Hegelroom / Biography

ジョン・デューイ

若い頃のジョン・デューイの肖像写真。口ひげを蓄え、スーツを着ている
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02 / Profile

ジョン・デューイとは?

15人の子どもと始めた実験学校を、哲学者デューイはやがて去ることになった。教室から中国の講演会、晩年の政治的審問へ。学びと民主主義を、人がともに行う仕事として考え続けた92年。

03 / Life

一人の人生を読む

15人の子どもが集まる家

1896年、シカゴの57番街にあった小さな家で、一つの学校が始まった。子どもは15人。開設から3年後、哲学者ジョン・デューイは、学校の歩みを講演で振り返り、この最初の場所と人数を挙げている。翌年には25人になり、広い場所へ移ると40人を迎えられるようになった。

デューイが試したかったのは、教科書の説明を聞くだけで終わらない授業だった。木綿や羊毛を手に取り、布が作られる過程をたどる。調理や工作から、人々の暮らしや技術の歴史を知る。手を動かすことと考えることを切り離さず、子ども自身の疑問を学問につなげようとした。

大学の哲学者が、なぜわざわざ小学校を作ったのか。そこには、長く考え続けてきた問いと、家庭や都市で見た生活があった。そして、この学校が大きくなったとき、デューイは自分の作った教育の場を手放すことになる。

本の中の哲学から、暮らしの中の問題へ

ジョン・デューイは1859年、アメリカ北東部のバーモント州バーリントンに生まれた。父アーチボルドは商人、母ルシーナは信仰を大切にする人だった。幼い頃から宗教に触れ、地元の学校とバーモント大学で学ぶ。卒業してすぐに哲学者になったわけではない。ペンシルベニア州で高校の教師を務めてから、研究の道を選んだ。

ジョンズ・ホプキンズ大学では、ヘーゲルの哲学、進化論、実験心理学などに向き合い、1884年に博士号を取る。人間の心と身体、個人と社会を別々の箱へ分けてしまう考え方に、彼は不満を抱いていた。

ミシガン大学で教えていた1886年、デューイはアリス・チップマンと結婚した。アリスには教師として働いた経験があり、女性の権利や社会の問題にも強い関心があった。のちに娘のジェーンは、母との交流によって、父にとって社会の問題が抽象的な議論ではなく人間の生活に関わる問題になった、と振り返っている。アリス自身も、デューイとともに教育を実際の仕事へ移していく人になった。

1894年、デューイは新しいシカゴ大学へ移る。シカゴは、工場や鉄道が伸び、移民が増え、労働者と企業が激しく衝突する都市だった。彼が着いた年には、大規模な鉄道ストライキが起きている。教室で何を教えるかという問題は、そこで育つ子どもたちが、どんな社会に入っていくのかという問題でもあった。

学校を作るということ

1896年に始まったシカゴ大学の実験学校は、子どもの活動を授業の中心に置こうとした。だが、子どもが好きなことを自由にしていればよいという考えではない。教師は生活の中から学習に値する課題を探し、材料や道具を用意し、子どもの経験が次の問いへつながるよう授業を組み立てた。何かを作る作業から、歴史、科学、算数、ことばへと入っていく。

デューイが学校について書いた『学校と社会』には、活動の意味をどう授業へ変えるかという細かな関心が残っている。教育を社会から隔てた準備期間ではなく、子どもが他者と一緒に暮らす現在の営みとして扱いたかったのだろう。

ただし、理想が学校の中でそのまま実現したわけではない。実験学校は小規模で、通っていた子どもたちも主に中産階級の家庭から来ていた。社会全体の学校制度を変える実証実験として見るなら、その条件には限界がある。

夫妻には6人の実子が生まれ、養子も迎えた。幼い息子モリスは1895年、旅行先のイタリアでジフテリアにより亡くなった。のちには別の息子ゴードンも幼くして失う。1896年の学校開設に先立って、デューイ自身の家庭でも、子どもを育てる日々と喪失が重なっていた。

アリスは校長として学校運営の判断も担った。教師、保護者、大学当局、子どもたち。学校が大きくなるほど、デューイの構想は多くの人の仕事と利害に結びついていった。

自分の学校を去る

1904年の春、シカゴで続けていた実験は大きな転機を迎えた。学校の運営や統合をめぐって大学当局との摩擦が強まり、4月にはアリスが校長を辞任する。デューイ自身も大学を辞職した。

