一人の人生を読む
1976年、「売れること」と「捨てないこと」を同じ場所で話した
1976年、ディーター・ラムス(Dieter Rams)はニューヨークで講演した。すでにBraunとVitsœで約20年仕事をしていた。
そこで彼は、競争が激しくなるほど、デザインは買い手に見える商品の違いになると話した。そして、よく考えられたデザインは商品の品質を左右し、会社が成功するためにも必要だと述べた。
ここまでなら、企業がデザインを使って商品を売るという話である。
ところが同じ講演の後半で、ラムスは別の方向へ進む。良いデザインが目指す「成功」には、無駄な廃棄を避けることも含まれる。天然資源やエネルギーには限りがあり、考えなしに生産し、考えなしに消費する時代を続けることはできない、と論じた。
ラムスは商売の外に立って、大量消費を批判していたのではない。大量生産の企業で、多くの製品を世に出す側にいた。
その内部から、「会社にとって良いデザイン」と「社会にとって良いデザイン」を同じものにできるのかを考え続けた。
両親の家を行き来し、祖父の工房へ通った
1932年5月20日、ラムスはドイツのヴィースバーデンに生まれた。
後年の本人の回想によると、両親は彼が幼いころに別れた。父と母の家を行き来し、学校も何度か変わり、寄宿舎で過ごした時期もあった。ナチ体制下ではヒトラー・ユーゲントへの参加を経験し、戦争末期にはヴィースバーデンへの空襲も見た。
その時期に、ラムスが繰り返しよりどころとして語っているのが祖父母だった。とくに家具職人だった祖父の工房で、木を選び、手で仕上げ、表面を何度も整えていく仕事を見た。
1947年、15歳のラムスは建築とインテリアデザインを学び始める。しかし翌年、学校を中断し、家具職人の修業へ入った。三年後に学業へ戻り、1953年、銀行ホールの設計で優等の卒業資格を得る。
その後はフランクフルトのOtto Apelの建築事務所で働いた。
のちに20世紀を代表する工業デザイナーと呼ばれる人物の出発点には、手で材料を扱う家具職人の経験と、空間を組み立てる建築があった。
Braunに入ったとき、仕事は「製品を描くこと」ではなかった
1955年7月、23歳のラムスはBraunへ入社した。肩書はインテリアデザイナーだった。
当時のBraunは、戦後の家電市場で会社の姿そのものを作り直そうとしていた。経営を引き継いだErwin BraunとArtur Braunは、Ulm School of DesignのHans GugelotやOtl Aicherらと協働し、従来の木製家具のようなradioから離れた製品と企業表現を模索していた。
ラムスが最初に扱ったのも、展示空間、office、建築に近い仕事だった。会社のさまざまな部門と働くなかで、徐々にproduct developmentへ入っていく。
1956年、その転換を象徴する仕事がBraun SK4だった。
SK4は、UlmのHans Gugelotとそのteam、Braun側のdesignerや技術者が共同で開発したradioとrecord playerの組み合わせだった。
開発中、上部を覆うmetal coverが試験で振動した。Design Museumの記録では、そこでラムスが透明plasticへ変えることを提案した。機械を隠していた蓋が、内部のrecord playerを見せる透明な面になった。
後にSK4の外観はラムスを代表する仕事の一つとして知られるようになる。その象徴的な透明蓋は、見た目だけを先に考えた装飾ではなく、技術上の問題へのチームの対応から生まれた。
一台の名作から、「同じ会社のもの」に見える仕組みへ
1961年、ラムスはBraunのproduct design部門を率いる立場になり、1968年にはDirector of Product Designとなった。
事務所の規模と製品群が広がるにつれ、ラムスの役割も変化した。Design Museumの記録では、Gerd A. Müllerがkitchen appliances、Roland Weigendがscalesやmodel makingなどを担当し、ラムスはradio、record player、projectorなどに関わりながらteam全体を率いた。
操作部をどこに置くか。何色を使うか。製品どうしの比例をどう揃えるか。logoをどれくらい目立たせるか。
個別の製品を毎回まったく新しく見せるより、別々の製品が同じ考え方で作られていることを継続して実現する。ラムスの仕事は、製品の形をつくることから、複数のdesignerが共有できる企業のdesign languageを整えることへ広がっていった。
デザインは最後に外側を整える仕事ではなく、技術、材料、構造、使い方、企業の判断を早い段階から一つにまとめる仕事になった。
家具は、買い替える完成品ではなく、変わり続けるsystemになった
Braunへ入って間もない1957年、ラムスは家具designerのOtto Zapfと知り合い、収納家具の構想を始めた。1959年にVitsoe+Zapfが設立され、1960年には606 Universal Shelving Systemが発売される。
606は、壁にrailを取り付け、棚やcabinetを必要に応じて増減するsystemである。
生活が変わったから家具を丸ごと捨てるのではなく、同じ骨格へ部品を足したり、位置を変えたりして使い続ける。完成した一個の形より、時間とともに変化できる仕組みそのものがdesignになった。
