Hegelroom / Biography

Peter Colin Moore

グラフィックデザイン / アメリカ / 1944–2022

靴を一足描いただけではない。色、ロゴ、物語まで一つにして、スニーカーを「誰かの印」に変えた。

赤・黒・白を基調としたエア ジョーダン 1のハイカットスニーカー
Ting Him Mak / Flickr / Wikimedia Commons / CC BY 2.0
1944Born
2022Died
78Age
グラフィックデザインField

02 / Profile

ピーター・ムーアとは?

ピーター・ムーア(1944–2022)は、エア ジョーダン 1とナイキ ダンクをデザインし、エア ジョーダンの初期ビジュアル、のちのアディダス・エキップメント(Equipment)とパフォーマンス(Performance)ロゴにも深く関わったデザイナーである。出発点は靴の技術者ではなくグラフィックデザイナーだった。だから彼は一足の形だけでなく、色、ロゴ、服、広告、売場までを『誰のものか一目で分かる』視覚体系として設計した。

生誕
1944-02-21
死去
2022-04-29
年齢
78歳
出生地
アメリカ・オハイオ州クリーブランド
活動地域
アメリカ、オレゴン、ドイツ
分野
グラフィックデザイン、フットウェアデザイン、ブランドデザイン、クリエイティブディレクション

03 / Life

一人の人生を読む

スニーカーの人になる前、彼はグラフィックデザイナーだった

ピーター・コリン・ムーア(Peter Colin Moore)は1944年、オハイオ州クリーブランドに生まれた。

父は米海軍の士官だった。家族は複数の港町を移り、やがてサンディエゴに落ち着く。少年のムーアはバスケットボール、野球、ゴルフに親しみ、とくにゴルフは生涯の趣味になった。

大学も、最初からデザイン学校へ入ったわけではない。

サンディエゴ州立大学にはゴルフの奨学金で進学した。そこでデザインの才能を見出され、教授たちの勧めでシュイナード美術学校(Chouinard Art Institute)へ移る。1968年の卒業後は、師となったロバート・オーバービー(Robert Overby)のもとで働いた。

1972年までに、若い家族とオレゴン州ポートランドへ移る。木材・製紙会社ジョージア・パシフィック(Georgia-Pacific)でクリエイティブの責任者を務め、その後、自分の事務所ピーター・ムーア・グラフィック・デザイン(Peter Moore Graphic Design)を開いた。

ここが重要である。

ムーアは、もともと靴の技術者ではなかった。

文字、写真、ロゴ、ポスター、カタログ、包装。企業や商品が、見る人にどう理解されるかを整理するグラフィックデザイナーだった。

後にエア ジョーダン 1を描くときも、この出発点は消えなかった。

1970年代後半、ナイキはまだ「顧客の一社」だった

1970年代後半、ナイキ(Nike)はムーアの独立事務所に仕事を頼む顧客の一社だった。

当初の仕事は、後に彼を有名にするスニーカーだけではない。ポスターやカタログ、包装、ロゴ、イベントの表示など、会社が外からどう見えるかに関わるものだった。

そこで出会ったのが、ナイキでマーケティングを率いていたロブ・ストラッサー(Rob Strasser)である。

二人が共有したのは、ブランドは広告だけでつくられるのではない、という考えだった。

デザイン、マーケティング、販売。顧客が会社に触れるものがばらばらなら、ブランドもばらばらに見える。

ムーアの後年の回想では、1982年ごろにはナイキの仕事が急増し、自分の事務所をほとんど飲み込んでしまった。ピーター・ムーア・グラフィック・デザインは、しだいにナイキ・デザイン(Nike Design)へ変わっていった。

一足の靴を頼まれる前に、彼は「会社全体をどう見せるか」を考える側へ入っていた。

1984年、「靴」ではなく新人選手のブランドをつくる

1984年、ナイキは大学を出たばかりのバスケットボール選手、マイケル・ジョーダン(Michael Jordan)との契約を狙っていた。

この仕事にも、一人の英雄はいない。

契約を進めた人、選手側と交渉した人、マーケティングを考えた人、商品を開発した人がいる。ムーアはストラッサーらとともに、その中でジョーダンをどう見せるかを形にする役割を担った。

