一人の人生を読む
1919年、戦争のあとにニューヨークへ渡る
レイモンド・ローウィ(Raymond Loewy)は1893年、パリに生まれた。
若いころから、後に有名になる冷蔵庫や自動車を描いていたわけではない。第一次世界大戦ではフランス軍の工兵隊に勤務し、戦争が終わった翌年の1919年、アメリカへ移住した。
ニューヨークで最初に続けたのは、機械の設計ではなく、ものを魅力的に見せる仕事だった。
『ヴォーグ』(Vogue)や『ハーパーズ・バザー』(Harper’s Bazaar)のファッション・イラストレーションを描き、百貨店の仕事をする。1919年から1929年まで、およそ10年間である。
後世から見ると、この時期は「工業デザイナーになる前」に見える。
しかし、別の見方もできる。
人は何を見て商品を欲しいと思うのか。新しいものを、どんな姿で見せれば受け入れてもらえるのか。
ローウィは、機械を設計するより前に、商品と人のあいだにある「見え方」を仕事にしていた。
1929年、むき出しの複写機を一つの形に包む
1929年、ローウィは工業デザインの事務所を開いた。
初期の重要な仕事が、ゲステットナー(Gestetner)の事務用複写機だった。
当時の機械は、機構そのものが外から見える部分が多かった。ローウィはモデル66(Model 66)で台座とキャビネットをつくり、機械部分を一つの外装の中へまとめた。
これは単に「角を丸くして格好よくした」という話ではない。
外装は、動く機構から人を隔て、安全性を高める役割も持った。機械の内部にある複雑さを消すことで、使う人には一つのまとまった道具として見えるようになった。
ちょうどこのころ、アメリカは大恐慌の時代へ入っていく。
ものが売れにくい時代に、企業は「同じ機能なら、どちらを選んでもらうか」を考えなければならなかった。1930年代、工業デザイナーという職能がアメリカで存在感を強めた背景には、その市場競争があった。
ローウィはそこへ入った。
冷蔵庫、鉄道、自動車、包装。彼の仕事は急速に広がっていく。
デザインは、製品が完成したあとに飾りをつける仕事ではなくなった。企業が、未来をどんな姿で消費者へ提示するかを決める仕事になっていった。
「速くないもの」まで速そうに見せた時代
1930年代のアメリカでは、ストリームライニング(streamlining)と呼ばれる流線型の造形が広がった。
本来、空気抵抗を減らす形には、飛行機や自動車のように実際に動くものへの合理性がある。
しかし流線型は、やがて冷蔵庫や家庭用品のような、どこにも走っていかないものにまで使われた。
そこでは形そのものが、一つのメッセージになった。
滑らかな面、連続する線、余計な突起の少ない外観は、「これは古い機械ではない」「これからの生活に属している」と知らせる。
ローウィもこの流れの中心にいた。ペンシルバニア鉄道(Pennsylvania Railroad)の機関車、家電、スチュードベーカー(Studebaker)の自動車など、仕事の対象は大きく変わっても、そこには共通する問題があった。
新しい技術を、人が新しいと感じられる姿にすること。
ただし、彼は「新しければ新しいほどよい」と考えていたわけではない。
「売れるデザイン」は、どうつくったのか
ローウィには後に、「彼がデザインすると売れる」という伝説がついた。
それを文字どおりの法則として受け取ることはできない。価格、流通、広告、景気、製品性能が同時に変わる以上、売上の増加をデザイン一つだけの効果に分解することは難しいからである。
それでも、ローウィが「売れるかどうか」をデザインの外側の話とは考えていなかったことは、かなりはっきりしている。
1934年のコールドスポット(Coldspot)冷蔵庫は、その象徴になった。ローウィ側の記録では、シアーズ(Sears)の冷蔵庫販売は約6万台から、2年後には27万5000台へ伸びたとされる。数字だけから「デザインのおかげ」と断定はできない。しかしローウィは、こうした販売実績を、外観や使いやすさに投資することが商売になるという証拠として企業へ示した。
