一人の人生を読む
1941年5月29日、カリフォルニア州バーバンクのディズニー・スタジオの門前に、仕事を休んだアニメーション制作者たちが集まっていた。掲げられたプラカードの向こうには、彼らが日々通っていた職場がある。組合をめぐる対立が深まり、ストライキが始まった日だった。
その数年前、このスタジオからは『白雪姫』が世界へ送り出されていた。手描きの絵に色と動きを与え、音楽をつけ、ひとつの長い物語をつくりあげた人々である。だが彼らのあいだには、仕事の評価や報酬、経営者との関係をめぐる溝が生じていた。会社を率いるウォルト・ディズニー(Walt Disney)は、自分のもとに集った人々がなぜ反発するのか、受け止めきれなかったという。
ウォルトは、人々に楽しんでもらうために、多くの人と大きな仕事をしようとした。その仕事が大きくなるほど、彼が思い描くものと、それを実際につくる人たちの事情とは、容易には重ならなくなっていった。
机や機材まで担保に入れた
ウォルター・イライアス・ディズニーは1901年、シカゴで生まれた。父イライアス、母フローラの一家は、幼いウォルトを連れてミズーリ州のマーセライン(Marceline)へ移り、後にカンザスシティへ移住した。農場の動物や地方の町並みは、彼が生涯親しんだ風景のひとつになった。だが少年の毎日は、絵を描いて過ごすだけのものではない。カンザスシティでは父の新聞配達の仕事も手伝った。
父は息子が漫画を仕事にすることに理解を示さなかった。それでも、美術の授業を受ける費用を出したこともある。ウォルトは後年、意見を衝突させた父を強く尊敬していたと語った。絵を学ぶ時間と、家族の仕事を手伝う時間が、どちらも少年の日常にあった。
第一次世界大戦の終わりごろには赤十字の仕事でフランスへ渡った。帰国後、カンザスシティで広告用映像などを手がけ、やがて自分のアニメーション会社「ラフォグラム」を立ち上げる。絵を動かす仕事はできたが、それを安定した収入に変えるのは難しかった。
1923年、その会社は破産した。アメリカの国立公文書館には、破産事件の一部として、会社の机や椅子、アニメーション制作の機材を担保に入れた書類が残っている。社長として記された名前はウォルター・E・ディズニー。のちに巨大な娯楽企業を率いる人物が、最初の会社では道具や備品まで債務の対象にしていたのである。
ウォルトはカリフォルニアへ向かった。カンザスシティでつくった、実写の少女が漫画の世界に入り込む短編『アリスの不思議の国』(Alice’s Wonderland)を持参していた。新しい配給先との契約が決まり、1923年、兄ロイ・ディズニー(Roy Disney)と映画会社を始める。絵や物語に取り組むウォルトに対し、ロイは資金や経営を支えた。二人の仕事は、片方だけでは続かなかった。
ミッキーマウスが生まれる前に
新しい会社での仕事は、まず「アリス・コメディ」と呼ばれる短編映画のシリーズになった。実写とアニメーションを組み合わせる試みである。ウォルトは仲間を集め、やがてウサギのキャラクター、オズワルドを主役にした作品を手がけるようになる。
オズワルドは人気を得た。ところが1928年、配給契約をめぐる交渉で、ウォルトは自分の会社がキャラクターの権利を持っていないことを思い知らされた。配給側は多くのアニメーターとも契約を進めていた。自分たちがつくり、観客に親しまれた存在を、そのまま自分たちの仕事として続けることができなくなったのだ。
彼は新たな主人公を必要とした。そこで力を発揮したのが、初期からの共同制作者アブ・アイワークス(Ub Iwerks)である。ウォルトとアイワークスが形にしたミッキーマウスは、1928年の『蒸気船ウィリー』(Steamboat Willie)で、動きと音を組み合わせた生き生きとした存在になった。同作がニューヨークで上映されると、新しい会社の顔が生まれた。
このころウォルトの仕事は、絵を自分で描くことから、人を集め、仕事の方向を決め、出来上がりに責任を持つことへ移っていた。画面の中ではミッキーが自在に走り回る。その背後には、作画、音楽、撮影、配給といった別々の仕事が積み重なっている。
ウォルトは短編から長編へ進もうとした。『白雪姫』(Snow White and the Seven Dwarfs)は1937年に公開され、大きな成功を収めた。長編アニメーションに観客が付き合えるのかという心配をよそに、歌や人物の感情をひと続きの映画として届けた。成功によって、彼らはバーバンクに新しいスタジオを築けるほどの規模になっていく。
その変化は、個人の描く絵の美しさだけでは説明できない。ウォルトは制作に膨大な時間と費用をかけた。彼の要求に応えるアニメーターや技術者がいて、ロイが資金の見通しをつけ、観客を劇場へ呼び込む配給の仕組みがあった。作品が大きくなると、同じ仕事場の人々が何を得て、何を失うのかも複雑になる。
会社の門前に立った人たち
『白雪姫』の成功を経たスタジオは、労働者全員にとって同じ場所だったわけではなかった。賃金の差、約束された利益の分配、経営側の対応への不満が広がった。著名なアニメーター、アート・バビット(Art Babbitt)も組合側へ加わり、会社との対立が深まる。バビットの解雇を経て、1941年5月29日にストライキが始まった。
ウォルトには、自分がつくった仕事場が裏切られたように感じられた。一方で働く側には、会社の作品を誇りに思うことと、待遇を改善するために集団で交渉することは矛盾しなかった。争議は約五週間続き、調停を経て組合が認められる方向で決着した。制作現場の人間関係は、それ以前と同じには戻らなかった。ウォルトが個人的な信頼と考えていたものも、従業員が必要とした労働条件を代わりに決めることはできなかった。