アリスの辞任とデューイ自身の辞職は続けて起こった。当時の書簡を調べた研究は、学校運営の自治についてデューイ自身が抱えていた不満も指摘している。夫妻の辞職には、大学と学校の関係をめぐる複数の問題が絡んでいた。

デューイが作り上げたのは、大学の資金や組織と無関係な小さな共同体ではなかった。学校で何を試せるのかという教育者の判断と、学校をどう管理するかという大学の判断は、同じ場所で衝突した。子どもたちが協力して学ぶ授業を考えてきた人が、大人同士の協力を維持できないまま、その現場を離れたのである。

彼は1904年にニューヨークのコロンビア大学へ移る。シカゴでの学校運営を取り戻すことはなかった。以後は大学で教え、書き、各地で講演し、学校の外から教育と社会の問題に関わっていく。

教室の外で、民主主義を考える

ニューヨークで大学教授となったデューイにも、家計や住まいの問題があった。伝記には、給与の引き上げを求め、追加の授業を引き受け、住まいを幾度も移したことが記されている。論文を書く時間も、家族と生活する場所も、最初から保証されたものではなかった。

1916年、彼は『民主主義と教育』を刊行する。民主主義は選挙の制度だけではない。異なる経験を持つ人間が、知識や目的を共有し、社会の生活を作り直していくことにも関わる。そのため教育は、既存の知識を次の世代へ渡すだけでは足りない。人々が一緒に考え、判断する力を育てる仕事になる。

その考えが、別の言語と社会の中でどのように届くのか。1919年、デューイは妻アリスと日本を訪れ、その後中国へ渡った。中国では、かつてコロンビア大学で学んだ胡適らが講演を支えた。デューイは話し方の巧みな講演者ではなく、ことばを選びながらゆっくり話す教師として記憶されている。多くの聴衆にとって、講演を理解する手掛かりは胡適らの中国語への通訳だった。

デューイの中国滞在は、北京の学生たちによる五四運動が始まった時期と重なる。胡適たちは、自分たちの社会で何を論じるかを選び、講演を企画し、翻訳した。デューイも、その場で学生運動や国の政治の変化を見聞きし、講義と執筆を続けた。滞在は2年以上に及んだ。

シカゴで学校の運営を他者とともに担ったときとは別の形で、デューイの仕事は、講演を企画し、翻訳する人々を通じて遠くの聴衆へ届いた。

退職しても、問いをやめない

1927年、長年の協働者だったアリスが亡くなった。デューイは1930年にコロンビア大学を退職する。そのとき彼は70歳を超えていたが、公の場から身を引いたわけではない。

1937年、78歳になる年のデューイは、ソビエト連邦のスターリン政権がレフ・トロツキーに向けた容疑を調べる委員会の議長を引き受け、メキシコでの聴聞に参加した。4月の聴聞では、亡命中のトロツキーから証言を聞く側に座った。教室で人がどう学び、判断するかを考えてきたデューイは、退職後には政治的な告発を調べる立場にも立った。

その翌年、デューイは『経験と教育』を出版する。彼の名前と結びついて広まった進歩主義教育に対して、何かを経験させさえすれば教育になるわけではない、と書いた。子どもの興味に従うだけなら、次の成長につながらない経験もある。だから教師には、経験の質を見きわめ、学びを組織する責任がある。

シカゴで「何を経験させるか」を具体的に考えていたデューイは、晩年には経験のよしあしを区別する教師の責任を、いっそうはっきり言葉にした。学校を去った後も彼の名を掲げる教育運動は広がったが、経験を重んじることと、子どもを放任することは同じではなかった。

1946年、デューイはロバータ・グラントと再婚した。晩年には入院や療養の記録も残る。それでも著述と社会への関心は続き、1952年6月1日、ニューヨークで92年の生涯を閉じた。

デューイの死後も、その名前は学校教育をめぐる賛否の中で呼ばれ続けた。新しい教育の可能性を示した人として称えられる一方、基礎学力の軽視を招いたという批判も受けた。彼自身がすでに1938年に経験の質を問う必要を説いていたことを思えば、その評判には皮肉もある。

57番街の小さな家で始まった学校は、とうに彼の手を離れている。しかし、そこで問われた「人は、他者とともにどう学ぶのか」という問題は、デューイが何度も場所を変え、教師や市民や調査委員として働き続けた生涯を通して、容易には終わらなかった。

07 / Read more

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