さらに重要なのが、1940年代のアーマー(Armour & Company)の仕事である。
同社には数百種類の商品があり、パッケージの見え方もばらばらだった。1949年の『タイム』(TIME)は、ローウィの会社がこの仕事でおよそ半年をかけ、商品を買う数百人の主婦へ聞き取りをしたと報じている。
調査の後、複雑な多色ラベルを整理し、色数を抑えた統一的なパッケージへ変えていった。印刷費の削減だけでも、デザイン料を回収できるほどだったという。
鉄道でも似た姿勢が見える。
ペンシルバニア鉄道の仕事では、ローウィは列車へ実際に乗り、乗員や利用者の環境を観察した。そこから、乗務員用のトイレがないことや、煙が機関士の視界を妨げることなど、外から眺めただけでは分からない問題を拾っている。
ここから見えてくる「売れるデザイン」の方法は、魔法の造形公式というより、次のような往復だった。
- まず、人がどう使い、どう選んでいるかを見る。
- 見た目だけでなく、使いやすさ、製造、印刷、重量、コストまで一つの問題として扱う。
- 店頭や街で、一目で認識できる形に整理する。
- 市場へ出した後の反応を、次の仕事を説得する材料にする。
ローウィは芸術家の直感を捨てて、調査だけに従ったわけではない。
むしろ、観察や調査によって「人はどこまでなら受け入れるか」を探り、その境界ぎりぎりで新しい形を出そうとした。
その考えが、後に「最先端だが受け入れられるもの」という原則として知られるようになる。
「最先端だが受け入れられるもの」――新しすぎても、人は選ばない
ローウィの考えを象徴する言葉として、「最先端だが受け入れられるもの」(MAYA: Most Advanced Yet Acceptable)が知られている。
直訳すれば、「もっとも進んでいるが、なお受け入れられるもの」というほどの意味になる。
ここには少し矛盾がある。
デザイナーは、新しいものをつくりたい。しかし、見たことのないものを遠くまで進めすぎると、人はそれを欲しいと思う前に「自分には関係のないもの」と感じてしまうかもしれない。
反対に、慣れた形に寄せすぎれば、新しい価値は生まれない。
だから一歩進める。
ただし、人がついてこられる距離で。
ローウィにとってデザインは、未来を予言することよりも、未来と現在の距離を調整することだったと読むことができる。
それは、ゲステットナーの外装にも、自動車にも、企業イメージにも応用できる考え方だった。
そして、この考え方にはもう一つの側面がある。
「人が受け入れるか」を考える以上、デザインは美術家一人の自己表現だけでは成立しない。市場、製造、企業、宣伝、技術者、そして巨大な組織との共同作業になる。
ローウィ自身の会社も、その方向へ巨大化していった。
「レイモンド・ローウィ」という名前の下で、何人が描いていたのか
1944年、ローウィはA・ベイカー・バーンハート(A. Baker Barnhart)、ジーン・トムソン・ローウィ(Jean Thomson Loewy)、ジャック・ブリーン(Jack Breen)、ウィリアム・スネイス(William Snaith)とレイモンド・ローウィ・アソシエーツ(Raymond Loewy Associates)を設立した。
やがて事務所は複数の都市、複数の会社へ広がる。
ここから、ローウィを語るときの難しさが始まる。
有名な製品には「レイモンド・ローウィのデザイン」(Raymond Loewy design)と書かれる。しかし、それは必ずしも「ローウィ本人が一人で線を引いた」という意味ではない。
1953年のスチュードベーカー・スターライナー(Studebaker Starliner)は、その典型である。
車はローウィの名と強く結びついてきたが、スチュードベーカー国立博物館(Studebaker National Museum)は、実際の造形をレイモンド・ローウィ・アソシエーツのロバート・バーク(Robert Bourke)が担ったと記している。
1961年に始まったアヴァンティ(Avanti)の設計も、一人ではなかった。
