一人の人生を読む
「若く健康な大統領」は、ずっと病気だった
ジョン・F・ケネディ(John F. Kennedy)は1917年、マサチューセッツ州ブルックラインに生まれた。
家は裕福だった。父ジョセフ・P・ケネディ(Joseph P. Kennedy)は事業で大きな財産を築き、政治にも深く関わった。ケネディ家の子どもたちは私立学校に通い、使用人のいる家や夏の別荘で育った。
だから、ケネディを「何もないところから上がった若き政治家」と描くことはできない。
しかし、恵まれていたことと、身体が強かったことは別である。
幼いころから病気が多く、成人後もマラリア、副腎の病気、慢性的な背中の痛みに苦しんだ。背中の状態が悪いと、自分の幼い子どもを抱き上げられないことさえあった。
それでも、後に大統領となったケネディの写真や映像からは、若さ、健康、活力が前面に出る。
これは単なる偶然ではない。
政治家として、実際の身体とは異なる「強い身体」のイメージを前面に出す必要があった。
戦争と病気のあと、政治へ入る
ハーバード大学を卒業後、第二次世界大戦が始まると海軍を志願した。健康問題のため入隊は簡単ではなかったが、最終的には太平洋で魚雷艇を指揮する。
戦争経験はケネディを全国的に知られる人物へ近づけた。一方、帰国後も身体は回復しきらない。マラリアの影響が残り、副腎の病気や背中の問題への治療が続いた。
1946年に連邦下院議員、1952年に上院議員へ当選する。
だが議員としての経歴も、一直線の成功ではない。健康上の理由から議会を欠席することが多かった。
背中の手術後に療養していた時期、ケネディは、政治的に不人気な立場を引き受けた上院議員たちを描く『勇気ある人々』を制作する。1957年、この本はピューリツァー賞を受賞した。
制作には、上院スタッフのセオドア・ソレンセンが調査と執筆で大きく協力した。
43歳の大統領という、強いイメージ
1960年、ケネディは大統領選挙に勝った。
43歳。選挙で選ばれた大統領としては史上最年少だった。さらにアメリカ初のカトリック大統領でもある。
テレビ時代の大統領として、その若さは大きな政治資源になった。
しかしホワイトハウスに入ったのは、「健康で迷わない若者」ではない。
痛みを抱え、薬を必要とし、外交でも国内政治でも失敗しうる人間だった。
そのことが最もよく見える一日が、1962年10月27日である。
1962年10月27日、選択肢が全部危険だった
ソ連がキューバに核ミサイルを配備していることが確認され、アメリカとソ連は直接対決寸前まで近づいていた。
10月27日、状況はさらに悪くなる。
前日より厳しい内容のソ連書簡が届いた。そこでは、キューバからソ連ミサイルを撤去する条件として、トルコに置かれたアメリカのジュピター・ミサイル撤去が求められた。
同じ日、キューバ上空を飛んでいた米軍偵察機(U-2)が地対空ミサイルで撃墜され、操縦士ルドルフ・アンダーソン少佐(Rudolf Anderson)が死亡する。
軍事的には、撃ってきた拠点を攻撃する理由が生まれた。
しかも、キューバのソ連ミサイル基地は作戦可能な状態へ近づいていた。
「何もしない」ことにも危険がある。「攻撃する」ことにも、ソ連との戦争へ進む危険がある。「トルコのミサイルを撤去する」と公表すれば、北大西洋条約機構の同盟関係と国内政治に影響する。
正しい選択肢が一つだけ光っていたわけではない。
撃墜されても、すぐには撃ち返さなかった
この日、ケネディは地対空ミサイル基地への即時攻撃を求める圧力に抵抗した。
政権内では、ソ連から来た二つの異なる書簡をどう扱うかも議論された。
最終的には、より厳しい10月27日の要求を正面から公的に受け入れるのではなく、前日の比較的穏健な書簡へ返答する方針を取る。
だが、それだけで危機が終わったわけではない。
同日夜、司法長官で弟のロバート・ケネディ(Robert F. Kennedy)は、ソ連大使アナトリー・ドブルイニン(Anatoly Dobrynin)と秘密裏に会った。
ロバートの後の記録によれば、午後7時15分ごろ電話をし、7時45分に司法省で会っている。
そこで、キューバのソ連ミサイル撤去とアメリカによるキューバ不侵攻だけでなく、トルコのジュピター・ミサイルも後に撤去するという、表には出さない了解が形成されていった。
翌28日、ソ連のニキータ・フルシチョフ(Nikita Khrushchev)はキューバのミサイル撤去を表明する。

1962年10月29日、国家安全保障会議執行委員会の会議。撮影:セシル・ストートン。米連邦政府作品のためパブリックドメイン。 出典
「強く出たから勝った」だけではない
後から結末を知って見ると、ケネディは冷静にソ連へ圧力をかけ、核戦争を避けた指導者に見える。
その評価には理由がある。
しかし、10月27日に戻ると、もう少し複雑である。
撃墜されたのにすぐ攻撃しない。公にはトルコのミサイルと取引しない。しかし裏では、その撤去も解決の一部として扱う。
強硬姿勢だけでも、理想主義だけでもない。
人に見せる立場と、危機を終わらせるために実際にできることを分けていた。
それは、若いころからケネディが抱えていた構造にも似ている。
外から見える「若く健康な自分」と、実際の身体は同じではなかった。
大統領として公に言えることと、戦争を避けるため秘密裏に受け入れられることも、同じではなかった。
46歳で止まった人生
1963年11月22日、ケネディはテキサス州ダラスで暗殺され、46歳で死去した。
若くして殺されたことで、その人生は「これから何を成し遂げたはずだったか」という想像と切り離せなくなった。
しかし、未来を想像することはできても、検証はできない。
残っているのは、すでに起きたことだ。
裕福な家に生まれたこと。病気を抱え続けたこと。家族の資金や選挙組織、スタッフの仕事に支えられて政治家としての像が形づくられたこと。そして世界が戦争へ近づいた日、公的な強さだけではなく、秘密の妥協まで使ったこと。
ケネディの人生は、「若い理想の大統領」の写真一枚より、ずっと矛盾が多い。
だからこそ、人間の判断として読む価値がある。




