一人の人生を読む
1967年2月、故郷の居間で
1967年2月、54歳のマレー・ボーエン(Murray Bowen)は、故郷テネシー州ウェイバリーへ戻っていた。精神科医としてはすでにジョージタウン大学で教え、家族を一つの情動システムとして考える論文も発表していた。それでもこの帰郷で向き合っていたのは患者の家族ではない。自分自身の家族だった。
ボーエンが後年の手紙に残した回想では、その数か月前から、彼は家族の「三角関係」がどう連結しているかを何百時間も図に描き、要所にいる親族へ手紙を書いていた。家族史を調べ、帰省するたびに接触の仕方を変える試みも、すでに何年も続いていた。本人の表現では、それまでの進歩は一度の訪問につき「少しずつ」に近かった。
その日曜午後、親族たちが一つの居間に集まり、ボーエン自身へ注意が向いた。約30分が過ぎたころ、彼は、それまで越えられなかった情動的な壁を今回は大きく越えた、と感じたという。この大きな変化という評価はボーエン自身のものだった。それでも本人にとっては、その後の仕事を区切るほど重要な経験だった。翌月、フィラデルフィアの研究者会合で、彼は自分の原家族を扱った発表を行う。
なぜ精神科医が、自分の家族の居間まで研究と実践の中へ入れていたのか。そこから彼の人生を逆にたどると、ボーエンが広げ続けた一つの境界が見えてくる。
外科医になるはずだった
ボーエンは1913年1月31日、ウェイバリーの農場に生まれた。Jess Sewell BowenとMaggie May Luff Bowenの5人きょうだいの長子である。テネシー大学ノックスビル校を1934年に卒業し、1937年に同大学医学部でM.D.を取得した。1938年にはニューディール政策の一つだったカンバーランド・ホームステッドで短期間医師を務め、その後ニューヨークのベルビュー病院、グラスランズ病院で研修した。
この頃の志望は精神科ではなく外科だった。グラスランズでは機械式心臓の案まで考え、メイヨー・クリニックの外科フェローシップにも受け入れられていた。ところが1941年から陸軍軍医として勤務し、米国だけでなく英国やフランスの病院を経験する。階級は中尉から少佐まで上がった。
戦争が終わったとき、ボーエンは予定していた外科へ進まなかった。晩年の本人の説明では、戦時中に兵士たちの精神的な反応を目にした経験が、精神医学へ関心を移すきっかけになった。1990年、死の約6か月前の講演で彼は、外科の方を「科学」に近い分野だと見ていた一方、フロイト(Sigmund Freud)が「心の科学」を構想していると知り、精神医学にも科学の可能性があると考えた、と振り返っている。
1946年、33歳でカンザス州トピーカのメニンガー財団へ入った。精神分析を学び、自分自身も分析を受け、やがて精神科医としてスタッフに加わった。しかし後年のボーエンの語りでは、ここで満足したわけではない。人間の経験を説明するフロイトの理論を学ぶほど、それを進化や自然科学の側まで延ばせないことが気になったという。
治療法を探す前に、そもそも人間をどういう存在として説明するのか。その問いが、彼の仕事を長く動かすことになる。
患者一人から、家族全体へ
1954年、ボーエンはメニンガーを離れ、メリーランド州ベセスダの国立精神衛生研究所(NIMH)へ移った。ここで始めた家族研究プロジェクト(Family Study Project)では、統合失調症と診断された成人患者だけでなく、その両親や家族も研究単位に入った。家族が研究病棟で生活し、日々の相互作用を長期に観察されるケースもあった。
1959年、ボーエンはロバート・H・ダイシンガー(Robert H. Dysinger)、ベティ・バサマニア(Betty Basamania)と、父親の役割を扱った論文を『American Journal of Psychiatry』に発表した。そこでは入院4家族と外来6家族が扱われ、家族を一つの「有機体(organism)」として見る視点がはっきり示されている。父、母、患者は別々に動く個人ではなく、一人が動けば他の関係も変わる相互的なまとまりとして観察された。
