一人の人生を読む
設計図の前に、地面に杭を立てる
1980年代、埼玉県入間市の学校づくりで、クリストファー・アレグザンダーたちは建物の位置を決めるために敷地へ杭を立てた。図面の上なら、校舎を動かすのは簡単だ。けれども、実際の土地ではそうはいかない。建物がここに立ったら、その隣にはどんな広場ができるか。歩く人はどこを通るか。学校の教職員らが場所を確かめられるよう、模型も並行してつくり替えていった。
この手間のかかる進め方を率いたのは、かつて数学を学び、建築の形を厳密に説明しようとしてきた男だった。クリストファー・アレグザンダー。建築家であり、理論家であり、『パタン・ランゲージ』という本で広く知られる人物である。
建築家は建物の形を考える。それは確かだ。しかし、そこに暮らす人々が何を必要とするかを、建築家がどこまで知ることができるのか。アレグザンダーは、その難しさを設計のやり方そのものに持ち込んだ。
数学から、建築の形を考える
1936年、アレグザンダーはオーストリアのウィーンに生まれた。父フェルディナントと母リリーは、ともに古代の歴史や文化を研究する考古学者だった。2歳になるころ、ナチス・ドイツがオーストリアを併合し、一家はイギリスへ移住する。ウィーンで生まれた彼が育ったのは、その後のイギリスだった。
イギリスで学校に通った彼は、やがてケンブリッジ大学へ進んだ。父は数学を学ぶことを勧めていたという。アレグザンダーは数学と建築の双方に取り組み、アメリカへ渡ってハーバード大学で建築の博士号を取得する。1963年、26歳でカリフォルニア大学バークレー校の教員になった。
当時、建築では新しい材料や技術を使い、都市や建物を大きな計画としてつくる方法が力を持っていた。けれども、建物は使い始めてから長い時間、人の暮らしと接する。何を整えれば、そこで過ごす時間は心地よくなるのか。アレグザンダーは、建築家の好みや流行だけで答えることに納得しなかった。
1964年に発表した『形の合成に関するノート』では、設計で解かなければならない多くの条件を、どう整理し、どう結びつけるかを考えた。彼がこの時期に試みたのは、設計を建築家の勘だけに任せず、条件同士の関係を捉える方法をつくることだった。
住む人の手元へ、設計を返す
研究を進めるうちに、アレグザンダーは一つの形を設計図で完成させるより、繰り返し現れる「よい関係」を見つけて、他人も使える形で書き残そうとした。それが「パタン」である。
例えば、建物の外に座って過ごせる場所をつくること、窓から人の気配が見えること。こうした考えは、決まった外観を押しつけるものではない。何が必要なのか、それを実現するには空間同士をどう結びつけるのかを、具体的に示す。庭、玄関、通り、室内といった異なる大きさのものをつなぎ合わせ、実際の設計で選べるようにする。
1977年、サラ・イシカワ、マレー・シルヴァースタインらとの共同執筆で、『パタン・ランゲージ』が刊行された。253のパタンを収めた厚い本である。書いたのはアレグザンダー一人ではない。長年の調査と試行を、協力者たちが一緒に言葉へ変えた成果だった。
その前から、彼は設計する相手の暮らしを、自分たちの仕事のなかへ取り入れようとしていた。1969年、ペルーのリマで住宅計画に取り組んだとき、チームは地域の家庭に滞在し、実際の生活を調べた。どの部屋でどんな行動をするのか。家の外ではどう過ごすのか。図面を描く前に、そうした経験に近づこうとしたのである。
1975年から翌年にかけては、メキシコのメヒカリで住宅づくりに取り組んだ。入居する家族も敷地で家の位置を決め、建設に参加した。家を必要とする人は、図面を渡されるだけの依頼者ではなかった。
もっとも、住む人が参加すれば必ず理想の建築が生まれるわけではない。大学の施設を利用者の声を聞きながら少しずつ育てようとしたオレゴン大学の試みについては、後年、組織の仕組みや事業の都合が参加型の計画を弱めていったと報じられた。暮らしに合わせて環境を変えるには、設計者の努力だけでなく、それを認め続ける制度も必要になる。
調和を求める人が、他の建築家とぶつかる
1982年11月18日、アレグザンダーは、かつて博士号を取ったハーバード大学の建築大学院で、建築家ピーター・アイゼンマンと討論した。前日に行ったアレグザンダーの講演を受け、二人は建築が人に何をもたらすべきかを争った。討論の内容は編集され、翌年、大学院の刊行物に載った。
アレグザンダーが追い求めていたのは、人がその場所にいると落ち着き、建物の部分同士がしっくり結びつくような調和だった。一方のアイゼンマンは、そこに違和感や緊張を持ち込む建築の可能性を重く見ていた。何を「よい建築」と呼ぶのか、二人の出発点は離れていた。
住民や学校の利用者の声を設計に取り入れながら、何をよい建築と呼ぶかについては、自分の考えを強く主張した。その姿勢は協働の現場を支える一方、ほかの建築家との対立も生んだ。
