一人の人生を読む
広告人になる前に、鍋を売っていた
デイヴィッド・オグルヴィ(David Ogilvy)は1911年、イングランドに生まれた。名門校を経てオックスフォード大学へ進んだが学位を取らずに離れ、その後はパリのホテル厨房で働いた。
英国へ戻ると、アーガ社の調理器を一軒ずつ訪問して売った。広告を書くより先に、目の前の人へ商品を売る仕事をしていたのである。1935年、24歳のオグルヴィはその経験を販売員向けのマニュアルにまとめた。
相手をよく見ること。退屈させないこと。商品を理解すること。後の広告論につながる姿勢は、訪問販売の時代からすでに現れていた。
「人は何に反応するのか」を調べる側へ
広告会社へ入った後、オグルヴィはアメリカへ渡り、ジョージ・ギャラップの調査機関で働いた。扱ったのは、映画や出演者に観客がどう反応するかという調査だった。
ここで、作り手自身の好みと、実際の人々の反応は同じではないことを仕事として扱うようになる。誰に何を聞き、どんな反応が出たかを集め、その結果から次の判断をする。
後に広告会社をつくったときも、この「商品と人を調べる」姿勢は残った。ただし、調査結果をそのまま広告に並べるのではなく、人が記憶できる形へ変えることが必要だった。
1948年、調査と販売経験を広告会社へ持ち込む
1948年、オグルヴィはニューヨークで広告会社を共同創業した。訪問販売で得た「商品を売る」経験と、調査機関で得た「人の反応を見る」経験が、同じ仕事の中へ入っていく。
正しい商品説明でも、誰にも読まれなければ売れない。そこでオグルヴィの広告には、具体的な事実と、気になる物語が同居するようになった。
1951年、白いシャツに「眼帯」を一つ足した
1951年、ハサウェイというシャツ会社の広告をつくることになった。白いシャツを着た男性を撮る。それだけなら、数多くある服の広告の一つになったかもしれない。
オグルヴィは、モデルに黒い眼帯を付けた。翌年の『タイム』誌は、その発想源を片目を失った元アメリカ大使ルイス・ダグラスの写真だったと報じている。実際のモデル、ジョージ・ランゲル男爵の目は悪くなかった。
眼帯はシャツの機能を変えない。しかし「この人は、なぜ眼帯をしているのか」という問いをつくる。その小さな未完の物語が、白いシャツと人物を記憶に残した。
調査した事実を、忘れない形にする
オグルヴィは商品、顧客、競合を調べた。そのうえで、調べただけでは出てこない表現をつくろうとした。
ハサウェイでは眼帯。シュウェップスではブランドを体現する人物。ロールス・ロイスでは技術資料から静粛性を示す具体的な事実を拾い、それを一場面として想像できる言葉にした。
調査は、何を言うべきかを探すために使われた。創造性は、その事実を人が忘れない形にするために使われた。オグルヴィの方法では、その二つが同じ制作工程の中にあった。
今日売ることと、長く覚えられること
オグルヴィは一回の反応だけでなく、広告を繰り返し見るうちに会社や商品へどんな人格が蓄積していくかも考えた。
上品なのか、信頼できるのか、専門的なのか、少し冒険的なのか。商品には広告の積み重ねによって、人格のようなものが形成される。
だから、今日商品を売ることと、明日も選ばれるブランドをつくることは別々ではなかった。短期の販売と長期の印象を同じ広告の中で扱おうとしたのである。
一枚の広告から、会社の文化へ
事業が大きくなるにつれ、オグルヴィの仕事は個々のコピーから会社の運営へ広がった。どんな人を採るか、顧客をどう扱うか、商品をどこまで調べるか、自分より優れた人を組織へ入れられるか、といった原則を言葉にした。
広告会社の仕事は、コピーライター、アートディレクター、写真家、調査担当、営業、顧客など多くの人によって動く。その中でオグルヴィが担ったのは、個別の表現だけでなく、調査と創造性を繰り返し仕事へ戻せる文化をつくることだった。
1999年、フランスで88歳で亡くなった。残した方法を短く言えば、よく調べて言うべき事実を見つけ、その事実を人が忘れない形にすることだった。
参考資料
- アメリカ議会図書館「デイヴィッド・オグルヴィ文書」検索案内
- オグルヴィ公式「会社史」「75年の代表キャンペーン」
- ギャラップの回顧記事
- 『タイム』誌1952年6月23日号のハサウェイ広告記事
- 『ガーディアン』紙デイヴィッド・オグルヴィ訃報
- ウィキメディア・コモンズ画像権利ページ
- 国立情報学研究所の『「売る」広告 : 新訳』書誌