これは1950年代の統合失調症研究である。ボーエンも当時の精神医学の中で、家族関係と重い精神症状をかなり近く結びつけて考えていた。その後の彼の仕事で大きくなっていったのは、誰か一人を原因に決める方向よりも、家族員どうしの相互作用を離れて見る視点だった。
「患者」と呼ばれる一人を詳しく見れば十分なのか。ある人の症状が、別の人の反応を変え、その反応がまた本人へ返ってくるなら、観察する単位そのものを広げなければならない。ボーエンはNIMHで、その方向へ進んだ。
1959年にジョージタウン大学医療センターへ移ってからも、この考えを臨床と教育の中で広げていく。ヴァージニア医科大学(Medical College of Virginia)では閉回路テレビと録画を使い、家族面接を専門家たちが観察し、あとから検討できる形にもした。見えにくい関係の動きを、個人の印象ではなく繰り返し観察できる対象にしようとしていた。
自分の家族が「第1号」になる
ところが、観察単位を家族へ広げると、一つ厄介な問題が残る。観察している精神科医自身は、その外側に立っていられるのか。
ボーエンは1960年頃から、遠い親族まで含めた自分の家族史を調べ、両親やきょうだい、親族との接触を増やしていった。1982年の発表では、自分の家族をこの取り組みの「#1 family」と呼んでいる。著名な先祖だけを追う家系研究にはあまり関心がなく、歴史に残らない人、問題を抱えた人、引きこもる人も含め、「家族全体」を知ろうとした。
ボーエン自身の回想では、家族史を調べてもすぐに答えが出たわけではない。何年調べても大きな進展を感じられない時期が続き、帰省するたびに少し変わり、また元へ戻った。その反復を見ながら、彼は家族図を描き、誰と誰の緊張が別の誰を巻き込むのかを考えた。
1965年から66年にかけて、ボーエンは後に主要論文となる「臨床実践における家族理論の使用」(The Use of Family Theory in Clinical Practice)の執筆に約1年半を費やしたと書いている。論文がまとまったあとも、自分の家族への取り組みは終わらない。1966年秋から翌年1月にかけて、彼は連結する三角関係を繰り返し図示し、その中心にいると思う人たちへ手紙を書いた。
そして1967年2月のウェイバリーへ戻る。冒頭の居間の出来事を、ボーエンはおよそ12年の試行錯誤の中で初めて大きく壁を越えた瞬間として記憶した。この出来事には、彼の方法の特徴がよく出ている。ボーエンは、観察者である自分自身も家族の関係の中に含めた。そのうえで、自分の反応に巻き込まれきらずに考え、接触し続けられるかを試した。
後に「自己分化」(differentiation of self)と呼ばれる考えの中心にも、この問題がある。周囲から離れて孤立することではない。不安が高い関係の中でも、自分の考えを保ちながら重要な人とのつながりを切らない。その難しさを、ボーエンは患者にだけ要求したのではなく、自分の原家族でも扱おうとした。
理論家を知っていた人たち
理論が描く「情動的客観性」と、同僚が覚えているボーエンの印象は、きれいには重ならない。
精神科医ヴィンセント・ケリー(Vincent Kelly)は、ボーエンを社会的には器用ではなく、相手が居心地悪くなることも平気で言う人物だったと回想している。ある社交の場では、妻ルロイ(LeRoy)が女性たちと楽しそうに話しているところへボーエンが来て、そろそろ帰ろうと促した。ルロイは笑顔を向けたものの返事をせず、そのまま会話へ戻ったという。ケリーはずっと後になって、この場面を「自己分化」の例のように理解した。