埼玉で建った学校、建たなかった大学
同じ1982年ごろ、アレグザンダーの仕事は日本の埼玉へ向かっていた。入間市の盈進学園で、学校の新しいキャンパスを計画することになったのである。中心となったのはアレグザンダーだけではない。設計チームにはハンス=ヨアヒム・ナイスやゲイリー・ブラックらが加わり、教職員や学校関係者が話し合いに参加した。
彼らはまず、その学校にどんな場が必要かを聞き取った。授業のための部屋、集まる場所、校舎と校舎をつなぐ通り。得られた希望や条件を、学校のための「パタン」にまとめていく。1983年の設計資料には、この学校固有の110のパタンが収められている。
そこでようやく、冒頭の敷地で杭を立てる作業が始まる。建物の角を地面に示し、外にできる空間を歩いて考える。現場の配置と事務所の模型を行き来する。アレグザンダーたちが望んだのは、最初に大きな完成図を決めて、現場をそれに従わせる方法とは異なるつくり方だった。
学校の施設は実際に建てられた。最初の大きな部分は1985年に完成し、その後にも建物が加わった。校舎だけでなく、校舎の間の道や、集まるための空間も、設計で重視された。
ただし、はじめに考えた計画が、すべて建ったのではない。高校に加えて大学施設も備える構想があり、そのための設計も進められた。しかし独立した大学施設の大部分は実現せず、大学用に構想した建物の一部が高校側へ組み込まれた。建てられた学校は彼らの実験の確かな成果だが、当初の全体像が完成した証拠ではない。
理論は本に書けば残る。建物は、土地を取得し、費用を用意し、学校を運営する人たちと折り合い、材料を運び、工事を終えなければ残らない。アレグザンダーにとって日本の学校は、設計の考えを実際の場所へ持ち出した大きな仕事であり、その仕事にも建てられなかった部分があった。
建築の外へ広がっていく言葉
アレグザンダーは大学で教える一方、小さな設計組織を通じて仕事を続けた。住宅や学校だけでなく、家具をつくり、色を塗り、タイルの模様にも関わった。1990年代にはイギリスのウエスト・サセックスで、庭園を訪れる人のための施設を手がけている。
1996年、アレグザンダーはソフトウェア開発者の会議で講演した。会場に集まった人たちが普段何をしているのか、自分はほとんど知らない。彼はそんな前置きから話し始めた。数年前からコンピューター関係者の電話を受け、自分の仕事が別の分野で使われていると知ったという。仲間とともに家や町のために書いた「パタン」を、プログラムの設計者たちが自分の仕事へ取り入れていた。
建築家として培った考えが、彼自身にはなじみの薄い仕事の言葉になっていた。設計の方法を他人と共有するために書かれた本は、書き手の想定を超えて読まれていた。
「よさ」を言い切ることの難しさ
1998年にバークレー校の名誉教授となったあとも、アレグザンダーの探究は終わらなかった。2002年から2004年にかけて刊行された全4巻の『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー』では、建築だけでなく自然の形にも、共通する「生き生きとした秩序」があると考えた。そこには、人の感じる美しさを単なる気分として終わらせたくない、長年の思いが見える。
しかし、建物のよさに共通の基準があるとまで言い切れば、反論も強くなる。建築評論家ウィリアム・サンダースは、その著作の主張に矛盾や根拠の弱さがあると厳しく批判した。アイゼンマンとの対立も、昔の一度きりの出来事として忘れられたわけではなかった。
晩年のアレグザンダーは、建物をつくることが、人間の生や宗教的な意味とどうつながるかまで自らの言葉で語るようになった。数学を使って形を整理しようとした若いころから、扱う問いはずいぶん広がっていた。だが、どちらにも、どうしてある場所は人に深く働きかけ、別の場所はそうならないのかを知りたいという問いがあった。
家庭では、1980年に結婚した歌手パメラ・パトリックとの間に、娘のリリーとソフィーが生まれた。その結婚は2007年に終わり、翌年、アレグザンダーはマギー・ムーアと再婚した。2012年にはムーア、盈進学園でともに働いたハンス=ヨアヒム・ナイスとの共著で、同校の建設過程を振り返る本を刊行している。
2022年3月17日、85歳で亡くなった。
アレグザンダーは、よい環境が偶然ではなくつくれることを信じ、その方法を本にし、家にし、学校にしようとした。住む人と一緒に現場へ立ちながら、同時に、美しさには確かな秩序があると言い続けた。
埼玉に建った校舎と、建てられなかった大学の計画。その両方が残っている。地面に杭を立てる作業を重ねても、建築家は場所の未来を一人で決められるわけではない。彼が生涯かけて考えたことは、その現実のなかで試され続けた。




