一人の人生を読む
夜の補給地点
1918年7月8日の夜、イタリア北部のピアーヴェ川近くにいたアーネスト・ヘミングウェイ(Ernest Hemingway)は、まだ18歳だった。米国赤十字の要員として前線近くに入り、兵士たちへコーヒーやチョコレート、煙草、葉書を届ける仕事をしていた。補給品を運ぶのには自転車を使っていたという。彼は兵士として銃を持って戦っていたわけではない。
その夜、近くに迫撃砲弾が落ちた。イタリア兵が死亡し、ヘミングウェイ自身も多数の金属片を浴びて重傷を負った。ミラノの赤十字病院に運ばれ、戦争の残りの期間の多くを療養に費やすことになる。
危険を避けるどころか、ヘミングウェイ自身が前線に近い仕事を希望していた。病院での長い療養を終えた後も、彼は戦争を見に行くこと、そしてそれを文章にすることを続けていく。
戦争へ行きたがった新聞記者
1899年、ヘミングウェイは米国イリノイ州のオークパークで生まれた。父クラレンスは医師で、狩猟や釣りなど野外で過ごす時間を子どもたちと分かち合った。母グレースは音楽や芸術に関心を持ち、子どもにもそれを教えた。のちに彼の人生と結びついて語られる釣りや狩りと、表現への関心は、少年時代の生活にもあった。
高校を卒業すると大学へは進まず、1917年に『カンザスシティ・スター』紙の記者となった。募集活動や市内の出来事を取材し、読者へ短く伝える文章を書いていた。米国はその年、第一次世界大戦に参戦している。新聞社へ戻ってきた救急車の運転手に話を聞いたこともあった。
ヘミングウェイは戦争へ行く方法を探し、1918年に赤十字の志願要員としてイタリアへ渡った。到着直後にはミラノ近郊の軍需工場で起きた爆発事故の現場へ派遣された。死傷者を目にした後、かつての新聞社の同僚へ送った葉書には、現地での経験を興奮気味に知らせる言葉も残っている。死傷者を目にしても、前線へ行きたいという希望は変わらなかった。
最初の配置先では仕事が少なく、もっと前線へ近づける任務を希望した。こうしてフォッサルタ近くで兵士へ物資を届けることになり、冒頭の7月8日の負傷へとつながった。
ハドリーと暮らしたパリ
ミラノの病院で、ヘミングウェイは赤十字の看護師アグネス・フォン・クロウスキー(Agnes von Kurowsky)と親しくなった。帰国後も続くと思っていた関係は、1919年に終わる。負傷した若者と看護師の恋は、後に『武器よさらば』の素材にもなった。ただし小説の主人公フレドリックと看護師キャサリンの運命は、二人の恋愛の記録そのものではない。
帰国後も新聞の仕事を続け、1921年にハドリー・リチャードソン(Hadley Richardson)と結婚した。二人が向かったのはパリである。ヘミングウェイは外国特派員として働きながら、短篇を書き、作家として認められようとした。パリで関わったガートルード・スタイン(Gertrude Stein)やエズラ・パウンド(Ezra Pound)たちは、作品の書き方や文壇とのつながりを考える相手になった。
家族の暮らしは、原稿を書けばすぐに成り立つというものではなかった。新聞の収入は多くなく、ハドリーの持つ資金や、彼女が作家としての仕事を信じて支えたことが、創作を続ける条件になった。二人には長男ジョンが生まれ、「バンビー」の愛称で呼ばれた。机に向かうヘミングウェイの背後には、生活費を考え子どもを育てる日常があった。
1922年12月、ハドリーが旅の途中で運んでいた鞄が失われた。中には未刊の詩や短篇、小説の草稿が入っていた。ヘミングウェイは後年この事件について繰り返し語ったが、伝記研究者スコット・ドナルドソンは、当時の書簡とは一致しない細部があると指摘している。ハドリーが生活を支える傍ら、ヘミングウェイが書きためてきた原稿の多くは戻らなかった。
1925年には短編集『われらの時代』(In Our Time)を刊行した。登場人物の行動や会話を短い文章で描き、心情や出来事の意味を説明し尽くさない書き方は、当時の小説に新しい響きをもたらした。同じ年、パンプローナの祭りを訪れ、パリとスペインを行き来する男女を描いた長編『日はまた昇る』(The Sun Also Rises)へ取り組んだ。翌1926年に刊行されたこの小説が成功し、ヘミングウェイは広く知られる作家となった。華やかな街で傷ついた人々が会話を交わし、互いに近づいては離れていく。彼が経験した場所や人間関係を土台に、現実とは異なる登場人物たちの物語ができあがった。
成功のすぐそばで、結婚は破綻した。ヘミングウェイはハドリーと離婚し、1927年に雑誌で働いていたポーリーン・ファイファー(Pauline Pfeiffer)と再婚する。『日はまた昇る』をハドリーと息子に捧げ、印税をハドリーへ譲ったと、当時の手紙を研究したスコット・ドナルドソンは記している。作家として名を得る一方で、パリでともに築いた暮らしは終わった。
キーウェストで書き、暮らす