一方、長く指導を受けたキャスリーン・カー(Kathleen Kerr)は、最初に会ったボーエンを無愛想で失礼に感じたと話す。しかし関係が続くと、彼女の学問的な努力を支え、厳しく考えることを求め、冗談も交わす指導者だったという。ダグラス・マーフィー(Douglas Murphy)は、ボーエンを「偉い先生」と見上げて緊張していた自分に対し、ボーエンが一時間の相談中わざとらしいほど荒い言葉を使い続け、最後には二人で笑ったことを覚えている。
どの証言も、ボーエンの「本当の性格」を一つに決めるものではない。ただ、情動的な反応を研究した人自身が、周囲にまったく反応を起こさせない透明な観察者ではなかったことは分かる。理論の語彙と、その人と実際に付き合った記憶との間には、少しざらついた距離が残っている。
家族から、人間という生物へ
ボーエンの射程は、家族だけで止まらなかった。1969年には大学院修了後の専門家向け教育を始め、1975年にはジョージタウン大学ファミリー・センターを設立した。1978年には、それまで約20年の主要論文を集めた『臨床実践における家族療法』(Family Therapy in Clinical Practice、邦訳未刊・仮訳)を刊行する。
しかし晩年の本人が強調したのは、「家族療法」という一つの治療分野を大きくしたことだけではなかった。1990年4月の講演で、ボーエンは自分の45年を「人間行動の科学」を作ろうとした時間として振り返っている。人間の身体も他の動物と連続している。ならば人間の情動や関係も、進化や自然のシステムから切り離さずに考えられるはずだ。彼はそう考え、精神分析の言葉だけでは届かないところを、進化論とシステム思考でつなごうとした。
この自信はかなり大きい。死の直前にまとめた履歴書でも、自分の理論が将来フロイトの理論を置き換える可能性まで書いている。そこには慎重な学者というより、自分の生涯を一つの長い理論開発として理解していた人物がいる。
同時に、ボーエン自身も「良い理論は決して最終ではなく、新しい知識で変わりうる」と記した。完成を宣言することと、書き換え可能性を残すこと。その二つが同じ履歴書の中に並んでいた。
完成しなかった「人間行動の科学」
1990年10月9日、ボーエンはメリーランド州チェビー・チェイスの自宅で、肺疾患による呼吸不全のため77歳で死去した。妻ルロイ、4人の子ども、4人の孫が残った。
死後、家族は彼の仕事を保存する側へ回った。娘ジョアン(Joanne)にはアーカイブを実現する役割が託され、家族とジョージタウン大学ファミリー・センターは録音、映像、文書を整理していった。2011年、ルロイが亡くなる少し前に子どもたちとその配偶者が家を片づけていると、屋根裏の軒下から箱がいくつも見つかった。中には大学・医学部時代のノート、第二次大戦中の手紙、メニンガー時代の資料が残っていた。現在、ボーエン文書群の大きな部分はアメリカ国立医学図書館(National Library of Medicine)に収蔵され、一部の機微資料は2052年まで閉じられている。
理論の方も、本人の言葉のまま凍結されたわけではない。2001年のレビューでは、自己分化や三角関係などを直接検証した実証研究はまだ少数だった。その後研究は増え、2022年のスコーピングレビューは「自己分化」を扱う295件の一次研究を整理している。心理的健康や婚姻の質との関連を支持する研究が積み上がる一方、世代間伝達を因果的に確かめる研究や、臨床介入によって自己分化そのものを変えられるかについては、なお不足があるとされた。
ボーエンは、家族についての概念を、検証し続けられる「人間行動の科学」へ育てようとした。その大きな構想は、彼の死で完成したわけでも、後世の研究で一度に証明されたわけでもない。
彼の死後に残ったのは、自分の家族へ書いた手紙、同僚たちの食い違う記憶、家族が屋根裏から見つけた箱、公開を待つ資料、そして個々の仮説を測り直す研究である。患者一人から家族全体へ、さらに観察者自身へと視線を広げた彼の仕事は、死後も資料と検証の増加によって輪郭を変え続けている。




