一人の人生を読む
なぜ、町は等間隔に並ばないのか
大きな都市には、大学病院や専門店がある。
小さな町には、日常の買い物をする店や学校がある。
さらに小さな集落では、必要なものを近くの町まで取りに行く。
こうして見ると、都市や町は単独で存在しているのではない。規模によって担う機能が違い、周囲の地域を支える範囲も違う。
ヴァルター・クリスタラーは、この当たり前のようで複雑な関係を、1930年代に一つの理論へまとめた。
中心地理論である。
36歳から、地理学へ入った
クリスタラーの経歴は、最初から地理学者一直線ではない。
若いころには哲学や政治経済を学び、第一次世界大戦では軍務に就いた。1920年代には住宅関係の仕事や建設会社など、いくつもの職を経験した。
本格的に地理学へ向かったのは36歳ごろだった。
1929年に大学院での研究を再開し、1932年に博士論文をまとめる。翌1933年、それは『南ドイツの中心地(Die zentralen Orte in Süddeutschland)』として刊行された。
遅い出発だった。
しかし、その一本が20世紀の地理学で長く参照される理論になった。
都市を「中心地の階層」として考える
クリスタラーが考えたのは、町にはそれぞれ「周囲へ提供するもの」があるということだった。
パンのように頻繁に買うものなら、客は遠くまで行かない。だから小さな町にも店が成立する。
一方、高度な医療や専門的な商品なら、利用頻度は低くても、より広い地域から人が集まる。そうした機能は大きな都市に集まりやすい。
つまり、財やサービスにはそれぞれ、店や施設が成立するために必要な最低限の需要と、人がそこまでなら移動するという到達範囲がある。
この組み合わせから、中心地には階層が生まれる。
理論上、同じ条件の平面に市場圏を隙間なく並べていくと、六角形の領域が現れる。
この図は有名になった。
ただし、六角形そのものが目的ではない。
重要なのは、都市を一個ずつ見るのではなく、大小の都市が役割を分担するシステムとして見ることだった。
便利な理論は、何に使われるのか
中心地理論には、都市や公共施設をどこへ配置するかを考える強い応用力があった。
そして、その応用力は、クリスタラーの伝記を難しいものにする。
第二次世界大戦期、彼はナチ体制の空間計画機構で働いた。研究史では、ヒムラーが統括した「ドイツ民族性強化国家委員本部」系統の計画部門と、東ヨーロッパの占領・植民計画との関係が詳しく検討されている。
そこでは、中心地をどう配置するかという専門知が、単なる学術モデルではなくなった。
占領地の住民を追放・支配し、ドイツ人を入植させるという暴力的な国家計画のなかで、空間を「合理的に」組み替えるための知識として接続されたからである。
クリスタラー自身の政治経歴も単純ではない。研究史では、戦前の社会民主党との関係、1940年のナチ党加入、戦後の共産党、さらに後年の社会民主党という大きな移動が記録されている。
だから、後から一つの思想で生涯を説明するのは難しい。
しかし少なくとも言えることがある。
理論が政治と無関係でも、理論の使われ方まで無関係とは限らない。
戦後、理論は世界へ広がった
戦後のクリスタラーは、フリーの地理学者として活動し、観光地理などにも取り組んだ。
中心地理論の評価は、むしろ晩年になって高まった。
アメリカなど国外で先に評価され、1960年代には国際的な賞や名誉博士号を受けるようになる。1968年にはルンド大学から名誉博士号を授与された。
1969年に死去した後も、中心地理論は都市地理、商圏分析、地域計画の教科書に残った。
一方で、後世の研究は、その理論がナチ期の空間計画とどう接続されたのかも掘り起こしてきた。
六角形の美しいモデルだけを見ると、都市が秩序正しく並ぶ世界に見える。
けれど、その「秩序」を誰が、何のために作ろうとするのか。
クリスタラーの生涯まで読むと、地図の上の線は、急に政治の問題になる。