1928年、ヘミングウェイはポーリーンと米国フロリダ州キーウェストへ移った。ここで『武器よさらば』の執筆を進め、1929年に刊行する。第一次世界大戦のイタリアを舞台に、兵士と看護師が戦火のなかで恋に落ちる作品だった。1918年の負傷と病院での恋愛に通じる経験はある。しかし、戦場を離れようとする主人公の道筋は、小説として新たに組み立てられた。ヘミングウェイはその結末も繰り返し書き直した。後に残された原稿には、異なる結末を記した数十ページの草稿がある。戦争を経験したことと、それを小説として書き上げることは、別々の仕事だった。
キーウェストでは釣りや船、狩猟へ時間を使い、闘牛についても書いた。ポーリーンとの間にはパトリックとグレゴリーという二人の息子が生まれた。ポーリーンは雑誌『ヴォーグ』の執筆や編集を手がけ、ヘミングウェイの原稿にも助言した。彼女の叔父による住宅や旅の資金援助もあり、暮らしの条件はパリの駆け出し時代とは変わっていた。仕事と家庭、海で過ごす時間が入り交じる一方、1928年には父クラレンスが自ら命を絶った。次男パトリックが生まれた年のことだった。
スペインから欧州戦線へ――二人の記者
1936年末、ヘミングウェイはキーウェストで、記者・小説家のマーサ・ゲルホーン(Martha Gellhorn)と知り合う。翌1937年、二人はスペイン内戦の取材でスペインへ向かった。ヘミングウェイは北米の新聞通信社のため、ゲルホーンは雑誌『コリアーズ』のために書いた。同じ場所を取材しても、それぞれに仕事と読者があった。
ヘミングウェイはスペインの経験をもとに、1940年に『誰がために鐘は鳴る』(For Whom the Bell Tolls)を刊行する。内戦に加わる米国人を主人公とした小説だった。その年、ポーリーンとの結婚は終わり、ヘミングウェイはゲルホーンと結婚した。二人はキューバでも暮らした。
第二次世界大戦が激しくなると、1943年、ゲルホーンは英国へ渡って戦争取材を進めた。ヘミングウェイは彼女にキューバへ戻るよう求め、彼女は逆にロンドンへ来るよう促した。翌1944年、ヘミングウェイ自身も欧州へ渡って取材を始める。夫婦はともに戦争を報じていたが、どこへ向かい、何を書くかという仕事の選択は一致しなかった。
ゲルホーンはノルマンディー上陸作戦の日、病院船に潜り込む形で現地へ渡ったと伝えられる。ヘミングウェイも上陸作戦に同行したが、民間記者として自分では海岸に上陸できなかった。その後も欧州の地上戦線を取材している。
ロンドンでヘミングウェイは、同じく記者のメアリー・ウェルシュ(Mary Welsh)と知り合う。ゲルホーンとの結婚は1945年に法的に終わり、翌1946年にメアリーと結婚した。四度目の結婚だった。
『老人と海』を書いたあと
戦後、ヘミングウェイはメアリーとともに、キューバのフィンカ・ビヒアを生活の拠点にした。釣り船で海へ出る時間があり、原稿に取り組む時間があった。若い日にヨーロッパを渡り歩いた作家は、いまや世界的に名を知られる人物になっていた。それでも、次の作品を仕上げることが容易だったわけではない。1950年に刊行した『河を渡って木立の中へ』(Across the River and into the Trees)は厳しい書評にさらされ、過去の名声が次の一冊を保証するわけではなかった。
1952年に『老人と海』(The Old Man and the Sea)が刊行された。何日も魚が釣れない老漁師が、巨大な魚を相手に海へ出る物語である。読者が見守るのは、勝者の栄誉だけではない。苦労して得たものが、思い通りの形では手元に残らないという経験も、この小説にはある。
『老人と海』は大きく評価され、1953年にピューリッツァー賞、1954年にノーベル文学賞を受ける。同じ1954年、アフリカ旅行中に航空機事故に遭い、負傷した。晩年には身体の不調と精神的な苦しさが深まり、書きかけの原稿を仕上げることが難しくなっていった。
1961年、ジョン・F・ケネディ(John F. Kennedy)の大統領就任式にも招かれたが、健康上の理由で出席を断った。晩年は入院して治療を受け、同年7月2日、アイダホ州ケッチャムの自宅で自ら命を絶った。61歳だった。
書き残したものを、誰が語るのか
1964年に没後刊行された『移動祝祭日』(A Moveable Feast)は、ヘミングウェイがパリ時代を振り返って書いた草稿を、死後に編集した本である。そこに描かれる若い日の結婚と、当時の手紙に残る言葉には、食い違うところもある。
ヘミングウェイの死後、草稿や手紙の多くはキューバの家に残っていた。米国とキューバの往来が難しくなるなか、メアリーは関係者の協力を得てキューバへ渡り、原稿を米国へ持ち帰った。1968年には資料をジョン・F・ケネディ大統領図書館へ寄贈している。
前線へ行こうと望んだ18歳の青年、負傷と恋愛を小説にした作家、戦争を取材した記者、そして過去を振り返る草稿を残した晩年のヘミングウェイ。彼が生きた出来事と、それを作品や回想のなかで語り直した言葉は、重なりながらも一つにはならない。




