一人の人生を読む
時計の町で、建築へ向かった
1887年10月6日、シャルル=エドゥアール・ジャンヌレはスイスのラ・ショー=ド=フォンに生まれた。父ジョルジュ=エドゥアールは時計の文字盤を装飾するエナメル職人、母マリー=シャルロットはピアノ教師だった。町そのものが時計産業で知られ、家の中にも手仕事と音楽があった。
12歳で地元の美術学校へ入り、当初は彫金や装飾を学んだ。転機になったのは教師シャルル・レプラトニエとの出会いである。1905年、レプラトニエは17歳のジャンヌレを建築へ向かわせた。最初期の住宅ヴィラ・ファレの仕事にも加わり、その報酬はやがて旅の資金になった。
1907年から1911年にかけて、ジャンヌレはヨーロッパ各地を歩いた。旅先では手紙を書き、ノートに建物や風景を描いた。学校の講義室だけではなく、実際の建物と都市を見て回ることが、20代前半の彼にとって大きな建築教育になった。
建築だけをしていた人ではない
1917年、パリに移ったジャンヌレは画家アメデ・オザンファンと活動し、ピュリスムを展開した。建築家として知られるようになった後も、絵を描くことは脇仕事にはならなかった。ル・コルビュジエ財団は、1917年から1965年までに450点を超える油彩を残し、日々かなりの時間を絵画に使っていたと記録している。
1920年代には「ル・コルビュジエ」という名が定着していく。1923年に『建築をめざして』を刊行し、翌年にはパリのセーヴル通り35番地に事務所を開いた。住宅、都市計画、雑誌、講演、絵画を並行して進める生活がここから長く続く。1925年の「ヴォワザン計画」では、パリ中心部を大規模に建て替える都市像まで提示した。
1928年には近代建築国際会議(CIAM)の設立に関わり、同じ頃、サヴォワ家からポワシーの住宅を依頼される。後にヴィラ・サヴォワとして知られる住宅は、ピロティ、自由な平面、水平連続窓など、彼が整理した近代建築の原則を目に見える形にした。
仕事場と家庭が同じ建物に入る
私生活では1922年にイヴォンヌ・ガリと出会い、1930年12月18日に結婚した。1934年から二人が暮らしたのが、ブローニュ=ビヤンクールのナンジェセール=エ=コリ通り24番地に自ら設計したアパルトマン兼アトリエである。
そこには夫婦の住居だけでなく、家政婦と犬パンソーの場所があり、さらにル・コルビュジエが絵を描き、文章を書く空間が組み込まれていた。1934年5月、二人は母マリー=シャルロットへの手紙で、新居を空と光、空間と単純さに満ちた住まいとして喜んでいる。大きな都市計画を論じる一方で、日々の生活は、住むことと描くことと書くことが一つの建物の中で隣り合っていた。
1929年の世界恐慌は、建築家としての仕事にも影響した。国際的な知名度は上がっていたが、1930年代には建設そのものが減り、計画が実現しない時期も続いた。講演や旅行、執筆、絵画を続けながら、建てられない計画も抱えていた。
ヴィシーで権力に近づこうとした十八か月
1940年、フランスがドイツに敗れると、ル・コルビュジエはヴィシー政権のもとで自らの都市計画を実行する機会を求めた。1941年1月にはヴィシーへ移り、政府機関に働きかけ、復興や都市計画に関わる権限を得ようとした。 ル・コルビュジエ財団の公式伝記も、彼が当初ペタンの「国民革命」に可能性を見ていたことを記している。実際には大きな権限を任されることはなく、失業対策機関での一時的な任務などにとどまった。1942年7月、彼はヴィシーを離れ、パリへ戻った。
戦後、この経歴が消えるわけではない。その一方で、1940年代後半から彼の建築は再び大きく動き始める。マルセイユのユニテ・ダビタシオンでは、個人の住戸と共同施設を巨大な集合住宅の中で組み合わせた。人体寸法を基準にした比例体系「モデュロール」もこの時期に展開される。やがてロンシャンの礼拝堂、ラ・トゥーレット修道院、インドのチャンディーガル、東京の国立西洋美術館へと仕事の範囲は広がった。
現在、ユネスコ世界遺産「ル・コルビュジエの建築作品」は七か国17資産で構成されている。彼が半世紀にわたってつくった建築は、一つの様式に収まらない。白い幾何学的な住宅、粗いコンクリートの集合住宅、厚い壁と曲面をもつ礼拝堂、インドの強い日射に応答する巨大な公共建築へと変化していった。
妻の死後、二人の墓を設計する
1957年10月5日、イヴォンヌが亡くなった。二人は1934年以来、ナンジェセール=エ=コリ通りのアパルトマンで暮らし、夏には地中海沿岸のロクブリュヌ=カップ=マルタンにある小さな「カバノン」で過ごしていた。
翌1958年、70歳のル・コルビュジエは、ロクブリュヌの墓地に二人のための墓をつくり始める。3月25日に4平方メートルの区画を確保し、5月には図面と手紙で形を詰めていった。5月22日、友人の大工シャルル・バルベリスに宛てた手紙では、緑に囲まれた単純な板状の墓に突出部を設け、そこへ妻の骨壺を納め、いずれ自分も入る可能性を書いている。
墓は大げさな記念碑ではない。コンクリートの板、骨壺を納める突出部、植物を置くための空洞、色のついた琺瑯板。建築家としての晩年の仕事の一つが、亡くなった妻と自分の身体を置くための、ごく小さな場所になった。
最後まで、仕事と泳ぎを続ける
1960年には母が亡くなった。70代に入ってもル・コルビュジエは各地を移動し、設計し、書き、過去の仕事を整理した。自分の図面や資料を残すための財団構想も具体化していく。大規模な仕事を続ける一方、夏にはロクブリュヌのカバノンへ戻った。
1965年8月、医師はロクブリュヌへ行くことに反対していたが、ル・コルビュジエは地中海へ向かった。8月27日、いつものように海へ泳ぎに出て、心臓発作で亡くなった。77歳だった。
その後、遺体はラ・トゥーレット修道院を経てパリへ運ばれ、9月1日にルーヴル宮のクール・カレで国葬が行われた。最終的に彼が戻ったのは、巨大な都市計画でも国家的な建築でもない。1958年にイヴォンヌのためにつくり始め、自分の場所もあらかじめ考えていたロクブリュヌの小さな墓だった。



