一人の人生を読む
三歳で、顔と手に火傷を負う
ルイス・カーンは1901年、現在のエストニアに生まれた。幼いころ、暖炉の赤い炭に惹かれ、炭を衣服へ入れてしまった。服に火がつき、顔と手に生涯残る重い火傷を負った。1904年冬、三歳ごろの出来事として家族の記録に伝わっている。
その後の家族の反応も一つではない。家族に伝わる話では、父は息子の将来を非常に悲観した。一方で母は、その傷を「この子は大きなことをする」という印のように受け止めたという。
火傷の痕は、生涯にわたって顔と手に残った。
一家はその後アメリカへ移住し、フィラデルフィアで暮らす。裕福ではなく、何度も住居を移った。カーンは猩紅熱にもかかり、就学が遅れた。伝記資料には、貧しい移民の子どもであることと顔の傷を強く意識していた少年として描かれている。
すぐに「巨匠」になったわけではない
絵と音楽の才能を認められたカーンは、フィラデルフィアで芸術教育を受け、ペンシルベニア大学で建築を学んだ。1924年に卒業する。
その後すぐに現在知られる代表作をつくったわけではない。世界恐慌の時期には仕事探しに苦労し、住宅、都市計画、公共住宅など比較的小規模な仕事を続けた。建築史で知られるカーンが現れるまでには、長い停滞の時間がある。
1930年にはエスター・イスラエリと結婚し、娘スー・アンが生まれた。この婚姻はカーンの死まで続く。
1947年からはイェール大学で教え、1950年代にはペンシルベニア大学へ移る。学生や同僚からは、強い魅力をもつ教師として記憶された。一方で私生活については多くを語らず、親しかった建築史家ヴィンセント・スカリーでさえ、当初カーンが結婚していることを知らなかったと後年振り返っている。
仕事の場で見える人物と、家庭の中の人物は、かなり離れていた。
一つの家庭の外に、二つの家庭があった
カーンはエスターとの婚姻を続けながら、建築家アン・ティンと長期的な親密関係を持った。二人の間には娘アレクサンドラが生まれた。
さらにランドスケープ・アーキテクトのハリエット・パティソンとも長い関係を持ち、二人の間には息子ナサニエルが生まれた。
つまりカーンには、エスターとスー・アン、アンとアレクサンドラ、ハリエットとナサニエルという三つの家族関係が長く同時並行していた。
ナサニエルは父と同居していない。父が断続的に訪ねてくる子ども時代を送り、祝日に父を待った記憶を後年語っている。アレクサンドラもまた、父と同居しない家庭で育った。
父の存在は、建築雑誌や大学では大きくなっていく一方、子どもの生活では断片的だった。
50代から代表作が続く
1953年、イェール大学美術館が完成する。カーンは52歳だった。このころから、リチャーズ医学研究棟、サルク研究所、ダッカの国会議事堂、フィリップス・エクセター・アカデミー図書館、キンベル美術館など、現在代表作とされる仕事が集中する。
カーンは古代建築に強く惹かれたが、古典様式の装飾を復活させたわけではない。厚い壁、深い開口、材料の質感、構造のあり方、光が入る場所と暗さが残る場所を、現代の建築へ取り込もうとした。
サルク研究所では、実験室と設備層を分けることで研究空間を変えやすくし、地下にも光井戸から自然光を入れた。
バラガンを呼び、中心空間を変える
サルク研究所の中庭には、当初、樹木を植える案があった。カーンはメキシコの建築家ルイス・バラガンを現地へ招いた。
サルク研究所の記録によれば、バラガンは中庭を植栽のある庭ではなく、空へ開く石の広場として扱うよう勧めた。その後、カーンとジョナス・ソークはトラバーチンを選び、現在の中庭へ計画を変えていった。
カーンは、代表作の中心空間についても他人の助言を受けて案を変えた。仕事の重要な局面で、判断は一人の中だけで完結していなかった。
世界的な名声と、事務所の借金
1960年代から70年代初めにかけて、カーンの評価は急速に高まった。世界各地から仕事が入り、大学では影響力のある教師として知られた。
それでも、事務所経営は安定しなかった。家族ドキュメンタリーや伝記資料は、死去時にカーンの事務所が深刻な負債を抱えていたことを伝えている。
巨大な公共建築を設計し、世界各地へ飛びながら、事務所は資金繰りに苦しむ。三つの家族を抱えながら、それぞれの家族に十分な時間を持てたわけでもない。
名声と金銭的成功、家族生活の安定は、同時には進まなかった。
1974年3月17日、駅の男性用トイレで倒れる
1974年3月、カーンはインドからアメリカへ戻る途中だった。
3月17日、ニューヨークのペンシルベニア駅で心臓発作を起こし、男性用トイレで死亡した。73歳だった。
所持していた住所情報が連絡先として機能しなかったため、身元の確認と家族への連絡が遅れた。遺体は市の遺体安置所へ送られ、世界的に知られた建築家でありながら、その死が家族や周囲へ届くまで数日を要した。
なぜ住所が消されていたのか、その動機は分かっていない。
死の時点で、事務所には負債があり、イェール英国美術センターもダッカの国会議事堂も建設途中だった。家庭も一つではなかった。
11歳の息子は、父の死亡記事に自分の名前を見つけられなかった
ナサニエルは父が死んだとき11歳だった。後年のインタビューで、父の死亡記事を読み、そこに自分の名前がなかったことを振り返っている。
父は世界中で建築家として知られていた。しかし息子との関係は公的には見えないものだった。
そのナサニエルが成人後、父を探す映画をつくった。2003年に公開された『マイ・アーキテクト』(My Architect)である。彼は父の建築を訪ね、エスターとスー・アン、アン・ティンとアレクサンドラ、母ハリエット、かつての同僚や施主たちに会い、「自分の父はいったい誰だったのか」を探した。
映画の中で、建築を訪ねることと家族の記憶を聞くことは同じ旅になっている。ナサニエルは、自分には断片的にしか存在しなかった父を、建物と他人の記憶の両方から組み直していった。
生涯は、代表作へ向かう一本の線ではない
カーンには、幼少期の火傷があった。貧しい移民家庭で育った。若いころは仕事に恵まれず、50代になってから代表作が集中した。
同時に、三つの家族関係を並行させた。学生には魅力的な教師として記憶されながら、子どもにとっては不在の父でもあった。世界的な名声を得ながら事務所は負債を抱え、最後は駅で突然死に、すぐには身元を知られなかった。
死後、未完成の建築は所員たちが完成させ、息子は映画を通して父を探し直した。
火傷の痕、長い停滞、代表作、三つの家族、残した借金、未完成の仕事、駅での突然死、死後に子どもが引き受けた記憶までが、ルイス・カーンの生涯に同時に残っている。