考え方は、単に「ジョーダン専用の靴を一足つくる」ことより大きかった。

靴がある。服がある。色がある。ロゴがある。広告がある。

それらを同時に出して、マイケル・ジョーダンという一人の選手を、遠くからでも見分けられる存在にする。

ムーアは後年、最高の選手が本当にプレーできる靴であることと、誰も見たことのない独自性を両立させようとしたと振り返っている。

機能することと、記憶されること。

彼にとって、その二つは別の仕事ではなかった。

帰りの飛行機で、「翼」をもらう

エア ジョーダンの始まりには、短いエピソードが残っている。

1984年、ワシントンでジョーダンのエージェント、デビッド・フォーク(David Falk)、ストラッサー、ムーアらが会った。

後年の回想には細部の違いがあるが、フォークが「エア ジョーダン(Air Jordan)」という名前を提案すると、ムーアは持っていたパッドへすぐ視覚案を描き始めたという。

ポートランドへ戻る飛行機の中では、客室乗務員が子どもへ配る「翼」のバッジに目を留めた。

ムーアは一つもらった。

その翼が、中央のバスケットボールを左右からはさむ「エア ジョーダン・ウイング(Air Jordan Wings)」の着想になったと伝えられている。

ここで彼が設計していたのは、まだ靴の輪郭だけではない。

名前が出れば、それを記号にする。

選手がいれば、その人を色と形で見分けられるようにする。

グラフィックデザイナーだったムーアの仕事が、そのままスニーカーへ入っていった。

白いバスケットシューズに、色を着せる

1985年、エア ジョーダン 1(Air Jordan 1)が発売された。

ナイキの公式アーカイブは、デザイナーをピーター・ムーアと明記している。

ムーアが考えたのは、派手な配色を一度だけ施すことではなかった。

革のパネルを分け、複数の色を置ける面をつくる。そうすれば、同じ一足を別の色の組み合わせへ展開できる。

赤、黒、白。

色そのものが、選手の所属と個性を示す情報になる。

それまで白や黒を中心としたバスケットボールシューズが多かった中で、靴は「競技道具」であると同時に「誰を応援し、誰のようになりたいか」を見せるものへ近づいていった。

この方法は、すぐ別の対象へ応用される。

ダンクでは、「学校」を着る

1985年の大学バスケットボールでは、観客席そのものが色で埋まっていた。

大学ごとに、赤、青、オレンジ、白。学生もファンも、学校の色で自分たちの側を示している。

ナイキはそこからカレッジ・カラーズ計画(College Colors Program)をつくった。

企画したのはストラッサーやジャック・ジョイス(Jack Joyce)だけではない。クリエイティブを担うムーア、メアリー・ボーデッカー・マクゴールドリック(Mary Bodecker McGoldrick)らの小さなチームが参加した。

中心になるハイカットを最初にスケッチしたのがムーアだった。

ただし、これは「無から突然生まれた靴」ではない。ナイキ自身のアーカイブによれば、当時の一般的な設計方法として、エア ジョーダン 1やビッグ ナイキなど既存のシューズの要素を組み合わせた。

最初は「カレッジ・カラー・ハイ(College Color High)」と呼ばれ、やがてナイキ ダンク(Nike Dunk)になる。

1986年の「ビー・トゥルー・トゥ・ユア・スクール(Be True to Your School)」広告では、ダンクが大学別カラーの中心に置かれた。

白と薄いグレーのナイキ ダンク ロー
現在まで続くナイキ ダンクの造形。写真は2023年撮影で、1980年代の初代モデルそのものではない。Quimacian / ウィキメディア・コモンズ / クリエイティブ・コモンズ 表示—継承4.0(CC BY-SA 4.0)

