一人の人生を読む
1918年、建築学生の時間が内戦で止まる
アルヴァ・アアルトは1898年、フィンランド西部のクオルタネに生まれた。父ヨハン・ヘンリクは測量技師、母セルマは郵便局員だった。5歳のとき一家はユヴァスキュラへ移る。湖と丘に囲まれた町で育った少年は絵を好み、1916年、建築を学ぶためヘルシンキへ出た。
その翌年、フィンランドはロシアから独立する。しかし独立は、そのまま平穏な国家の誕生を意味しなかった。1918年には内戦が起き、工科大学の学生だったアアルトの学業も中断された。
戦争が終わると大学へ戻り、絵を描き、新聞に美術記事を書きながら学んだ。1921年に卒業してヘルシンキで仕事を始めたが、望むような依頼は集まらない。最初の仕事は、友人のつながりを通じて首都から離れた土地で得たものだった。
1923年、25歳のアアルトはユヴァスキュラへ戻って自分の事務所を開いた。後に世界各地で建物をつくる人の出発点は、首都で仕事を増やすことではなく、いったん故郷へ戻ることだった。
1924年、事務所に入った建築家と結婚する
翌1924年、建築家アイノ・マルシオが事務所に入った。アイノはすでに建築教育を終え、別の設計事務所でも働いていた。同年秋、二人は結婚する。新婚旅行はスイスを経由してイタリアへ向かう建築旅行でもあった。
二人のあいだには1925年に娘ヨハンナ、1928年に息子ハミルカルが生まれた。その間にも設計競技へ応募し、1927年には仕事をきっかけに家族と事務所をトゥルクへ移した。そこでエリック・ブリュッグマンらと交流し、1929年には近代建築国際会議(CIAM)を通してジークフリート・ギーディオンやラースロー・モホイ=ナジら国際的なモダニズムの人々ともつながっていく。
アアルトの仕事は、このころ急速に古典主義から機能主義へ動いた。ただし、それは一人で新しい様式を発見したというより、旅、設計競技、同僚、国際会議、そしてアイノとの日々の実務が重なった変化だった。
パイミオで、「機能」を患者の身体から考える
1929年、アアルトは結核療養所の設計競技に勝つ。1933年に完成したパイミオのサナトリウムは、鉄筋コンクリート、設備、用途ごとの明快な構成を持つ機能主義建築だった。
しかし、そこで扱われた「機能」は配管や構造だけではない。患者が長時間横になったまま見る天井の色、光の入り方、空気、音、洗面器の形、椅子の姿勢までが設計対象になった。色彩計画には装飾家エイノ・カウリアも加わり、家具はアイノや家具職人オットー・コルホネンとの仕事の中で発展していった。
1940年、アアルトは英語圏の建築誌に「建築の人間化」と題する文章を発表した。そこで彼は、近代建築が技術的・経済的な機能を進めてきたことを認めながら、人間の側から機能しなければ十分ではないと論じた。
パイミオからこの文章までを見ると、アアルトは機能主義を捨てたのではない。むしろ「何に対して機能するのか」を広げようとしていたように見える。機械や施工だけでなく、眠る、座る、見る、呼吸するという人間の時間まで、機能の中に入れようとした。
椅子が建物の外へ出て、会社になる
パイミオで進めた曲げ木の家具は、やがて建物から離れて販売されるようになる。1935年、アルヴァとアイノは、友人のマイレ・グリクセン、ニルス=グスタフ・ハールとともにアルテックを設立した。
目的は家具を売ることだけではなく、展覧会や教育活動を通して新しい生活文化を広げることだった。建築事務所でつくった椅子が製品になり、製品を売る会社が文化活動の拠点にもなる。アアルトにとって設計の範囲は、建物の外へ伸びていった。
同じ時期、アイノとアルヴァはヘルシンキのムンッキニエミに自分たちの家を建てた。1936年に完成した自邸には、家族の居住空間と建築事務所が同居していた。仕事と生活は、理念として結びついていたというより、実際に同じ建物の中で動いていた。
マイレと夫ハリー・グリクセンとの友情は、さらに仕事へつながった。1930年代後半、アイノとアルヴァは二人のためにマイレア邸を設計する。施主は単なる発注者ではなく友人であり、マイレはアルテックの共同創業者でもあった。代表作の一つは、設計者と施主、企業、文化活動のネットワークの中から生まれている。
世界へ出たところで、戦争が設計の前提を変える
1938年、アアルトの展覧会がニューヨーク近代美術館で開かれた。翌年にもアメリカへ渡り、国際的な仕事と人脈は広がっていく。
ところが1939年、冬戦争が始まった。1940年にマサチューセッツ工科大学(MIT)の研究教授としてアメリカへ渡る計画も、戦争のため長くは続かなかった。フィンランドでは、戦後に何をどう建て直すかが現実の問題になる。アアルトは規格住宅、プレファブ、都市計画を考え、標準化そのものにも深く関わった。
ここにも、彼の「人間的」という言葉の少し面白いところがある。個性的な曲線をつくることと、工業化を嫌うことは同じではなかった。大量に必要な住宅なら、標準化は避けられない。そのうえで、同じ部品からどれだけ異なる暮らし方をつくれるかを考えた。
