一人の人生を読む
引っ越したその日、嵐が来た
1938年9月21日、アメリカのマサチューセッツ州リンカーンで、ヴァルター・グロピウス(Walter Gropius)とその家族が新居に移り住んだ。その日、ニューイングランド地方を大きな暴風雨が襲った。家の仕上げの作業をしていた施工者キャスパー・ジェニーは、帰らずに一晩泊まることになる。新しい家の最初の宿泊客は、そこで暮らす家族以外の、家を一緒につくった職人だった。
グロピウスは、ドイツで創設したデザイン学校バウハウスの名によって、すでに知られた建築家だった。しかし、この家を自分の資金だけで建てたわけではない。土地と建築費を提供したのは地元の支援者ヘレン・ストローで、一家は当初、家を彼女から借りて住んでいた。
新居には木の外壁、煉瓦の煙突、石の基礎がある。ニューイングランドの建築で使われてきた材料だ。一方で、ガラスブロックや水平に延びる窓を取り入れ、近代的な設計を試している。妻イーゼは家の使い勝手について意見を出し、娘アティも自分の部屋に希望を持っていた。設計図に描かれた家が、家族と職人の手で実際の住まいへ変わろうとしていた。
このとき、グロピウスは55歳。バウハウスの校長を辞めてから、十年が過ぎていた。
工場を設計した若者
グロピウスは1883年、ベルリンの中上流家庭に生まれた。大伯父のマルティン・グロピウスも建築家だった。ミュンヘンとベルリンで建築を学んだ後、1908年にペーター・ベーレンスの事務所に入った。ベーレンスは、ドイツの電機企業アーエーゲー(AEG)の製品や建築にも関わり、工業と造形を結びつける仕事をしていた。
グロピウスが独立して間もない1911年、アドルフ・マイヤーとともに手掛けたのが、靴型をつくるファグス工場である。工場は人が毎日働き、生産が続く場所だ。二人はそこに広いガラス面と鋼の構造を用い、工場の姿を変えた。機能を隠す飾りをつけるより、建物のつくり方そのものを考え直す試みだった。
当時、グロピウスは家具や工業製品の設計にも取り組んでいた。だが1914年に第一次世界大戦が始まると、西部戦線に従軍した。
戦争中の1915年、グロピウスは作曲家グスタフ・マーラーの未亡人アルマと結婚し、翌年、娘マノンが生まれた。二人は1920年に離婚し、マノンは1935年に亡くなった。
自分の建物より先に、学校をつくる
戦争の翌年、1919年にグロピウスが創設したのがバウハウスだった。場所はドイツのヴァイマル。美術学校と工芸学校を一つにし、芸術家と職人が分かれて仕事をするあり方を変えようとした。
工房では、造形を教える芸術家と、技術を教える職人の双方が学生を導いた。木工、金属、織物など、素材と手を使う経験の先に、建築を考えるという道筋を置いた。新しい椅子や照明や建物を生み出すことだけが目的ではない。何をどう学び、どんな人間が共同で制作するのか。グロピウスは建築家であると同時に、教育の制度をつくる人間になった。
1919年の夏学期に入った学生は女性84人、男性79人だった。学校は性別を問わず入学を認めたが、グロピウスは女性の受け入れ方を制限する方針を示し、女性学生の多くが織物工房へ向かった。その工房からは、のちに独創的なデザインも生まれた。
学校を守るため、教え方を変える
発足した学校は、そのままの形で続いたわけではない。1923年、グロピウスは「芸術と技術の新しい統一」を掲げ、工業的な生産へ教育の重点を移した。学校で表現主義的な教育を担っていたヨハネス・イッテンが去り、代わってラースロー・モホリ=ナジが招かれる。何をよい仕事と考えるかが変われば、そこで教える人の顔ぶれも変わる。
