一人の人生を読む
自分を批判する論文を、引き受けた
1980年代前半、イェール大学の大学院生ジェフリー・アイザックは、博士論文の構想をロバート・ダールに持ち込んだ。
扱おうとしていたのは、ダール自身の政治理論だった。しかも、それを受け継ぐためではない。批判するための論文だった。
後年、アイザックは、ダールがその構想を積極的に支持し、指導を引き受けたと振り返っている。二人はその後、ダールの議論の限界や反論可能性について繰り返し話し合ったという。
この回想から見えるのは、少なくとも教え子の批判を研究として引き受けた一場面である。彼が一生考え続けた問題が、人間関係の中にも現れている。
異なる意見を、同じ制度の中にどう置くのか。
ダールが研究した「民主主義」は、選挙制度の名前だけではなかった。誰が発言できるのか。誰が決定に参加できるのか。反対する側にも、実際に競争する余地があるのか。
その問いを、彼は都市、国家、憲法、そして企業へと広げていった。
医師の息子が、アラスカへ移った
ロバート・アラン・ダールは1915年12月17日、アイオワ州インウッドに生まれた。父ピーターは医師だった。
一家がスカグウェイへ移ったのは1926年だった。後年の評伝では、父の患者の中に診療代を支払えない人が増えたため、父がアラスカの鉄道で医師として働く仕事を引き受けたと説明されている。
少年時代のダールは、後年この土地について『スカグウェイで育って(After the Gold Rush: Growing Up in Skagway)』という回想録を書くことになる。
若いころから政治学者として机に向かっていたわけではない。夏には鉄道で働き、港では荷役の仕事もした。
医師の家庭、支払えなくなった患者、鉄道会社の町、自分自身の労働。若いダールは、そうした環境の中で育った。
1936年にワシントン大学を卒業し、1940年にはイェール大学で博士号を取った。ここから学者として一直線に進んだわけでもなかった。
政府で働き、戦争へ行った
博士号を得た前後から、ダールは連邦政府の複数の機関で働いた。全国労働関係委員会、農務省、物価管理局、戦時生産委員会などである。
戦時中、彼には徴兵猶予があった。しかしダールはそれを手放し、陸軍へ入った。
歩兵小隊長としてヨーロッパ戦線に参加し、部隊とともに西へ進んだ。戦功章であるブロンズスターにオーク・リーフ・クラスターを付した形で表彰も受けている。戦闘が終わった後には、ドイツの銀行制度からナチ体制の影響を除く業務にも携わった。
国家は、人びとが投票する場であると同時に、価格を統制し、労働関係を定め、生産を配分し、戦争では命令によって人を動かす巨大な制度でもある。
1946年にイェール大学へ戻ったとき、ダールは政府機関と戦争という二つの巨大な制度の内部を経験した30歳の研究者だった。
「誰が統治しているのか」を、実際に調べる
ダールは民主主義を、理念の説明だけで終わらせなかった。
その姿勢がよく表れたのが、1961年の『統治するのはだれか(Who Governs? Democracy and Power in an American City)』である。対象にしたのは、イェール大学のあるコネチカット州ニューヘイブンだった。
問いは単純だった。
この町では、実際には誰が力を持っているのか。
調査では46件の長時間インタビュー、複数のサンプル調査、政策上の出来事を追う研究、投票データ、歴史資料などが組み合わされた。大学院生やゼミの学生も調査に加わった。
大富豪や一つの支配集団が、あらゆる問題を一貫して決めているのか。それとも、教育、都市開発、政党政治など、争点ごとに異なる人びとや集団が力を持つのか。
ダールの研究は、単一のエリートが都市全体を支配しているという単純な図式とは異なる姿を示した。権力資源は一か所に集中するだけでなく、複数の集団に分散し、争点ごとに組み合わせが変わる。こうした見方は、のちにダールの「多元主義」と結びつけて語られるようになる。
ただし、この結論はその後も争われた。社会学者G・ウィリアム・ドムホフは、ダールがニューヘイブンの企業界の力を過小評価し、支配層の分裂を大きく見積もりすぎたと批判した。