パームスプリングス(Palm Springs)の借家に集まったのは、ローウィのほかジョン・エブスタイン(John Ebstein)、ボブ・アンドリュース(Bob Andrews)、若いトム・ケロッグ(Tom Kellogg)。ローウィが基本となる方向を示し、ケロッグが案を描き、アンドリュースがクレイへ起こし、エブスタインがスタジオを調整した。
約5週間で、8分の1スケールのモデルまでまとめた。
これは「ローウィは実はデザインしていなかった」という話ではない。
むしろ、仕事の種類が変わっていたと考えたほうがよい。
自分で描くこと。方向を決めること。人を集めること。顧客を説得すること。ブランドとして責任を引き受けること。
一人の造形者から、デザインする組織そのものをつくる人へ。
ローウィの名声が大きくなるほど、本人の名前と、組織の成果は重なっていった。
1969年10月14日、宇宙ステーションに「窓」は必要か
晩年の仕事には、地上の商品ではないものが含まれている。
スカイラブ(Skylab)。アメリカ初の宇宙ステーションである。
レイモンド・ローウィ/ウィリアム・スネイス社(Raymond Loewy/William Snaith, Inc.)は1967年末から、後のスカイラブにつながる計画で、宇宙飛行士の居住性(habitability)――長期間、そこで人間が暮らせるかを検討していた。
色、照明、収納、食事、休息。
宇宙船の設計で優先されやすいのは、重量、強度、電力、機器、ミッション達成である。しかし滞在が長くなると、「死なずにいられる」ことと「暮らせる」ことの間に差が出る。
1969年10月14日、ワシントンで居住性のレビュー会議が開かれた。
議題の一つが、宇宙ステーションに大きな観測窓をつけるかどうかだった。
技術側の反対には理由があった。
窓は高価になる。構造を弱くする。開発と試験に時間がかかる。そして、窓がなくても科学ミッションそのものは実行できる。
機能を「任務に不可欠か」で定義するなら、窓は削れる。
そこでアメリカ航空宇宙局(NASA)のジョージ・ミューラー(George Mueller)がローウィに意見を求めた。
ローウィは、長い宇宙滞在で外を見ることの価値を強く支持した。窓は単なる装飾ではなく、人間が閉鎖空間で過ごすための余暇と心理の条件だと考えた。
ミューラーは採用を決めた。
同月末、観測窓と、食事や休息に使う食堂兼談話室(wardroom)などの変更が正式に承認された。
ここには、1929年のゲステットナーから続いているものがある。
機械だけを見れば、外装はなくても動く。
宇宙ステーションだけを見れば、窓がなくても飛べる。
しかしローウィが何度も問い直したのは、「機械に何が必要か」ではなく、「人がその機械と生きるなら何が必要か」だった。
自分の名前まで、デザインした
ローウィは1951年、自伝『十分なものをそのままにしておくな』(Never Leave Well Enough Alone)を刊行した。
日本では『口紅から機関車まで』という題で読める。
題名どおり、彼の仕事は小さなパッケージから巨大な交通機関まで広がった。
しかし、その広がりを可能にしたのは、造形能力だけではない。
「レイモンド・ローウィ」という名前自体が、企業にとって一つの価値になった。
依頼すれば、商品を現代的に見せられる。会社全体のイメージを変えられる。未来らしい姿を与えられる。
デザイン会社にとって、その信用は強い武器だった。
同時に、それは作者を見えにくくする。
スターライナーを描いたロバート・バークのように、会社の名前の後ろへ隠れる人も出る。
ローウィを見ると、20世紀に「デザイナー」という職業が大きくなったことと、個人名が企業ブランドになる問題を同時に見ることができる。
巨大になった会社は、最後まで滑らかではなかった
成功の物語だけを追うと、ローウィの会社は、仕事を増やしながら世界へ拡大したように見える。
実際には、晩年の組織は複雑だった。
アメリカ議会図書館(Library of Congress)に残る企業資料は、小さな事務所が多数の会社・子会社を持つ国際的な組織へ変わっていく過程を記録している。
