一人の人生を読む
ハリウッドで、「車は機械以上のもの」だと知った
ハーリー・アール(Harley Earl)は1893年、カリフォルニアに生まれた。父はロサンゼルス地域でコーチビルダーを営んでおり、自動車の車体を専門の工房が仕立てる時代だった。
若いアールの周りには、映画産業で富を得た人々がいた。彼らが求める車は、ただ走ればよい機械ではない。自分が誰であるかを見せるものでもあった。量産工場へ入る前に、アールは「見た目の違いにお金を払う人」がいる環境で車を見ていた。
この経験は、のちに巨大企業の仕組みへ変わっていく。
1927年、ラサールが売ったのは性能だけではなかった
1920年代半ば、キャデラックと他ブランドの価格帯の隙間を埋めるため、ゼネラルモーターズは新しいラサールを計画し、アールが造形に参加した。
1927年のラサールは評価され、その仕事をきっかけにアールは会社の新しい専任デザイン部門を率いる。それまで量産車では、機械を成立させた後に外側を整える発想が強かったが、アールの組織ではスタイリストと技術者が早い段階から一緒に働いた。図面だけでなく粘土模型で立体を確認し、色や面、比例を商品開発の中心へ置く。
会社のなかに、デザインという継続的な工程が生まれた。
年次モデルとデザイン部門が結びつく
ゼネラルモーターズでは、経営者アルフレッド・スローンが年次モデル更新を販売戦略の一部として進めた。前年の車がまだ十分に走るうちに次のモデルを出し、ブランドの階段を上がっていく顧客をつくる発想である。
その商業サイクルを、目に見える違いへ変えるのがアールのデザイン組織だった。「今年の車は去年と違う」と一目で感じられる外観を毎年用意するには、単発の名案ではなく、継続して形を生み出せる部門が必要になる。
経営戦略とデザインがここで接続した。アールの影響が大きいのは、特定の一台だけでなく、毎年新しい造形を供給できる制作体制を企業の内部へ根づかせたことだった。
未来を、発売前に見せる
1938年、ビュイック・ワイ・ジョブが制作された。低い車体、隠れるヘッドライト、車体と滑らかにつながるドアハンドルなど、のちの量産車に現れる要素を一台へ集めた試験車だった。
ゼネラルモーターズの資料では、ジョージ・スナイダーがアールの指導下でワイ・ジョブのペンワークを担当している。アールはデザイン部門の責任者として、個々のスタイリストの仕事を一台の未来像へまとめ、人前へ出す位置にいた。
コンセプトカーには、未来の技術や造形を試すだけでなく、人々が何に反応するかを見る役割もあった。まだ発売していない未来を先に見せ、その反応を商品開発へ戻す。現在では身近な方法を、自動車産業の巨大な開発システムへ組み込んでいった。
1951年、群衆はヨーロッパの車に声援を送っていた
1951年、アールはニューヨーク州ワトキンズ・グレンのロードレースを訪れた。目的の一つは、自社のショーカー「ル・セーバー」を見せることだった。
そこで目に入ったのは、ジャガーやエムジーなど欧州の小さなスポーツカーに熱狂する観衆だった。国立コルベット博物館によれば、アールは後に、この訪問をコルベットの着想源として挙げている。
アメリカの大手メーカーがまだ十分に満たしていない欲望が、目の前にあった。大きく快適な車だけではなく、軽く、低く、スポーツカーらしい車を欲しがる人がいる。
アールはその需要を会社の開発テーマへ持ち帰り、専用の小規模スタジオとシボレー側の技術者たちが開発を進めた。1953年、コルベットはモトラマで一般へ披露された。
一台の名車より、「新しく見せ続けられる会社」を残した
アールにはラサール、ワイ・ジョブ、ル・セーバー、コルベットなど、多くの車名がついて回る。けれど、彼が1958年に退いた後も残ったものは車だけではなかった。
企業内のデザイン部門が残った。粘土模型を使う方法が残った。スタイリストと技術者が一緒に商品をつくる仕組みも、未来の商品をショーカーとして先に見せる方法も残った。
それは魅力的な車を生み出す仕組みであると同時に、まだ使える車を古く感じさせるほど強い「新しさ」を毎年つくる仕組みでもあった。
デザインは、人がまだ言葉にしていない欲望を見つけることができる。そして、昨日まで十分だった物を古く見せることもできる。アールが巨大企業の内部に築いたデザイン部門は、その両方の力を長く動かし続けた。
参考資料
- ゼネラルモーターズ「ヘリテージ」デザイン史
- ゼネラルモーターズ「ビュイック・ワイ・ジョブ」歴史資料
- ゼネラルモーターズ「自動車デザイン史」年次モデル更新解説
- 国立コルベット博物館「ハーリー・アール」「ワトキンズ・グレン」資料
- ウィキメディア・コモンズ「ハーリー・アールとワイ・ジョブ」「ビュイック・ワイ・ジョブ車内」画像権利ページ