第二次世界大戦期には、スタジオは軍向けの教育・宣伝映画にも力を割いた。戦後もスタジオの経営は容易ではなく、長編アニメーションの制作を以前と同じ勢いで続ける余裕は乏しかった。しかし映画はつくられ続け、1946年には実写とアニメーションを組み合わせた『南部の唄』(Song of the South)が公開された。今度は作品が描くアメリカの過去そのものが、批判の対象になった。
南北戦争後のアメリカ南部の農園を舞台としたその映画は、人種差別と奴隷制の過去を明るく美化する描写で批判を受けた。全米黒人地位向上協会も異議を表明した。アトランタでの公開行事には、主要な役を演じた黒人俳優ジェームズ・バスケットが、当時の隔離制度のため参加できなかった。映画の中で親しみやすい昔話を語ることと、映画館の外で誰が排除されているかという現実は、深く食い違っていた。
1941年の争議をめぐるウォルトの見方は、1947年の米下院非米活動委員会での証言にも現れた。彼は争議の背後に共産主義者がいたと主張した。それは彼自身の見方であり、告発された人々の思想的な所属が証明されたという意味ではない。かつて創作仲間だった人々との対立を、彼はその後も政治的な疑念と結びつけていた。
妻の花壇の下を走る鉄道
スタジオの外に出ると、ウォルトには別の作業場所があった。自宅の庭である。
1925年、ウォルトはスタジオで彩色の仕事をしていたリリアン・バウンズ(Lillian Bounds)と結婚した。娘のダイアンが1933年に生まれ、三年後にシャロンが家族に加わった。娘たちの回想には、毎朝仕事へ出かけ、家へ帰ってくる父親の姿が残っている。
ウォルトが熱中したもののひとつが、小さな蒸気機関車を走らせる鉄道づくりだった。ロサンゼルスの住宅地ホルムビー・ヒルズにあった自宅には、庭を巡る線路を敷いた。1950年5月7日に初めて走らせたカロルウッド・パシフィック鉄道は、全長約800メートル。橋があり、リリアンの花壇の下をくぐるトンネルまでついていた。
敷地には線路の切り替えを操作するための納屋もあった。ウォルトはそこで鉄道の機械に触れ、機関車の手入れをし、友人たちと過ごした。映画のスタジオで大勢に指示を出していた男が、自宅では自分の手を使って、もうひとつの小さな場所をつくっていたのである。
子どもと一緒に訪れる遊園地の経験も、彼の頭から離れなかった。やがて関心は、画面の上に描く町から、来園者が実際に歩くことのできる町並みへと広がる。1954年の写真には、自治体の関係者にディズニーランドの計画図を示すウォルトが写っている。作品をつくるだけでなく、土地を確保し、人を迎え入れる施設を設計しなければならなくなっていた。
映画から、人の歩く場所へ
ディズニーランドは1955年、カリフォルニア州アナハイムに開園した。小さな町の大通り、異なる時代や物語の世界、鉄道。映画ならばカメラが見せる順番を決める。遊園地では、一人ひとりが好きな方向へ歩き、立ち止まり、周囲の建物や音を自分の身体で受け取る。ウォルトの仕事には、初めて「訪れた人が過ごす時間」が含まれることになった。
その実現にも、映画とは違う経営判断が必要だった。ディズニーはテレビ番組に出演して計画を紹介し、映画や放送、商品事業と遊園地を結びつけていった。映画の完成を待つ観客だけではなく、毎日入場する客を迎える仕組みが動き始めた。 一方、晩年の関心がすべて遊園地に集まったわけではない。映画『メリー・ポピンズ』(Mary Poppins)を手がけ、新しい芸術教育の場にも関わり続けた。映画の制作を続けながら、彼はさらに大きな土地を使う計画へ向かっていた。
住むための町は、完成しなかった
1965年11月、ウォルトはフロリダ州の広大な土地を使う新事業を公表した。娯楽施設を含む計画だったが、彼がその先に考えていたのは遊園地だけではない。翌年に説明映像を撮るころには、実際に人が暮らす実験都市「エプコット」の構想を具体的に語っていた。
ウォルトが考えていたのは、未来の生活を展示するだけの場所ではない。交通や住宅、働く場所、学校などを含めた、運営される町だった。これまでの遊園地と違い、住民の日々の暮らしがある。その構想には、街の仕組みを一体として管理するという強い考えも含まれていた。舞台のように整った町並みを実生活の場所にすることは、映画制作とも遊園地運営とも違う難しさを抱える。
1966年10月27日、ウォルトはこのフロリダ計画を説明する映像を撮影した。大きな土地があるからこそ、多くの考えや計画を実現できると語っている。翌月には肺の腫瘍が明らかになり、同年12月15日、65歳で亡くなった。喫煙を長く続けていたことも、後年の家族の証言に残されている。
兄ロイはその後、フロリダでの事業を進めた。ウォルト・ディズニー・ワールドは1971年に開園したが、ウォルトが考えた「住む都市」としてのエプコットは建設されなかった。現在知られるエプコットは、その構想を別の形で受け継いだ施設である。
人生の初め、ウォルトは小さな会社の机や機材まで担保に入れ、やがて事業を失った。生涯の終わりには、自分が住むわけでもない未来の町のために、広大な土地と人々の仕事を動かそうとしていた。そこまで対象を広げた彼は、完成した町を見ることがなかった。残されたのは、世界中で親しまれる作品と場所、そこで働いた人々との対立、そして実現しなかった都市の計画だった。