1974年、長く組織を支えたウィリアム・スネイスが死去した。その時点で企業群は深刻な財務危機にあった。
その後、統合と売却が進み、1977年にはレイモンド・ローウィ・インターナショナル(Raymond Loewy International)が破産する。工業デザイン部門は別の会社へ売却された。
流線型の外観のように、本人のキャリアが最後まで滑らかに上昇したわけではない。
一人の名前を大きくし、仕事を組織化し、世界中の企業を顧客にしたことは、ローウィの大きな成果だった。
その一方で、名前より大きくなった組織を維持することは、製品を一つ美しくまとめるのとは別の問題だった。
1986年7月14日、ローウィはモンテカルロで92歳で死去した。
彼の名前は今も、20世紀の工業デザインを象徴する名前として残っている。
けれど、彼の仕事を本当に面白くするのは、完成した流線型だけではない。
どこまで新しくすれば、人は受け入れるのか。
一人のデザイナーは、どこから組織になるのか。
機械が動くことと、人がその機械と暮らせることは、同じ「機能」なのか。
ローウィが扱ったものが、口紅の包装から宇宙ステーションまで広がったからこそ、その問いもまた、20世紀の暮らし全体へ広がっていった。
コラム|「市場調査をするデザイナー」は、どう変わったか
ローウィは、晩年になって突然、市場調査を始めたわけではない。
ただし、若いころから完成された「市場調査部門」を持っていたわけでもない。
彼の仕事を時系列で見ると、デザインと市場の関係が少しずつ制度化されていったことが分かる。
1930年代――市場そのものが、結果を返してくる
初期のローウィは、製品を観察し、形や機能、製造上の問題を直し、市場へ出した後の販売結果を見るという仕事をしていた。
コールドスポット冷蔵庫の販売増加は、その代表例になった。
この段階では、現在のマーケティング調査のように大規模な質問票を先に回すというより、「より良い製品をつくる」という仮説を市場へ出し、結果を次の営業や提案へ使う色合いが強い。
1940年代――つくる前に、人へ聞く
アーマーのパッケージ刷新では、様子が変わる。
1943年に始まったこの仕事で、ローウィのスタッフは数百人の消費者へ話を聞いた。何色なら目立つかという単純な好みだけでなく、商品群がどのように見え、どう選ばれているかを調べたうえで、包装体系そのものを組み直した。
「デザインしてから売れたかを見る」だけではなく、「デザインする前に、人がどう買うかを調べる」が入ってきた。
1950年代――調査とテストが、会社の仕事になる
戦後、ローウィの会社が大きくなるにつれ、調査は個別案件の特別な作業ではなくなっていった。
会社資料を使った研究では、1950年代初頭にはマーケティングと市場計画を扱う機能があり、消費者調査だけでなく、商品の見え方や商標の認識、製品テスト、コンセプトや傾向の調査などへ広がっていったことが示されている。
ここでは、ローウィ本人の目だけでは扱えない。
デザイナー、調査担当、顧客企業、技術者がデータを共有しながら、案を比較する組織になっていく。
1960年代以降――市場調査そのものを、組織にする
1964年、ローウィの企業群は、機密性の高い調査を扱う子会社マーケット・コンセプツ(Market Concepts, Inc.)を設立した。
後年の会社には、市場計画調査部門(Market Planning Research Division)もあり、他部門や顧客のためにマーケティング研究を行った。アメリカ議会図書館の資料では、エクソン(Exxon)の企業イメージ計画で多数のテストを担当したことも記録されている。
つまり、変化を一行で書けばこうなる。
観察してつくる。
売れたかを見る。
つくる前に消費者へ聞く。
調査とテストを反復する。
そして最後には、それ自体を専門部署と会社にする。
「市場調査をするデザイナー」はローウィの晩年に突然現れたのではない。
若いころから持っていた「人は何を選ぶのか」という関心が、仕事の拡大とともに、個人の観察から組織的な調査へ変わっていったのである。




