一人の人生を読む
最初の夢は、映画ではなかった
円谷英二は1901年、福島県須賀川町、現在の須賀川市に生まれた。本名は英一という。
幼くして両親を失い、祖母のもとで育った。
小学生のころから夢中になったのは映画ではない。飛行機だった。
飛行機や飛行船の模型を作り、空を飛ぶ機械に惹かれた。16歳で上京するといったん会社へ就職するが、半年ほどで辞め、羽田の日本飛行学校へ入る。
操縦士になるつもりだった。
しかし、その学校には練習機が一機しかなかった。潮の満ち引きにも左右され、十分な飛行訓練ができない環境だった。
そして入学の翌年、その一機が墜落した。
教官が亡くなり、学校は閉鎖された。
ここから先を知っている私たちは、「だから特撮へ進んだ」と一本の線を引きたくなる。
だが当時の17歳に、ゴジラもウルトラマンも見えてはいない。
まず、目指していた職業がなくなっただけだった。
飛べなくなって、カメラに出会う
飛行学校が閉じたあと、円谷は神田の電気学校へ進んだ。
そこで写真機に惹かれる。
18歳のとき、映画技術者との出会いをきっかけに映画会社へ入り、日本映画草創期の撮影技師・枝正義郎のもとで撮影を学んだ。
1920年代には京都へ移り、撮影技師として仕事をする。
後世には「特撮の神様」と呼ばれるが、最初の職能はカメラマンだった。
レンズ、光、速度、画面の中で物がどう動いて見えるか。
怪獣を考えるより前に、現実をカメラでどう見せるかを何年も積み上げた。
1934年の写真には、撮影用カメラの横に座る30代前半の円谷が写っている。
この時点ではまだ、世界的な怪獣映画の人ではない。
『キング・コング』が、カメラの先を広げた
1933年、アメリカ映画『キング・コング』を見た円谷は強い衝撃を受けた。
巨大な存在を、実際には存在しないのに画面の中で動かす。
円谷は特殊撮影の研究を深めていく。
現在の東宝の前身の一つであるジェー・オー・スタヂオ(J.O.スタヂオ)を経て、合成、スクリーン・プロセス、ミニチュアなどの技術を磨いた。航空機を扱う映画では、とくにその技術が生きた。
少年時代に憧れた飛行機は、操縦する対象ではなく、撮影する対象として再び現れた。
ただし、ここにも単純な美談にはできない部分がある。
特撮は、戦争の中でも育った
1942年、山本嘉次郎監督『ハワイ・マレー沖海戦』が公開された。
円谷が担当した特殊撮影は大きな注目を集めた。航空機や艦船をミニチュアと撮影技術で表現し、日本映画界に特殊撮影の力を強く印象づけた作品だった。
同時に、それは戦意高揚のための戦争映画でもある。
特撮の技術史から見れば重要な前進であり、政治史から見れば戦時体制に組み込まれた映画制作だった。
どちらか片方だけにすると、円谷の仕事の条件が消えてしまう。
戦後、その仕事との連続の中で円谷は公職追放を受け、東宝を離れた。
1948年から1952年、東宝の特殊技術課は渡辺明が責任者を担った。
ただし円谷が映画をやめたわけではない。1949年には大映『透明人間現わる』の特撮にも参加している。
後世の「特撮の神様」にも、中心の会社から外れて仕事を続けた時期があった。
『ゴジラ』で、特撮をチームの技術にする
1954年、『ゴジラ』が公開された。
円谷英二の名前と最も強く結びつく作品の一つである。
国立映画アーカイブに残るスタッフ表を見ると、監督は本多猪四郎、製作は田中友幸、原作は香山滋、脚本は村田武雄と本多、音楽は伊福部昭。特殊技術には円谷のほか向山宏、渡辺明、岸田九一郎の名前が並ぶ。
本編の人物ドラマ、怪獣の造形、ミニチュア都市、撮影、合成、光、音、音楽が重なって作品が成立した。
円谷は、撮影・美術・造形・光学など異なる専門を一つの画面へまとめる特撮班を率いた。

1954年、『ゴジラ』の特撮現場でスタッフと作業する円谷英二。東宝の撮影現場写真。Wikimedia Commonsでは日米のパブリックドメイン条件を満たす資料として公開されている。 出典
1962年の『キングコング対ゴジラ』になると、その分業はさらに明確だ。円谷が特技監督を務め、有川貞昌や富岡素敬が撮影、幸隆生が光学撮影、渡辺明が美術を担当している。
撮影技術は、円谷が指揮する専門スタッフの制作工程として蓄積されていった。
映画の特撮を、毎週のテレビへ
1963年、円谷は円谷特技プロダクションを設立した。
映画の特撮は、大きなスクリーンのために長い準備をする仕事だった。
テレビでは条件が違う。
小さな画面へ、短い周期で、新しい映像を送り続けなければならない。
1966年1月、『ウルトラQ』が放映開始する。その後のウルトラシリーズへつながり、日本のテレビ特撮という大きな流れができていく。
脚本、デザイン、監督、撮影、造形、光学技術を担う若い制作者が加わり、制作方法が次の世代へ渡っていった。
映画の中で組織した方法を、今度は会社として残していった。
最後まで、飛行機の映画を作りたかった
怪獣が人気を集め、円谷の名前が「特撮」と結びついた晩年にも、別の企画が残っていた。
『ニッポン・ヒコーキ野郎』。
日本の初期のパイロットたちを描く構想だった。
若いころになれなかった操縦士へ、最後に戻った——と書けばきれいすぎるだろう。
ただ、国立映画アーカイブの資料から確実に言えるのは、飛行機への関心が半世紀近く消えなかったということだ。
1970年1月25日、円谷英二は68歳で亡くなった。
少年が最初に選んだ道は、学校そのものが閉じて途切れた。
その後も、戦争、追放、映画からテレビへの変化と、自分では決められない条件が何度も仕事を変えた。
そのたびに、円谷は持っていた技術を別の場所へ移した。
飛行機からカメラへ。
撮影から特殊撮影へ。
個人の技術から制作組織へ。
映画からテレビへ。
円谷英二の生涯に一貫しているのは、最初の夢を守り続けたことより、環境が変わるたびに「見せる技術」を別の形へ作り直したことなのかもしれない。




