心理学者なら、大学で心理学を学んだはず。建築家なら、若いころから建築の設計を勉強したはず。有名な人の肩書きを見ていると、そんなふうに考えたくなる。
けれど、完成した仕事から人生をさかのぼると、途中にあった迷いや偶然は見えにくくなる。画家を目指した人、哲学を学んだ人、大学の職を得られなかった人、機械の設計をしていた人もいる。
専門家になるまでの道は、最初から決まっていたのだろうか。
ここでは、発達心理学者エリクソン、建築家白井晟一、経済学者パッテン、心理学者サーストンの4人を紹介する。前の仕事が次の仕事への入口になった人もいれば、就職先が見つからず別の仕事に就いた人もいた。4人の人生をたどると、専門家になる道の違いが見えてくる。
4人の出発点は、こんなに違った
- エリクソン:画家になろうとして各地を旅したのち、子どもを教える仕事から精神分析の世界へ入った。
- 白井晟一:建築学科ではなく図案とドイツ哲学を学び、帰国後の住宅設計から建築家になった。
- サイモン・パッテン:経済学の博士号を得たのに研究職を得られず、農場、法学の勉強、学校での仕事を経た。
- ルイス・サーストン:電気工学や機械の問題から、人間の能力をどう測るかという心理学の研究へ進んだ。
エリクソンとサーストンは、新しい仕事や研究対象に出会って専門を変えた。白井は学んできたことを設計に持ち込み、パッテンは就職先がないことや目の病気によって予定した道を進めなかった。
エリクソン――画家志望の青年が、子どもを教える
1927年、ウィーンの小さな学校へ
エリク・エリクソンは1902年、ドイツに生まれた。美術を学び、20代前半には絵を描きながら各地を旅した。後に「アイデンティティ」を研究することになるが、このころの彼は大学で心理学の学位を目指していたわけではない。
転機は1927年、25歳のときだった。ウィーンで精神分析家たちの子どもが通う学校に関わるようになったのである。その周囲にはアンナ・フロイトらがおり、エリクソンは精神分析を受けながら児童分析の訓練を始めた。
画家をやめて、突然心理学の理論を発見したのではない。子どもを教えるという仕事の現場が、新しい学びにつながった。その後アメリカへ渡り、大学の学位を持たないまま臨床や研究を重ね、後にハーバード大学でも教えるようになる。
「自分は誰か」を研究した人の、決まらなかった進路
エリクソンは、子ども時代だけでなく成人後や老年期にも人の発達が続くと考え、生涯を八つの段階から捉える理論を示した。彼自身の名前や家族、移住の経験も大きく変化したが、研究の直接の入口となったのは、ウィーンで子どもを教え、児童分析を学んだ仕事だった。
むしろ面白いのは、仕事に就き、人に出会い、学び続けるうちに専門が形になっていったことだ。肩書きは人生の最初ではなく、ずっと後に定まった。
白井晟一――建築学科へ進まなかった建築家
図案、哲学、そして住宅設計
白井晟一は1905年に京都で生まれた。京都高等工芸学校で学んだのは建築ではなく図案。さらにドイツへ渡り、大学では哲学を学び、ヨーロッパの歴史的な建築にも触れた。
1933年に帰国した白井は、義兄で画家の近藤浩一路の住まいなどを設計することから建築の実務へ入る。学校で建築家としての標準的な課程を終え、設計事務所へ就職したわけではなかった。
白井が建築を始める前に学んだ図案や哲学は、後の設計ともつながっていった。ドイツで見た歴史的な建築や、帰国後に実際の住宅をつくった経験も、その仕事の一部になっている。
学んだことは、別の形で戻ってくる
白井は後に親和銀行本店や渋谷区立松濤美術館などを設計し、書や装丁にも取り組んだ。日本建築の伝統について考えるときも、昔の屋根や柱の形をそのまま真似することより、材料の重さや空間の経験を重視した。
図案、哲学、建築、文字。一見遠回りに見える経路が、仕事を始めた後にもう一度結びついている。白井の場合、専門家になるとは、過去の勉強を捨てて一つの技能だけを身につけることではなかった。
パッテン――博士号のあとに、職が見つからなかった
1878年、博士が農場へ戻る