学校には政治と経済の問題も押し寄せた。1924年の州議会選挙で保守・右派が力を増すと、バウハウスの予算は大きく削られた。同年末にはヴァイマルでの閉校が宣言される。グロピウスは学校そのものを終わらせず、工業都市デッサウへ移すことにした。
デッサウでは、新しい校舎を設計する機会が来た。1926年12月に披露された建物は、ガラスの外壁を持つ工房棟を備え、学校の活動を街からも見える形にした。教師たちが住む住宅や、市民のための住宅地計画も生まれた。学校は展示会で理想を語るだけでなく、その理想を試す建物をつくる場所になった。
それでも政治的な対立は続く。1928年、グロピウスはバウハウスの校長を退任した。後任のハンネス・マイヤーは、グロピウス自身が学校へ招いた建築家だった。グロピウスは校舎も学校の名前も残して去り、ベルリンで再び自分の設計事務所の仕事を進めることになる。
学校の歴史と創設者の人生はここで分かれる。バウハウスは1933年に閉鎖されるが、グロピウスは校長を辞めた後も40年以上生き、建築家として働き続けた。
別の国で、暮らしを建て直す
ベルリンでの仕事では、住宅を多数つくるための設計に関わった。だがドイツにはナチ政権が成立する。グロピウスは1934年に英国へ移り、1937年、さらにアメリカへ渡った。ハーバード大学の大学院で建築を教える仕事を得たのである。
彼の傍らには、1923年に結婚した妻イーゼがいた。バウハウス時代には学校の対外的な活動を支え、渡米後は新居の使い勝手や設計についてグロピウスと意見を交わした。イーゼの姪アティを、夫妻は養女として迎えていた。
新しい家で暮らすアティは、自分の部屋の天井をガラスにして星を眺め、床には砂を敷きたいと望んだ。どちらも実現しなかったが、部屋から直接出られる屋上デッキは設けられた。大人たちが家の設計を話し合うなかで、アティにも自分の望む部屋の姿があった。
現場では、グロピウスは地元の施工者ジェニー、大工ジャック・スタッドリーと設計の変更を話し合った。二人が慣れ親しんだ木造技術は、グロピウスの設計を実際の家にしていく。入居の日に嵐が来たとき、家に泊まることになったのも、この現場の職人だった。
同じ頃、バウハウスで教え子でもあったマルセル・ブロイヤーがアメリカに渡ってきた。グロピウスは彼のハーバード大学での仕事にもつながりをつくり、二人は設計事務所を共同で運営した。学校を離れても、人とともにつくるための関係は続いていた。
校長を辞めた後の四十年
戦後、グロピウスは若い建築家たちと共同設計事務所「アーキテクツ・コラボラティブ」を設立した。ハーバード大学の施設などにも携わり、設計を複数の建築家で分担した。かつて教師と学生が働く工房を組織した彼は、今度は建築家同士で仕事を進める場をつくった。
1955年、グロピウスはラジオのインタビューで、住宅は家族の変化に応じなければならないと話した。子どもが小さい時期と、成長した後、家を離れた後では、暮らし方が違う。また建築には技術や費用だけでなく、美しさや心理的な満足も必要だと語った。機能だけを追う建築家だと批判されてきたことに対しても、本人は異を唱えている。
住む人の変化に合わせて家を考えるというその言葉は、リンカーンの自宅でイーゼやアティの希望に向き合った経験とも重なる。
晩年もグロピウスの仕事は続いた。1950年代後半にはベルリンで集合住宅に取り組み、1960年代には工場やバウハウスの資料を残す施設の計画に関わった。学校を去り、国を去った後も、建築家としての活動は一つの場所には収まらなかった。
1969年7月5日、グロピウスはボストンで死去した。86歳だった。リンカーンの家は、その後イーゼの働きかけで保存・公開されることになった。そこにはグロピウスの設計とともに、家族が暮らすために出した希望、ヘレン・ストローの援助、現場の職人たちの工夫が残されている。




