一人の人生を読む
81歳、講義は27の数字から始まった
2008年7月。82歳の誕生日を翌月に控えた渥美俊一は、ペガサスクラブの政策セミナーで演壇に立った。
全国から流通企業の経営幹部が集まる場だった。渥美は受講者にテキストを開くよう促し、最初に扱ったのは、利益率、労働分配率、一人あたりの売場面積、一坪あたりの利益高など、27項目の経営効率数値だった。
渥美は半世紀近く、「流通革命」という大きな言葉を掲げてきた。その目的には、多くの人がより豊かな暮らしを送れる社会をつくるという考えがあった。
それなのに、晩年の講義で最初に出てきたのは「革命」ではなく数字だった。
ここに渥美俊一という人物の特徴がよく現れている。理想を語るだけではなく、店で測れ、比べられ、繰り返せる形にしなければ、社会は変わらないと考えたのである。
ただし、若い頃から小売業を志していたわけではない。渥美が先に向き合ったのは、戦争と学生運動、そして新聞だった。
商店へ行く前に、社会を変えようとしていた
渥美は1926年8月21日、三重県の松阪町西町、現在の松阪市西町に生まれた。父・半次郎は煎茶を扱う商人で、商品を選び、扱い、売る仕事は家庭の身近にあった。ただ、若い渥美がすぐ小売の道へ向かったわけではない。
むしろ若い渥美の経路は、かなり曲がっている。
進学では旧制高校や東京大学法学部の受験で何度も不合格を経験した。戦時下には動員され、敗戦後に復員して松阪へ戻った。その後、東京で学業へ復帰する。
戦後は食糧難と激しいインフレの時代だった。評伝では、東京で学ぶ俊一へ送金するため、母・お志づが着物や箪笥などを売ったとされる。物が足りず、家計が揺れ、学ぶこと自体に費用がかかる社会を、本人も生活の側から経験していた。
一高から東京大学法学部へ進んだ渥美は、学生ユネスコ運動や東大新人会など、戦後の社会運動にも深く関わった。
この時期の関心は、店の売上をどう伸ばすかではない。社会の仕組みにどう働きかけるか、というもっと大きな問題に向いていた。
1952年、東京大学法学部を卒業すると、渥美は読売新聞社へ入った。社会への関心は、学生運動から報道の仕事へと場所を変えた。
新聞で暴いても、仕組みは残った
読売新聞で渥美は、横浜支局などを経て、社会や経済の問題を取材した。政治的不祥事や利権事件を追い、問題を明るみに出す記事も書いた。
だが、記事が出れば社会の仕組みそのものが変わるとは限らない。
渥美は1987年、30年以上前の記者時代を振り返り、1956年頃には新聞キャンペーンの限界と、記者としての挫折感を抱いていたと記している。問題を摘発しても、既存の体制が大きく変わらない。報道には意味がある。それでも、書くことと、仕組みが変わることの間には距離があった。
これは後年の本人による自己理解である。その回想の後も渥美は新聞社に残り、仕事の重心を少しずつ商店経営へ移していった。
社会の問題を外から告発する記事だけでなく、商売をしている人が明日から使える知識を調べ、説明する仕事へ近づいていった。
毎週一ページ、「商店」を見る仕事になる
1957年10月、読売新聞の地方版で月に一度掲載されていた「地方経済」は、「地方経済・商店特集」となり、毎週金曜日に一ページを使う企画へ広がった。
渥美は、商店経営を継続して取材し、解説するようになる。
ここで扱う対象は、政治家や官庁の不祥事ではない。店の売り方、商品の扱い方、経営の数字、新しいセルフサービス方式、海外で進んでいた小売の方法などだった。
一つひとつは地味である。棚をどうつくるか。商品をどう揃えるか。どの数字を比べるか。別の店はなぜ同じ面積でより多く売れるのか。
しかし渥美にとって、小売業は次第に単なる「商売の記事」の対象ではなくなっていった。
生活者が毎日使う店の仕組みが変われば、商品の価格や種類、買い物の便利さが変わる。個々の店主の努力だけに任せず、再現できる経営の方法をつくれれば、変化を一店で終わらせずに広げられる。
新聞で問題を知らせる仕事から、経営者が仕組みを変えるための知識をつくる仕事へ。渥美の活動は、その境目を越えていった。
店を持たずに、店の仕組みをつくる
1962年、渥美はチェーンストア経営研究団体「ペガサスクラブ」を立ち上げた。翌1963年には、チェーンストア経営を専門に研究・指導する日本リテイリングセンター(JRC)を設立する。
渥美はこの時点でも読売新聞社に在籍していた。新聞社を離れるのは1969年である。
ペガサスクラブには、その後の日本の流通業を担うことになる経営者たちが参加した。中内功、伊藤雅俊、岡田卓也らも、渥美の周囲でチェーンストア経営を学んだ人々に含まれる。
渥美の役割は、各社を直接経営することではなかった。別々の企業の経営者が集まり、他社を見て、自社と比べ、海外を調べ、共通の言葉で議論する学習の場をつくった。
そこでは「経験豊富な社長の勘」だけに頼るのではなく、数字で状態を測ることが求められた。店舗を見て比較する。仕事を分ける。成功した方法を一店舗だけの特殊例にせず、別の店でも繰り返せる形へ整える。