サイモン・ネルソン・パッテンは1852年生まれのアメリカの経済学者。ドイツで経済学を学び、博士号を得て1878年に帰国した。ところが大学の職は見つからない。彼は家族の農場に戻り、農作業をすることになった。
翌年には法学を学ぼうとしたが、目の不調で読書や仕事が難しくなり、その道も続かなかった。やがて治療を受け、学校教師として働き始めた。経済学を専門とする大学教師になったのは、さらにその後、36歳ごろである。
パッテンには博士号があっても大学の職がなく、別の道を探そうとすると病気によって勉強を続けられなくなった。最初に安定した仕事を得たのは、研究室ではなく学校だった。専門を学んだ時期と、その専門で働き始めた時期は一致しなかった。
教室で、経済学の問いも変わった
パッテンは後に、工業化によって生産力が増す社会を、物の不足だけでなく消費や生活水準から捉えようとした。経済学は、財をどう分けるかだけでなく、豊かになった社会で人びとがどう暮らすかを考える学問でもある、と問いを広げた。
その仕事を、農場の経験だけから説明するのは言いすぎだろう。しかし大学の研究者になる以前の長い時間があったことは、確かである。
サーストン――機械を調べていたら、人間の能力が気になった
まず、設計する対象は機械だった
ルイス・レオン・サーストンは1887年に生まれ、若いころから数学、図形、機械に関心を持った。コーネル大学では電気工学を学び、映写やフィルムに関わる技術的な仕事にも取り組んだ。
しかし、機械をうまく動かすためには、人が何を見て、どう判断し、どんな違いを持っているのかも問題になる。サーストンはそこから心理学へ進み、後には人間の能力や態度を測る方法を発展させた。
同じ心理学者でも、エリクソンが子どもを教える現場から入ったのに対し、サーストンは工学的な問題の扱い方を持ち込んだ。入口が違うため、研究したことも違ったのである。
「頭の良さ」を一つの数字で終わらせない
サーストンは、言語や数、空間などの能力を調べ、人の知的能力を一つの総合点だけでは説明しきれないと考えた。工学から心理学へ移ったことは、計算する仕事を捨てたことではない。測る対象を機械から人間へ広げたところに、その経歴のつながりが見える。
4人の進路は、どこで変わったのか
① 仕事で出会った相手が、新しい専門への入口になった
エリクソンはウィーンの学校で子どもを教え、アンナ・フロイトらのもとで児童分析を学び始めた。サーストンは工学に携わるなかで、人の能力をどう測るかという問題へ向かった。二人とも心理学者になったが、一方は教育の現場から、もう一方は機械を扱う仕事から入っている。
② 以前学んだことの使い道が変わった
白井は図案と哲学を学んだ後、住宅、銀行、美術館の設計へ進んだ。サーストンは数学や工学で培った測定への関心を、心理学の研究に用いた。二人は別の専門へ移りながら、以前に学んだことも仕事の中で使い続けた。
一方、パッテンの大学卒業後の道は、職が見つからなかったことや目の不調によって中断された。博士号を持つ経済学者が、大学の教師になる前に農場と学校で働いた期間があった。この経路を、白井やサーストンの専門変更と同じ理由で説明することはできない。
③ 同じ心理学者でも、身につけた方法は違った
エリクソンは子どもや家族、社会の中で発達がどう続くかを研究した。サーストンは人の能力を数値や統計的な方法で分析した。同じ心理学でも、相手にしていた問題が違い、それぞれが経験した教育や仕事が研究方法に結びついていた。
4人の経歴を比べると、何を学んだかだけでなく、どこで誰と働いたかが専門の方向を変えることが分かる。
どこから読めばよいか
学位と専門職の関係に関心があるならエリクソン。芸術や思想から建築へ進む道なら白井。失職や病気を経た研究者の人生ならパッテン。理系の学びを心理学へ広げた仕事ならサーストンがよい。
4人の経路を続けて読むなら、エリクソン→サーストンで心理学者への二つの道を比べ、白井→パッテンで専門教育と就職の関係を見ると面白い。
仕事だけでなく、年齢とともに性格や習慣、生活の条件がどう変わるかについては、テーマ記事人は、何歳まで変われるのか?で詳しく取り上げている。