ラムス自身は1976年の講演で、1957年に始めた収納systemの考えがVitsœという会社の基礎になったと説明している。BraunでもVitsœでも、単発の商品より長く続く製品と会社の関係へ関心が向いていた。
Ingeborgは、製品を「どう見せるか」を撮り続けた
この時期、もう一人重要な人物がいる。
Ingeborg Krachtは写真家だった。1957年からBraunの広告部門で製品や展示を撮影し、1964年以降はfreelanceとしてBraunの特許用製品写真、Vitsœのinteriorや製品、ラムスの展覧会記録を撮った。
二人は1967年12月に結婚した。
1970年にはKronbergの森に近い住宅地でバンガローを購入する。ラムスは内装を整え、日本の庭に影響を受けたterraced gardenをつくった。室内には自分たちが長く使う家具や製品が置かれた。
2004年に自宅を訪ねたWIREDの取材では、地下のworkshopに工具が整然と並び、ラムスはそこで小さな家具模型を作っていた。Braun在職中には、機密性の高い検討を自宅workshopで行ったこともあったという。
Ingeborgはその生活と仕事を写真に残した。現在、Museum Angewandte KunstやRams Foundationでは、Dieterの製品とIngeborgの写真が一緒に保存・展示されている。
製品、広告写真、家具、家、庭。夫妻の生活では、それぞれが完全に別の領域ではなかった。
「良いデザインの10原則」は、最初から十個あったわけではない
ラムスの名前とともに最も広く知られているのが、「良いデザインの10原則」である。
革新的であること。役に立つこと。美しいこと。理解しやすいこと。控えめであること。誠実であること。長持ちすること。細部まで考えること。環境に配慮すること。そして、できるだけ少ないデザインであること。
ラムス本人は、これを一度に完成した不変の十戒として扱っていない。
Rams Foundationに残る本人の説明では、出発点はBraun内部で「自分たちはどんなdesignをするのか」を整理した基準だった。最初は六項目ほどで、仕事と議論を重ねながら十項目へ増えた。2002年版の冒頭でも、良いdesignの考え方は技術や文化とともに変わるため、原則は固定できないと書いている。
10原則は、企業の外から企業へ突きつけた理念ではなかった。Braunという大量生産企業の中で、「何を新しくするのか」「何を変えないのか」を判断する実務上の基準としても育った。
その考えを最も短く表した言葉が、Less, but better――より少なく、しかしより良くだった。
「新しい商品」と「新しく見える商品」は違う
この原則は、会社の販売要求といつもきれいに一致したわけではない。
晩年のインタビューでラムスは、Braunでは新しいdesignを出すなら、新しい技術や機能が伴うべきだと考えていたと振り返っている。性能や使い方がほとんど変わらないのに、見た目だけを変えて旧製品を古く感じさせることには否定的だった。
1990年代になると、親会社側のmarketingはより頻繁なredesignを求めるようになったという。Braunのlogoをもっと目立たせる要求とも衝突した。ラムスは、logoが大きく叫ばなくても、製品そのものを見ればBraunだと分かる方が強いと考えていた。
本人の回想では、marketingや経営陣と激しい議論になることもあった。
商品に違いをつくることは、商売に必要である。しかし、違いをつくること自体が目的になれば、まだ使えるものまで古く見せ、買い替えを早めることができる。
ラムスは、その境界を「新しい形かどうか」ではなく、製品が本当に良くなったかで判断しようとした。
会社を離れても、「何をつくらないか」を問い続けた
1981年からラムスはHamburgの美術大学でも教え、1987年からはGerman Design Councilの会長を務めた。1992年にはIKEA Prizeの賞金を、Ingeborgと進めるfoundationの設立へ充てた。
1997年、65歳でBraunを離れ、大学も退職する。
その後も、Vitsœ、foundation、展覧会、講演、インタビューを通じて、designと消費の関係を語り続けた。
2018年にはGary Hustwit監督のdocumentary『Rams』が公開された。2022年5月には、50年以上生活と記録をともにしたIngeborgが90歳で亡くなった。
2026年5月、ラムスが94歳を迎えたのに合わせ、FrankfurtのMuseum Angewandte Kunstは常設展示を再構成した。そこでは製品だけでなく、designがどう変化していったか、Ingeborgの写真、archiveまで含めて仕事を見直している。
ラムスは大量生産の中心で、多くの製品をつくった。だからこそ「より少なく」という言葉には重さがある。
何も売らないことを理想にしたのではない。会社が続き、商品が選ばれることを認めたうえで、売るために短命な違いを増やすのではなく、本当に必要な違いをつくれるかを問い続けた。
Less, but betterは、見た目をすっきりさせるstyleの名前ではない。
何をつくるかと同時に、何をつくらず、どれだけ長く使い、いつ変えるのかまでをdesignの責任に含めようとした言葉だった。




