一人の人生を読む
8歳か9歳のころ、都市の人口を覚え始めた
1972年、60歳になったエドワード・L・アルマンは、地理学者の映像インタビューで子どものころを振り返った。
8歳か9歳のころ、母親から安い日記帳をもらった。そこには4桁を超える数字が並んでいて、当時のアルマンにはまだ読めなかった。
何の数字なのかと母親に尋ねると、それは都市の人口だった。
アルマンは、都市の人口をおおまかな数字で覚え始めた。そして次には地図を欲しがったという。
もちろん、8歳の経験だけから後の研究人生を説明することはできない。ただ、本人は同じインタビューで、父親の都合による移動や旅行も、移動や交通への関心に影響したと振り返っている。
都市はどこにあるのか。どの都市が大きいのか。都市と都市のあいだを何が動くのか。
後のアルマンが繰り返し考える問題は、かなり早い時期から彼の視野に入っていた。
「都市はなぜ、そこに並ぶのか」を理論にしたかった
アルマンはシカゴ大学で学び、途中ハーバードで修士号を取り、再びシカゴで博士号を取得した。
1930年代のシカゴでは、チョーンシー・ハリスやハロルド・メイヤーら、都市に強い関心を持つ若い地理学者が同じ時期に学んでいた。
当時の都市地理学では、一つの都市を歩き、土地利用や交通や歴史を詳しく記述する研究が大きな位置を占めていた。
アルマンも現地を見る研究者だった。しかし同時に、個別の都市を一つずつ記述するだけではなく、都市がなぜその場所にあり、なぜ一定の間隔や階層をつくるのかという一般的な原理を求めていた。
1938年、大学院生だったアルマンは、ドイツの経済学者アウグスト・レッシュと会った。
アルマンは後年、自分が考えていた都市配置のアイデアをレッシュに話すと、レッシュからヴァルター・クリスタラーの研究を読むよう勧められた、と回想している。
翌年にはクリスタラーの本を読み、1941年に「都市立地の理論(A Theory of Location for Cities)」を発表した。
都市を孤立した点としてではなく、大小の中心地が周囲へサービスを提供する体系として考える。その方向は、後のアルマンの仕事につながっていく。
1940年、モービルの街を調べる
理論を求めたからといって、アルマンが地図の上だけで考えていたわけではない。
1940年、博士研究のためアラバマ州の港湾都市モービルに約5か月滞在した。
後にこの研究を追跡した地理学者エリック・フルニエによれば、アルマンは街の土地利用を調べるだけでなく、新聞がどこまで読まれているか、小売・卸売の取引がどこまで広がっているか、どの地域の銀行がモービルの金融機関と結びついているか、といった資料まで集めている。
港に船が着く。鉄道が荷物を運ぶ。商品が都市から周辺へ出ていく。周辺から人や物が都市へ集まる。
一つの都市を理解するには、都市の境界線の内側だけを見ていては足りない。
モービルは、周囲の地域との関係によって成り立っていた。
この研究は1943年、『モービル――工業港・交易中心地(Mobile: Industrial Seaport and Trade Center)』として刊行された。
後から見れば、ここにはアルマンがのちに「空間的相互作用」と呼ぶ問題の種がある。
戦争中のワシントンで、地理学を「使う」
第二次世界大戦が始まると、アルマンの地理学は大学の外へ出た。
海軍予備役の将校となり、ワシントンD.C.で戦略諜報局(OSS)などに関係する地理・交通情報の仕事に携わった。
そこでは、外国の地域について情報を大量に集めるだけでは足りなかった。
政府が使えるように、交通、地形、産業、地域の関係を整理し、何が重要なのかを選び出さなければならない。
後世に残った文書からは、アルマンが地域情報を百科事典のように並べるのではなく、より機能的で、目的に使える地理へ整理しようとしていたことが分かる。
研究室で「一般化」を求めていた人が、戦争では「役に立つ整理」を求められた。
理論と実用は、ここでは別の問題ではなかった。
1940年代、いくつもの週末をハリスと使った
戦時中、チョーンシー・ハリスもワシントンにいた。
都市についての論文執筆を依頼されたハリスは、一人で書くよりアルマンと共同で書いたほうが強い論文になると提案した。二人ともワシントンにいたため、共同作業はしやすかった。
ハリスは後年、その制作過程をかなり具体的に振り返っている。
二人はいくつもの週末を使って、都市が国土の中でどう分布しているのか、都市内部の機能がどう配置されるのかを話し合った。
