一人の人生を読む
ベルリンを離れた18歳
ハンス・ユルゲン・アイゼンクは1916年、ベルリンに生まれた。両親は舞台や映画に関わる芸能人だった。10代の終わりにドイツではナチ党が権力を握り、社会の条件が急速に変わっていく。
1934年、18歳のアイゼンクはドイツを離れた。後年の本人は、ヒトラーとナチズムへの反対が決定的だったと振り返っている。フランスを経てイギリスへ移り、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジで心理学を学んだ。
そこで彼が身につけたのは、人の心を直観だけで説明するより、測定し、数値の関係を調べる方法だった。指導者の一人は、知能研究と因子分析で知られたシリル・バートである。1938年に学士号を取り、1940年には美的判断の個人差を扱った研究で博士号を取得した。
戦争の病院で、人を測る
ドイツ出身だったため、第二次世界大戦初期のイギリスでは「敵国人」として扱われる危険もあった。それでも1942年、アイゼンクはロンドン郊外のミル・ヒル緊急病院で研究心理学者として働き始める。ここは戦時中に移転していたモーズリー病院の機能を担い、精神的な問題を抱える軍人らも治療していた。
戦後、彼はモーズリー病院と新設された精神医学研究所で心理学部門を率いるようになる。1955年には心理学教授となり、1983年までそこを研究拠点とした。
当時の精神医学では、患者の症状や性格を臨床家の経験と言葉で記述することが多かった。アイゼンクはそこへ、質問紙、実験、統計を持ち込んだ。臨床の場にいたことと、測定への執着は別々の経歴ではなかった。
「内向的」「外向的」を一本の物差しにする
日常語では、人を「内向的な人」「外向的な人」と二種類に分けがちである。アイゼンクはそれを、どちらか一方に所属する分類ではなく、程度の違いとして測ろうとした。
1947年の『人格の次元(Dimensions of Personality)』では、外向性―内向性と神経症傾向を人格の大きな次元として扱った。後には精神病傾向を加えた三次元モデルへ発展する。妻で心理学者のシビル・アイゼンクとも協力し、モーズリー人格目録、アイゼンク人格目録、アイゼンク人格質問紙などの尺度を作った。
この発想の重要な点は、性格を一つの「型」に閉じ込めないことにある。ある人が外向性では高く、神経症傾向では低いというように、複数の軸上の位置として表現できる。現在の人格心理学はアイゼンクのモデルそのものだけで説明されているわけではないが、人格を測定可能な次元として研究する流れに大きな影響を残した。
治療は、本当に効いているのか
アイゼンクは精神分析にも強い疑問を向けた。1952年、精神療法を受けた患者と受けなかった患者の改善を比較した論文を発表し、当時広く行われていた治療に、期待されるほどの効果が示されていないと論じた。
この結論や分析方法そのものは、その後多くの研究者から批判され、精神療法研究も大きく進歩した。それでも「治療者が効いたと思う」ことと「データから効果を示す」ことを分けて問う姿勢は、臨床心理学に重要な課題を突きつけた。
アイゼンクは学習理論を利用した行動療法を支持し、精神医学研究所はイギリスにおける行動療法研究の重要な拠点の一つになった。人の性格を測る仕事と、治療の結果を測る仕事には、同じ発想が流れていた。
数字が社会問題へ踏み込むとき
測定への信頼は、アイゼンクを激しい社会的論争にも連れていった。1971年には人種集団間の知能検査得点差と遺伝の可能性を論じた著作を刊行した。知能検査が何を測るのか、環境と遺伝をどう切り分けるのか、人種カテゴリーをどう扱うのかという問題を含み、彼の主張は科学的にも社会的にも強い批判を受けた。
ここでは「数値がある」ことと「その数値の原因が分かった」ことは同じではない。人格研究で強力だった測定と統計も、複雑な歴史・社会・教育条件を含む問題へ適用するときには、何を比較し、何を原因とみなすかという別の難しさを抱える。
アイゼンクは論争を避ける研究者ではなかった。精神分析、知能、犯罪、占星術、喫煙など、専門家の意見が割れる問題にも繰り返し踏み込んだ。その多産さと論争性の両方が、20世紀心理学における彼の巨大な存在感を作った。
晩年の研究に残った、もっと重い問題
1980〜90年代、アイゼンクはロナルド・グロッサルト=マティチェクとともに、人格やストレスと、がん・心臓病などの死亡リスクとの関係を研究した。そこでは特定の人格が疾病リスクを大きく左右し、心理的介入によって死亡リスクを大幅に下げられるという非常に大きな効果が報告された。
アイゼンクの死後、この研究群の信頼性は深刻な再検討を受けた。2019年、かつて彼が所属したキングス・カレッジ・ロンドンの調査委員会は、両者が共著した関連論文のうち26報について、データの収集・選択や結果の異例な大きさなどへの懸念から、結果を「安全とはみなせない」と判断した。2025年の大学の更新声明は、同じデータに依存する他の出版物も同様に扱うべきだとしている。
これはアイゼンクの全研究を一括して無効にする判断ではない。人格の次元モデル、心理測定、行動療法など、別の研究領域はそれぞれの証拠によって評価する必要がある。一方で、著名な研究者の結果であっても、後から検証され、問題があれば科学記録が修正されることもまた科学の一部である。
測ることと、疑うこと
1997年9月4日、アイゼンクはロンドンで81歳で死去した。生涯に多数の論文と書籍を書き、死のころには心理学で最も頻繁に引用される研究者の一人だった。
彼の仕事を貫いたのは、心についての主張を測定へ変えようとする姿勢だった。性格を質問紙の得点にし、治療を改善率で比べ、知能や健康にも統計を持ち込んだ。その方法は心理学を実証科学へ近づける力になった一方、測定された数字をどう解釈するかという問題を消してはくれなかった。
そして死後、彼自身の研究結果も同じ問いにさらされた。データはどのように集められたのか。結果は再現できるのか。数字が示している以上のことを語っていないか。
アイゼンクの生涯には、測ることの力と、その測定自体を疑い続ける必要の両方が残っている。