1946年から再びマサチューセッツ工科大学で教え、チャールズ川沿いにベーカー・ハウスを設計した。戦争によっていったん途切れたアメリカとの関係は、別の形で続いた。
愛情と共同制作の隣に、結婚生活の摩擦も残った
アイノとアルヴァの往復書簡には、仕事の相談、旅の報告、子どものこと、互いへの強い愛情が同じ紙の上に現れる。一方、後に公開された資料には、アルヴァの女性関係をうかがわせる記述や、飲酒を気遣うアイノの言葉も残っている。
仕事では二人の設計を分けにくいほど協働していたが、家庭で担っていた役割まで同じだったわけではない。資料を調べたドキュメンタリー監督ヴィルピ・スータリは、職業上の対等さと、家庭内でアイノに期待された世話の役割が同時にあったと指摘している。
1949年1月、アイノは長い病気の末に54歳で亡くなった。二人が結婚してから25年近くが経っていた。
同じ1949年、建築家エルサ=カイサ・マキニエミがアアルトの事務所に入った。彼女はセイナッツァロの村役場などで大きな責任を担い、1952年にアルヴァと結婚する。以後、エリッサ・アアルトを名乗った。
ムーラッツァロで、建築が実験と遊びに戻る
アルヴァとエリッサは、フィンランド中部の湖に浮かぶムーラッツァロ島に夏の家をつくった。1952年から建てられたその家は、休暇の場所であると同時に実験場だった。
中庭の壁には、種類も積み方も違う煉瓦やタイルが、およそ50の区画に分けて並ぶ。材料が雨や雪、日射にさらされるとどう変わるのかを、実際の家で試せる。完成品だけを発表するのではなく、失敗するかもしれない試験片を暮らしの中に置いた。
この時期、アアルトはそこで絵も描き、高速ボートまで設計した。船にはラテン語で《故郷では預言者になれない(Nemo propheta in patria)》という名前を付けた。
国際的な建築家になってからも、ムーラッツァロでは、建築は権威ある完成作品というより、材料を並べ、試し、遊んでみる行為に近づいている。パイミオで人間の身体を細かく見た人が、ここでは煉瓦の焼け方や積み方を細かく見ていた。
名声が高まる一方、若い建築家から批判される
1950年代のアアルトは、セイナッツァロ、ヘルシンキの文化会館、教会、大学施設、海外の住宅や文化施設など、多数の大きな仕事を進めていた。国際的な賞も増えていく。
しかし1958年、15年間務めたフィンランド建築家協会の会長職を退いた。若い世代の建築家からは、アアルトの建築がエリート主義的だという批判も出ていた。財団の伝記は、彼がその批判を強く受け止めたと記している。
若いころには新しい機能主義を持ち込む側だった建築家が、60歳になるころには若い世代から批判される側に回った。建築の「新しさ」は、一度手に入れれば持ち続けられる地位ではなかった。
それでも仕事は止まらない。1959年にはヘルシンキ中心地区の大規模な都市計画を任された。水辺に文化施設を並べ、広場、公園、交通をまとめて首都の中心を組み替える計画だった。
ヘルシンキ中心計画は、ほとんど実現しなかった
計画は市の正式な検討対象になり、何度も修正された。しかし政治、地下鉄計画、都市計画思想の変化などが重なり、アアルトが描いた全体像は実現しなかった。水辺に並ぶはずだった文化施設群で実際に建ったのは、フィンランディア・ホールだけだった。
これは、若いころの「仕事がない」とは違う失敗だった。すでに世界的な名声があり、行政から大きな仕事を任されていても、都市は建築家一人の意思では動かない。承認、政治、交通、世代交代、時間の長さが、設計を別の方向へ運んでいく。
1960年代、アアルトは国内外で賞を受け、1963年から1968年にはフィンランド・アカデミーの総裁も務めた。名声の上昇と、計画が思うように実現しないことは、同じ晩年に並んでいた。
1976年に本人が亡くなっても、事務所の時間は続いた
1976年5月11日、アアルトはヘルシンキで亡くなった。78歳だった。
事務所はそこで閉じなかった。エリッサが仕事を引き継ぎ、アルヴァの死後に完成した建物や修復、図面・資料の保存に関わった。彼女は1994年まで事務所を率いた。
そして2026年、フィンランド国内の13の建築群「アアルト作品群(Aalto Works)」が国連教育科学文化機関(UNESCO)の世界遺産に登録された。その公式文書は、これらをアルヴァ・アアルトが、アイノ、エリッサ、アアルト事務所のスタッフ、アルテックと協働して設計した仕事として記述している。
アルヴァ・アアルトという名前は、その巨大な仕事群の入口にはなる。けれど建物をたどっていくと、そこには内戦で中断された学生、仕事を求めて故郷へ戻った若者、技術を学ぶ近代建築家、家具を売る会社の創業者、戦後住宅を考える設計者、煉瓦で遊ぶ人、若い世代から批判された60歳の建築家、そして長い事務所を共につくった人々が同時にいる。
「人間のための建築」は、やさしい形をつくることではなかったのかもしれない。技術、量産、制度、身体、材料、政治、他人との仕事――それらが噛み合わないたびに、もう一度つなぎ直そうとすることだった。




