは、子どもたちが無料で泳げる時間を用意した。クロスブロンクス高速道路の予定地には、工事の前からそこに暮らす人びとの家があった。利用できる場所を新しく造った人と、すでにある場所を取り去った人。それは同じロバート・モーゼスだった。