米国のチェーンストアも重要な研究対象になった。渥美は、海外の店を表面的にまねるのではなく、なぜ大量の店舗を同じ仕組みで動かせるのか、その経営原理を日本の企業へ移そうとした。
この仕事によって、渥美は「店を持つ経営者」とは違う立場を得た。店を経営する代わりに、店を増やし、組織を動かすための方法を教える人になったのである。
「豊かな暮らし」を、標準化する
渥美は効率化の先に、大多数の人の暮らしを豊かにする目的を置いた。
一部の人だけが高価な商品を手にできる状態ではなく、より多くの人が、生活に必要な商品を、安定した品質と価格で手にできる。そのためには、小売業そのものが近代的な「産業」にならなければならない、と考えた。
そこで必要になったのが、渥美が教え続けた標準化と計数管理だった。
店ごとにやり方が違い、担当者の経験だけで商品を仕入れ、価格を決めていては、店舗数が増えるほど組織はばらばらになる。逆に、仕事を分け、判断の基準を揃え、同じ数字で比較できれば、複数の店を一つの仕組みとして動かしやすくなる。
マス・マーチャンダイジングも、多数の生活者へ商品を届ける規模と仕組みをつくる考えとして、その延長にあった。その規模を、価格や品揃えや生産性へつなげる。
渥美はこの社会的な理想を、棚の幅、在庫、利益率、人の配置といった日々の運営へ落とし込もうとした。2008年の政策セミナーで、81歳の渥美が27の経営効率数値から始めたのは、その考え方の延長にあった。
共通の基準から、別々の実践が生まれた
渥美の影響が大きくなった時代、日本の流通業では多くの企業が店舗網を広げた。
ペガサスクラブで学んだのは、それぞれ市場も組織も商品も違う、独立した企業の経営者たちだった。
渥美は明確な原理原則を示し、ときには有力な会員企業にも厳しい批判を向けた。それでも、各社がその教えをどう採用し、どこを変え、どこで離れたかは同じではない。
ダイエー、イトーヨーカ堂、ジャスコなどの成長は、それぞれの創業者、従業員、資本、市場、失敗と判断によって形づくられた。渥美が提供したのは、それらを越えて共有できる経営の言葉と、比較するための基準と、学び続ける場だった。
日本チェーンストア協会では初代事務局長も務めた。個別企業への助言に加え、流通業を一つの産業として成立させるための教育、研究、制度づくりへ活動を広げていった。
原理原則が強いほど、時代との摩擦も生まれる
渥美は晩年まで、原理原則を曖昧にしなかった。
2008年のセミナーでも、会員企業の実績を数字で比べ、良い点も悪い点も名指しで論じた。法政大学経営学部の客員教授にもなり、翌2009年には同大学の「流通産業ライブラリー」設立記念セミナーで「チェーンストア産業づくりとは」を講演している。
しかし、強い理論は、長く使われるほど別の問いにもさらされる。
後の実務家からは、直営方式、価格帯、商品の範囲、標準化などを厳密に定める渥美のチェーンストア像では、新しく生まれた事業の形や、企業ごとの独自性を十分に捉えにくいのではないか、という批判も出た。
その批判が投げかけたのは、どこまでを原則として残し、どこからを時代に合わせて変えるのか、という問いだった。
渥美が晩年まで求めた「現状を測り、比較し、否定すべきところを変える」という姿勢を考えれば、彼自身の理論もまた、後世の検証から自由ではない。
残ったのは、一社ではなくテキストと人の網だった
2010年6月、渥美は動脈瘤の手術を受けた。その後、肺炎を併発し、7月21日に83歳で死去した。
近親者による密葬のあと、9月には業界関係者らが集まるお別れの会が開かれた。喪主は長男の俊英が務め、妻の田鶴子は日本リテイリングセンターの新代表となった。
会場には、渥美の著書だけでなく、ペガサスのセミナーで長年使われてきた大量のテキストも並べられた。
それは、渥美の仕事の残り方をよく表していた。
渥美の遺産は、一社の組織に集約されなかった。別々の企業で働く人々、繰り返し改訂されてきた教材、経営を測る言葉と数字、そしてそれらを検証する資料が残った。
法政大学の流通産業ライブラリーには、日本リテイリングセンターに関わる資料の蓄積が進んだ。2015年には、ニトリが東京・渋谷にあった渥美の旧宅を改装し、「渥美俊一記念館」を設けた。2026年、生誕100年を迎えた松阪でも記念事業が計画された。
一方で、渥美の原理をそのまま守るべきか、現在の市場に合わせて組み替えるべきかという議論も残っている。
2008年の壇上で、渥美は27の数字から話し始めた。
数字そのものが彼の遺産なのではない。社会を豊かにしたいという目的を、誰かの熱意だけに預けず、店で実行し、測り、別の場所でも繰り返せる仕組みにしようとした。そのために数字が必要だった。
その基準が永遠に正しいかどうかは、別の問題である。
むしろ渥美が残したものは、理想を掲げたあとに「では、日々の仕事をどう変えれば、その理想は実際に動き出すのか」と問い続ける姿勢だったのかもしれない。



