一人の人生を読む
1914年11月5日、北里柴三郎は、長年率いてきた伝染病研究所の所長を辞めた。同じ日、東京の土筆ヶ岡養生園の一角に、私立の北里研究所を創立している。
国の研究所を去った日に、民間の研究所をつくる。61歳の北里には、すでに破傷風の研究で得た国際的な名声があった。日本でも細菌学の第一人者と認められていた。それでも彼は、研究をどの組織で、誰と、どのように続けるかという問題に直面していた。
その仕事の始まりは、政府の研究所でもベルリンの実験室でもない。熊本で医学を学び始めた若い頃にさかのぼる。
医者になる前に考えていたこと
北里は1853年、現在の熊本県小国町に生まれた。北里家は代々、地域の庄屋を務める家である。幼い頃には親元を離れて伯母の嫁ぎ先に預けられ、大伯父から漢学を学んだ。
医学との出会いは、1871年の熊本にあった。古城医学所で、オランダ人軍医コンスタント・マンスフェルト(Constant Mansveldt)に学ぶ。1874年には東京医学校へ進んだ。
1878年、学生だった北里が書いた演説原稿『医道論』は、今も残されている。そこで掲げられたのは、病気になった人を治すことと同じように、病気を未然に防ぐことを医者の仕事とする考えだった。病気の原因を確かめ、広がる前に防ぐ。その考えは、後年の研究所づくりにもつながっていく。
1883年、東京大学医学部を卒業した北里が進んだ先は研究室ではなく、内務省衛生局だった。最初の仕事には外国の医学文献の翻訳や医術開業試験の事務もあった。やがてコレラや赤痢の調査研究に携わる。この年、松尾乕と結婚している。
行政の現場で伝染病に向き合った北里は、やがて官費留学生としてドイツへ向かった。
ベルリンの研究室で得たもの
1886年、北里はベルリンでローベルト・コッホ(Robert Koch)の研究室に入った。結核菌などの発見で知られるコッホのもとでは、目に見えない細菌を分離し、培養し、病気との関係を調べる研究が進んでいた。
北里が取り組んだのは破傷風だった。傷口などから体に入った破傷風菌がつくる毒素によって、筋肉の激しいけいれんを起こす病気である。菌を取り出して研究すること自体が難しく、ほかの菌を混ぜずに培養する技術が求められた。北里は1889年、破傷風菌の純粋培養に成功した。
そこから研究は、原因を確かめる段階から、毒素の働きにどう対抗できるかへ移る。翌1890年、北里は研究仲間のエミール・フォン・ベーリング(Emil von Behring)とともに、毒素に対抗する抗毒素と血清療法の研究成果を発表した。抗毒素を含む血清を使い、体内の毒素の働きを抑えるという考え方である。病原体を見つける研究が、治療法の研究へつながった。
血清療法は、あらかじめ感染を防ぐワクチンとは異なる。北里らの研究が切り開いたのは、細菌がつくる毒素の作用に血液中の成分で対抗する道だった。
この共同研究から十一年後の1901年、第1回ノーベル生理学・医学賞を受けたのは、ジフテリアの血清療法で評価されたベーリング一人だった。北里は受賞していない。
北里は六年間の留学を終え、1892年に帰国した。日本で細菌学の研究を続けるには、まず実験の場所を確保しなければならなかった。
芝公園の小さな研究所
帰国した北里には、研究を続けるための十分な施設が用意されていたわけではない。福澤諭吉らの支援を受け、1892年、東京の芝公園に私立伝染病研究所を創立する。最初の建物は建坪が十坪ほどの二階建てで、部屋は六つ。北里自身もそこに住み込んで研究した。
翌1893年には、結核患者を診療する土筆ヶ岡養生園を開いた。結核は当時、人々の命を脅かす深刻な病気だった。北里は病原体の研究だけを進めるのではなく、患者を受け入れ、診療や予防につなげる場所を整えていった。
実験室に加えて、患者のための病床や医師、細菌学を学ぶ人のための設備が必要になった。研究所と養生園を運営することは、研究成果を診療と予防に結びつける仕事でもあった。