エア ジョーダンでは「一人のスター」を色にした。

ダンクでは「一つの学校」を色にした。

対象は変わっても、方法は似ている。

人が何に属しているのかを、足元だけで読めるようにする。

ムーアがデザインしていたのは、靴よりも「見分け方」だったと考えると、二つの仕事がつながって見える。

1987年、成功した会社を離れる

エア ジョーダンが成長し、ナイキが世界的な企業へ近づいていた1987年、ムーアは会社を離れた。

ストラッサーもナイキを去り、二人はスポーツ・インク(Sports Inc.)という小さなコンサルティング会社を始める。

巨大になったブランドの中に残るより、また別の問題を解く側へ戻った。

そして二年ほど後、意外な相手から連絡が来る。

アディダス(adidas)だった。

ナイキ時代、アディダスは倒すべき最大の競合の一つだった。

その会社から、自分たちのブランドをどう立て直すか相談されたのである。

競合の博物館で、見るものが変わる

1989年ごろ、ムーアとストラッサーはドイツのヘルツォーゲンアウラハにあるアディダス本社を訪れた。

ムーアは当初、なぜ自分がそこにいるのか納得していなかったと後に振り返っている。

翌朝、会社の歴史を集めた展示を見る。

陸上競技のスパイク。ボクシングシューズ。テニスシューズ。サッカーの靴。

そこには、創業者アディ・ダスラー(Adi Dassler)が、競技者のために道具を改良してきた長い蓄積があった。

ムーアは、競合の弱点ではなく、競合がすでに持っていた強みを見るようになった。

新しいものを大量に足す必要はない。

むしろ、何が本当にアディダスなのかを選び直せばいい。

この発想から、アディダス・エキップメント(adidas Equipment)へ向かっていく。

「必要なものだけ」で、アディダスを組み直す

エキップメントの考え方は、華やかに飾ることと反対方向にあった。

機能に必要なものを残す。3本線を見せる。色数を絞る。製品の重要な部分へ視線を集める。

残された戦略資料には、ロゴを見なくてもアディダス製品だと分かる視覚秩序をつくること、品質と価値を重視すること、製品・物流・販売・コミュニケーションを一つのタイミングで動かすことが書かれている。

「格好いい靴を描く」だけでは、ここまで扱えない。

デザイナーが触っているのは、製品、ブランド、組織、売り方の境界そのものだった。

エキップメントとともに使われたのが、3本の線を斜めに積み上げたマークである。後にアディダスのパフォーマンス(Performance)領域を代表するロゴとして定着していく。

3本の斜線を山のように積み上げた1991年のアディダスのロゴ
1991年のアディダスの3本線ロゴ。ムーアが関わったエキップメントの視覚体系から広がった。ウィキメディア・コモンズでは単純な文字・幾何図形として著作権上パブリックドメイン扱い。商標権は別に存在する。