関心があったのは、一つ一つの都市を詳しく描写することではない。
都市に共通する型をつくることだった。
ハリスによれば、自分一人ならもっと伝統的な論文を書いていただろうが、アルマンがより理論的に一般化する方向を提案したという。
こうして1945年、「都市の本質(The Nature of Cities)」が発表された。
現在、この論文は二人の名前とともに多核心モデルで知られている。
ただし、誰が何を考えたのかを単純化しすぎないほうがいい。ハリス自身の後年の説明では、アルマンは中心地や交通路に沿う都市配置の考え方を持ち込み、都市内部に複数の核があるという具体的な着想についてはハリス自身の観察を挙げている。
有名な図は、一人の天才が一度に思いついたものではなかった。
異なる研究をしてきた二人が、戦争中のワシントンで議論しながら組み立てた仕事だった。
ハーバードで、「地理学そのもの」が消える
戦後、アルマンはハーバード大学で地理学と都市計画の双方に関わって働いた。
ところが、ハーバードでは地理学の専攻が廃止される。
1972年のインタビューでアルマンは、この出来事をかなり率直に振り返っている。都市計画側からは、専任になり、昇進して残るよう誘われた。それでも彼は都市計画へ移るのではなく、地理学を続ける道を選び、1951年にワシントン大学へ移った。
廃止をめぐる議論も、それで終わらなかった。アルマンによれば、学内には経済学や歴史学などの研究者とアルマン一人を地理学者として含む委員会がつくられ、約2年間にわたって地理学の位置づけが議論された。最後には独立した地理学部門を設けることが全会一致で勧告されたが、予算は付かず、実現しなかった。
この経験が自分に大きな影響を与えた、とアルマン自身が語っている。
地理学に、何ができるのかを証明したい。
そのため、大学の内部だけでなく、応用的・準応用的な仕事を意識的に引き受けるようになったという。
戦時中に地理学を実務へ使った経験と、戦後に地理学そのものの価値を問われた経験は、ここでつながる。
シアトルで、「場所」より「流れ」を見る
1951年、アルマンはシアトルのワシントン大学へ移った。
ここではウィリアム・ギャリソンらとともに、理論、統計、交通、経済地理を重視する研究環境が育っていく。
1955年には、後に「スペース・カデッツ(Space Cadets)」と呼ばれる若い研究者たちが集まった。その一人リチャード・モリルは、もともとアルマンのもとで学ぶためにワシントン大学へ来ている。
アルマン一人が「計量革命」を起こしたわけではない。
しかし、都市や地域を記述するだけではなく、そこにある関係を理論化したいという姿勢は、次の世代が集まる理由の一つになった。
アルマン自身は、交通や商品の移動を考えるなかで、地理を空間的相互作用として捉えるようになる。
二つの場所のあいだに流れが生まれるには、たとえば片方に需要があり、もう片方に供給があるという補完性が必要になる。もっと近くに代わりの場所があれば、遠い場所との結びつきは弱くなる。距離や輸送費が大きすぎれば、そもそも移動できない。
地図の上に二つの点があるだけでは、関係は生まれない。
なぜ、その二地点のあいだで人や物が動くのか。
それがアルマンの問いだった。
地理学を、地図の「点」から「関係」へ
アルマンは1976年に亡くなった。
1980年、ロナルド・R・ボイスの編集で『空間的相互作用としての地理学(Geography as Spatial Interaction)』が刊行された。主要論考だけでなく、本人が自分の研究人生を振り返った文章も収められている。
8歳か9歳のころ、都市人口の数字を覚えていた少年。
モービルで街を歩き、商圏や交通を調べた大学院生。
戦争中には政府が使う地域情報を整理し、週末にはハリスと都市の一般理論を考えた。
戦後には、所属していた地理学そのものがハーバードから消える経験をし、それでも地理学を続ける道を選んだ。シアトルでは次世代の研究者とともに、地理学をより理論的で実用的なものへ押し広げていった。
多核心モデルだけを見ると、アルマンは教科書の図の横に名前が残る研究者に見える。
しかし人生を追うと、もっと一貫した問いが見えてくる。
場所は、そこにあるだけではない。ほかの場所との関係によって、その場所になる。
都市人口の数字から始まった関心は、最後には、場所と場所のあいだを流れる人、物、交通を考える地理学になった。