この頃、伝染病研究所では細菌学の講習も行われた。講義を聞かせるだけでなく、実習によって技術を身につけてもらう。北里の仕事には、自分が研究することと、ほかの人が研究できるようにすることの両方があった。
香港で問われた発見
1894年、香港でペストが流行し、北里は日本政府の派遣を受けて現地に向かった。病気を起こす微生物を探すためである。北里は病原菌を見つけたと報告した。同じ頃、フランスの細菌学者アレクサンドル・エルサン(Alexandre Yersin)も独立に研究を進め、病原菌を報告している。
北里の発見報告は長くその業績の一つとして伝えられてきた。だが、彼が報告した菌の同定については、後年の医学史研究でも議論が続いている。現在のペスト菌の学名は、エルサンの名に由来する「エルシニア・ペスティス(Yersinia pestis)」である。
こうした疑義が残る一方、香港から戻った北里は、伝染病の研究と研究所の運営を続けた。
国立研究所を離れる
伝染病研究所は1899年に国立となり、内務省の管轄に入った。北里は所長として研究・衛生行政・人材育成に関わり続ける。1906年には白金の新施設が完成し、1908年には来日した恩師コッホ夫妻を案内した。ドイツで始まった師弟の関係は、研究所を構える日本でも続いていた。
私立から国立へ移ったことで、研究所は大きな施設を得た。一方、国の組織である以上、その所管を決めるのは政府だった。
1914年、伝染病研究所は内務省から文部省へ移管されることになった。北里はこの変更に反対し、所長を辞任した。北里についての慶應義塾の歴史記事によれば、移管を機に研究所員らも辞職し、北里と行動をともにした。制度上の変更は、一人の所長の退任では終わらなかった。
11月5日、北里は長く率いた研究所を去り、土筆ヶ岡養生園の一角で私立北里研究所を立ち上げた。翌年、慶應義塾で行った演説では、これまでの研究方針と異なる人の下では仕事を続けられないと、自らの判断を説明している。
新たな研究所を支えたのは、北里の名声だけではなかった。福澤は養生園の開設を助け、その経営には事務主任の田端重晟(たばた・しげあき)も携わった。慶應義塾の歴史記事によれば、養生園が蓄えていた資金が独立の基盤になった。所長の決断を実行できた背景には、長年の施設運営と、そこに関わった人々がいた。
翌1915年、新しい研究所の建物が完成した。12月11日の開所式は、五年前に亡くなった恩師コッホの誕生日に行われた。
医学を教え、医師をつなぐ
北里は研究所を再建した後も、研究と医学の教育・社会活動に関わり続けた。1916年には郷里の小国に北里文庫を寄贈し、翌1917年には慶應義塾大学医学科の創設に関わって初代医学科長となった。学生が医学を学び、医師が研究を続けるための組織は、北里がドイツから帰った時から取り組んできた課題でもあった。
1916年には大日本医師会の初代会長に、1923年には改めて設立された日本医師会の初代会長に就いた。医師という専門職が集まり、医療や公衆衛生に関わるための組織づくりにも、北里は活動の場を広げている。
医学界での役割が続く一方、1926年には妻の乕が亡くなった。二人が結婚したのは、北里が内務省衛生局に入った1883年のことである。
北里は1931年6月13日、東京の自邸で脳溢血により亡くなった。78歳だった。その時も、1914年につくった北里研究所の初代所長の職にあった。
北里が破傷風菌の純粋培養に成功したのは、ベルリンの研究室にいた36歳の時だった。帰国後は、六つの部屋しかない研究所に住み込み、患者を診る場所をつくり、そこで働く人を育てた。61歳で国の研究所を離れる時には、福澤らと築いてきた療養施設の蓄えが次の出発を支えた。細菌を扱う実験の成果と、実験を続けられる場所をつくる仕事。その両方が北里の生涯を占めていた。



