一人の人生を読む
建築家になるとは思っていなかった少年
丹下健三は1913年、大阪に生まれた。幼少期を中国・上海や愛媛県今治などで過ごし、のちに広島の旧制高校へ進む。世界的な建築家として知られる後年から見ると一直線の進路に見えるが、少年時代から建築家を目指していたわけではない。
転機の一つになったのが、スイス生まれの建築家ル・コルビュジエの作品との出会いだった。近代的な材料と構造を使いながら、建物だけでなく都市そのものを構想する仕事に惹かれ、1935年、東京帝国大学の建築学科へ進学する。
1938年に卒業すると、ル・コルビュジエのもとで学んだ前川國男の事務所に入った。ここで近代建築の実務に触れる一方、戦争が広がる時代に建築家として働き始めることになる。1941年には大学院へ戻り、都市についての研究を深めた。
丹下の初期には、戦時下の国家的な設計競技への参加もある。戦後の公共建築だけを見ていると見えにくいが、彼の建築家人生は戦前と戦後をまたいでいる。日本社会の制度も、建築に求められる役割も大きく変わるなかで、同じ人物が設計を続けた。
焼け跡の広島で、都市の軸を引く
1945年、広島は原子爆弾によって壊滅的な被害を受けた。翌1946年、丹下は東京大学助教授となり、研究室を率いながら戦後の都市と公共建築に向き合っていく。
1949年、広島市は平和記念公園と記念館の設計案を公募した。5月20日から7月20日までの募集に145点が集まり、丹下健三グループの案が1等に選ばれた。
その案の特徴は、一つの記念館を置くだけではなかった。平和大通りと並行して資料館を配置し、そこから慰霊施設を経て原爆ドームへ視線が抜ける南北の軸をつくった。かつて繁華街だった中島地区を、記憶のための公共空間として都市の中に位置づけ直す計画だった。
計画が決まれば、すぐ完成するわけではない。戦後の物価高、予算不足、公園予定地で暮らしていた人々の立ち退きなど、復興には現実の問題が重なっていた。建築は図面だけで成立せず、制度、予算、土地、そこで暮らす人々の時間の中で形になる。丹下の仕事は、この規模の現実と早くから結びついた。
コンクリートで「日本らしさ」をつくる
戦後の丹下が直面した課題の一つは、近代建築と日本の伝統をどう結びつけるかだった。寺社の屋根や装飾をそのままコンクリートで再現するだけなら、近代技術は古い形の衣装になる。
丹下が試みたのは、伝統建築の構成や比例、柱と梁がつくる秩序、内外を連続させる空間感覚を、現代の構造と材料で組み直すことだった。1958年竣工の香川県庁舎では、鉄筋コンクリートの柱と梁を明快に見せながら、庁舎の一階や庭を市民へ開いた。行政の建物を閉じた箱ではなく、都市の公共空間として扱ったのである。
この庁舎は半世紀以上使われ、2022年には旧本館と東館が国の重要文化財に指定された。建築家の評価が図面や写真の中だけで残ったのではなく、現役の公共施設として使われながら文化財になった。
東京を「中心」から解放する
1950年代の東京は人口が急増し、交通も住宅も既存の中心部へ集中していた。丹下は1959年、大都市の空間構造を人々の移動から捉えた研究で博士号を取得する。そして翌1960年、「東京計画1960」を発表した。
提案は、東京を一つの中心の周囲に広がる都市として考えるのをやめ、東京湾の上へ長い都市軸を延ばすものだった。橋、人工島、交通網、大規模な建築を一体化し、都市そのものが成長と変化を受け止める構造を持つという構想である。
この計画がそのまま建設されたわけではない。それでも世界的な注目を集めたのは、建築家が一棟の建物だけでなく、人口、交通、情報、土地という都市の仕組みそのものを設計対象にしたからだった。同時期の若い建築家たちが展開したメタボリズムとも響き合い、日本の建築・都市論を国際的な議論へ押し出した。
1964年、屋根そのものが都市の風景になる
東京計画の巨大さに対して、1964年の国立代々木競技場は実際の構造物として丹下の考えを示した。東京オリンピックの水泳・バスケットボール会場として建てられた第一・第二体育館である。
第一体育館では、大きな柱を内部に林立させる代わりに、主要な柱とケーブルから屋根を吊る。構造家の坪井善勝、設備の井上宇市らとの協働によって、構造・設備・建築の形が別々ではなく一つの空間として組み立てられた。
外から見ると、屋根は地面から持ち上がり、渦を巻くように大きく弧を描く。内部では観客席を覆う巨大な空間が連続する。近代的な吊り構造でありながら、その重なりや軒のような輪郭には日本の大規模木造建築を思わせる感覚もある。
建築は技術だけでも、形だけでもない。人が集まる公共空間を成立させるために、構造、動線、都市景観を一つにする。この競技場は、その仕事が最も明瞭に見える丹下の代表作となった。
一人の建築家ではなく、研究室という仕組み
丹下の影響を考えるとき、完成した建物だけを見ると半分しか見えない。1946年から東京大学で率いた丹下研究室には、のちに独自の仕事を築く槇文彦、磯崎新、黒川紀章らが関わった。
研究室では建築と都市計画が切り離されず、大規模な調査、模型、図面、議論を複数人で進めた。丹下自身の名前で知られる仕事も、構造家、設備技術者、研究者、若い建築家との協働によって成立している。
1960年代以降、丹下の活動範囲は海外へ広がった。大学を離れた後も設計組織を率い、アジア、ヨーロッパ、アフリカ、中東、アメリカで建築や都市計画を手がけた。個人の作家性と、大人数で巨大な仕事を動かす組織の力。その両方を持つことが、丹下の特徴だった。
「世界のTANGE」のあとに残ったもの
1987年、丹下は日本人として初めてプリツカー賞を受賞した。審査側は、建築家・都市計画家としてだけでなく、教師、著述家、研究者としての幅広い活動も評価した。戦後の日本建築を国際的な舞台へつなげた人物として、その位置はすでに確立していた。
1991年には新宿の東京都庁舎が竣工する。広島の低く水平な資料館から、東京湾上の未完の都市計画、代々木の吊り屋根、そして超高層庁舎へ。作品の形は一つの様式には収まらない。
それでも繰り返される問いはある。新しい技術をどう人間の空間にするか。伝統を過去の形のコピーではなく、現在の創造へどう働かせるか。建物を都市や社会から切り離さずにどう考えるか。
2005年、丹下は91歳で亡くなった。その後も広島平和記念資料館、香川県庁舎、国立代々木競技場などは使われ続け、保存や文化財指定の対象になっている。未来を描くためにつくられた建築が、いまでは戦後日本そのものを伝える歴史になりつつある。
丹下健三の仕事をたどると、建築家の役割が建物の外形を決めることだけではなかった時代が見えてくる。都市の記憶、公共性、技術、教育、組織までを一つの設計課題として引き受ける。その大きさこそが、彼が次の世代へ残した最も扱いの難しい遺産なのかもしれない。