つまり『統治するのはだれか』は、権力の測り方そのものをめぐる論争も残したのである。
民主主義に求める条件が増えていった
民主主義を「選挙があること」だけで済ませれば、判定は比較的簡単になる。
ダールが後に整理した民主的過程の基準は、もっと厳しかった。
投票の平等だけでなく、実効的に参加できること。判断するために十分な理解を得られること。何を議題にするかについて最終的な統制を持てること。そして、成人した構成員が広く包摂されること。
こうして基準を増やしていけば、民主主義を名乗る制度を見る目も厳しくなる。
同僚デイヴィッド・メイヒューによる後年の評伝では、ダールは年を重ねるにつれて民主主義に求める条件を厳しくし、アメリカの政治がそれをどこまで満たしているかについて、以前より厳しい評価をするようになったとされる。
ニューヘイブンで実際の権力を測ることと、どんな制度なら民主的と呼べるかを決めることは、そもそも別の仕事だった。ダールはその二つを行き来しながら、問いの要求水準を上げていった。
会社の入口で、民主主義は止まるのか
その問いが企業へ入っていったのが、1985年の『経済デモクラシー序説(A Preface to Economic Democracy)』だった。
政治では、一人ひとりが対等な市民として扱われることを重要だと考える。それなのに会社の中では、所有する側と働く側のあいだに大きな決定権の差があっても、それは当然のこととして扱われる。
なぜなのか。
ダールは、企業の所有と支配の不平等が、会社の中だけで終わらないと考えた。大きな経済的資源は、そのまま政治に働きかける資源の差にもなりうるからである。
『経済デモクラシー序説』には、「企業内の民主主義への権利」を正面から扱う章が置かれている。ダールは、労働者が所有し、統治にも参加する企業を含め、民主主義の原理を経済秩序へ広げる可能性を論じた。
ここでもダールは、長く使ってきた問いを、企業という別の制度へ持ち込んだ。
誰が決めるのか。
その決定に従う人は、決定に参加できるのか。
政治には向けてきた問いを、会社だけは免除してよいのか。
自国の憲法も、問いの外には置かなかった
晩年のダールは、企業だけでなく、アメリカ政治の基本制度そのものも問い直した。
2001年の『アメリカ憲法はどこまで民主的か(How Democratic Is the American Constitution?)』では、アメリカ憲法を建国者の権威によって守るべき対象として扱うのではなく、民主的な統治にどこまで役立っているのかという基準から評価した。
さらに90歳を迎えた後の『政治的平等について(On Political Equality)』では、政治的平等という要求に戻った。
人間の能力や資源が平等ではない社会で、政治的平等を本当に実現できるのか。それでも、その方向へ進むことには意味があるのか。
若い研究者のころ、ダールは「現実には誰が統治しているのか」を測ろうとした。晩年には、「その現実を民主的と呼ぶには、何が足りないのか」という問いがいっそう前面に出ていた。
2014年2月5日、ダールは98歳で死去した。イェール大学は、家族に囲まれて穏やかに亡くなったと伝えている。
批判されても残る問い
ダールの議論は、本人の存命中から批判の対象だった。ニューヘイブン研究に対するドムホフの批判もあれば、教え子アイザックのように、ダール本人の理論を正面から批判する研究者もいた。
少なくともアイザックの批判に対して、ダールはそれを指導対象として引き受けた。
民主主義について考えるなら、民主主義を唱えた人物自身も批判の外には置けない。
ダールが長い研究生活で繰り返したのは、完成した答えを守ることより、同じ問いを別の場所へ持っていくことだった。
都市では誰が決めているのか。政治制度では誰が参加できるのか。企業ではなぜ決定権に大きな差があるのか。憲法は民主主義に本当に役立っているのか。
民主主義は、投票所の外へどこまで広げられるのか。
ダールは、その境界を問い続けた。