ナイキでは、新しいスターに新しい印を与えた。

アディダスでは、古い会社の中から残すべき印を探した。

正反対に見える二つの仕事に、同じデザイナーがいる。

相棒を失い、デザインする範囲がさらに広がる

1993年10月30日、長年の協働者だったストラッサーが46歳で亡くなった。

二人でナイキから独立し、スポーツ・インクをつくり、競合だったアディダスへ入っていった。その相棒を途中で失ったことになる。

その後のムーアは、デザイン案を出すだけでなく、アディダスの米国事業を率いる側へ関与を深めていった。

一枚のポスターをつくる人から、ブランドをつくる人へ。

ブランドをつくる人から、事業を動かす人へ。

彼の仕事は、会社が大きくなるたびに「何をデザインと呼ぶか」の境界を広げていった。

1998年、ムーアはアディダスを離れた。

最後は、自分の絵をつくる場所へ戻った

アディダスを離れた後、ムーアはワットアヤシンク(Whatayathink Inc.)という自分のスタジオを開いた。

そこでは企業向けの相談を続けながら、版画など個人の作品も制作した。

巨大なスポーツブランドのロゴや靴をつくってきた人物が、最後には自分の手でつくる作品へ戻る。

晩年にはパーキンソン病を抱えた。

2022年4月29日、ポートランドで78歳で死去した。

二年後の2024年には、3人の息子や同僚たちの資料と証言を集めた評伝『ピーター・ムーア:スニーカー・レジェンド』が刊行された。

そこで見えてくるのは、「エア ジョーダン 1を描いた人」だけではない。

スニーカーに色を与える。

色に所属を与える。

所属にロゴを与える。

ロゴを、靴、服、広告、売場へ広げる。

ピーター・ムーアの仕事をたどると、20世紀後半にスニーカーが単なる運動靴から、個人や集団のアイデンティティを背負うものへ変わっていく過程が見えてくる。

デザインとは、物の形を決めることなのか。

それとも、その物を見た人が「これは誰のものか」を理解できるようにすることなのか。

ムーアの生涯は、その二つが分けられなくなっていく時代の仕事だった。

04 / Timeline

時間の輪郭

  1. 1944

    2月21日、クリーブランドに生まれる

  2. 1968

    シュイナード美術学校を卒業し、グラフィックデザインの仕事へ進む

  3. 1972

    家族とポートランドへ移り、ジョージア・パシフィックのクリエイティブ責任者となる

  4. 1970年代後半

    独立事務所ピーター・ムーア・グラフィック・デザインで、ナイキを顧客としてポスターやカタログなどを手がける

  5. 1982

    本人の回想では、増え続けたナイキ案件を背景に事務所がナイキ・デザインへ移行していく

  6. 1984

    マイケル・ジョーダンのシグネチャー企画に参加し、エア ジョーダンの初期ビジュアルをつくる

  7. 1985

    エア ジョーダン 1が発売。大学別の色を展開するカレッジ・カラーズ計画にも参加する

  8. 1986

    『ビー・トゥルー・トゥ・ユア・スクール』広告でナイキ ダンクがカレッジ・カラーズの中心となる

  9. 1987

    ロブ・ストラッサーとナイキを離れ、スポーツ・インクを設立する

  10. 1989

    旧競合のアディダスから相談を受け、ドイツのヘルツォーゲンアウラハを訪れる

  11. 1991

    アディダス・エキップメントと、傾いた3本線を使う新しい視覚体系が展開される

  12. 1993

    長年の協働者ロブ・ストラッサーが46歳で死去する

  13. 1998

    アディダスを離れ、ワットアヤシンクでアート制作とコンサルティングを続ける

  14. 2022

    4月29日、ポートランドで78歳で死去する

05 / Works

一足の靴から、ブランド全体まで

01

バスケットボールシューズ / 1985

エア ジョーダン 1(Air Jordan 1)

ナイキ公式アーカイブがピーター・ムーアをデザイナーと明記する代表作。赤・黒・白など大胆な配色を受け止められるパネル構成と、選手の個性を商品全体へ展開する考えが結びついた。

02

ブランドマーク / 1984

エア ジョーダン・ウイング(Air Jordan Wings)

後年の回想では、帰路の航空機でもらった子ども向けの翼バッジが着想源になったとされる。靴だけでなく『エア ジョーダン』という名前を一目で読める象徴へ変えた。

03

バスケットボールシューズ / 1985–1986

ナイキ ダンク(Nike Dunk)

大学ごとの色を商品へ展開するカレッジ・カラーズ計画の中心。ムーアが初期のカレッジ・カラー・ハイをスケッチし、既存モデルの要素を組み合わせながらダンクへ発展した。

04

ブランド/製品システム / 1991

アディダス・エキップメント(adidas Equipment)

機能、品質、3本線、限定された色を核に、『必要なものだけ』へブランドを絞る構想。靴だけでなく製品・販売・コミュニケーションを同時に整えた。

05

企業・製品アイデンティティ / 1991

アディダス・パフォーマンスロゴ(adidas Performance logo)

3本線を傾けて山のように見せる視覚マーク。エキップメントから広がり、アディダスのパフォーマンス領域を示す記号として定着した。

06 / Conditions

ピーター・ムーアの人生をつくったもの

  • 01

    色をアイデンティティにする

    エア ジョーダン 1では選手の色、ダンクでは大学の色を、遠くからでも『誰の側か』が分かる視覚言語へ変えた。

  • 02

    靴より大きなものを設計する

    靴、ロゴ、服、ポスター、広告、包装を分けず、一つのブランドとして見える仕組みをつくった。

  • 03

    歴史から残すものを選ぶ

    ナイキを離れた後は競合だったアディダスへ入り、新しさを足すより、3本線や創業者の思想など既にあった強みを削り出した。

07 / Read more

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BOOKPeter Moore: Sneaker Legend: The Designer Who Revolutionized Nike and Adidas

評伝を読む(英語)

01

『ピーター・ムーア:スニーカー・レジェンド』(Peter Moore: Sneaker Legend: The Designer Who Revolutionized Nike and Adidas)

ジェイソン・コールズ(Jason Coles)

ムーアの3人の息子や同僚と協働して編まれた2024年の評伝。初期のグラフィック仕事、エア ジョーダン 1、ダンク、アディダス・エキップメント、個人作品までを豊富な図版で追える。

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『明日の君は、どこにいる?』書影

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『明日の君は、どこにいる?』

「自分の人生、このままでいいのか?」。この本は、その答えを教える本ではありません。先人たちの迷いや選択をたどりながら、自分ならどう生きるかを考えていく物語です。

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