一人の人生を読む
建築家になるために、建築学科へ行かなかった
白井晟一は1905年、京都に生まれた。建築家として知られるが、学生時代に専門的な建築教育を受けたわけではない。京都高等工芸学校、現在の京都工芸繊維大学で学んだのは図案だった。
その後、白井はドイツへ渡る。ハイデルベルク大学とベルリン大学で学んだ中心は近世ドイツ哲学で、同時にゴシック建築にも触れた。建物をつくる実務へ一直線に進むのではなく、造形と思想の両方を遠回りしたことになる。
1933年、約6年間の滞欧生活を終えて帰国する。哲学者や美学者になる道ではなく、義兄で画家の近藤浩一路の自邸などを設計したことをきっかけに、建築の仕事へ入っていった。
独学だから、自由だったわけではない
白井はしばしば「独学の建築家」と呼ばれる。しかし、何も学ばず自由に建築を始めたわけではない。図案教育を受け、ヨーロッパで哲学と歴史的建築に触れ、帰国後は実際の住宅や公共建築を通じて設計を積み重ねた。
初期の「歓帰荘」や「秋ノ宮村役場」は木造を中心とした小さな建築だった。後年の重く記念碑的な建築だけを知っていると、同じ建築家とは思いにくい。
白井は自分の形式を最初から持っていたのではなく、建物をつくりながら建築家になっていった。
「日本らしい形」を貼り付けない
戦後の日本建築では、近代建築と日本の伝統をどう結びつけるかが大きな問題になった。屋根、柱、庭、木造といった目に見える伝統の形を、現代建築にどう取り入れるのか。建築家たちはさまざまな議論を行った。
白井も1950年代の伝統論争に参加したが、伝統を過去の形のコピーとして扱うことには慎重だった。
重要なのは、昔の建築に似せることではない。石の重さ、壁の厚さ、光の入り方、内部に入ったときの静けさのように、人が空間から受け取る経験をどうつくるかだった。
その姿勢は、白井の建築を特定の「和風」に分類しにくくしている。西洋的な石の量感もあれば、日本の素材感覚にもつながる細部がある。どちらか一方を選ばず、材料と空間を通して自分の建築に組み替えた。
実現しなかった「原爆堂」
1955年、白井は「原爆堂」と呼ばれる計画を『新建築』誌上で発表した。核の問題と向き合う建築として構想されたが、実際に建設されることはなかった。
建築家の仕事は、建てられた建物だけではない。図面や文章として提示され、社会に問いを投げかける計画もある。「原爆堂」はその一つだった。
ただし、この計画を白井の思想のすべてとして扱うこともできない。彼はその後も銀行、オフィス、住宅、美術館を設計し続けた。理念だけを語るのではなく、実際の敷地と用途、材料の中で建築をつくる仕事を続けている。
親和銀行で、重さを都市に置く
1960年代、白井の建築はより大きなスケールへ進む。長崎県佐世保市の親和銀行本店は、その代表作の一つである。増改築を重ねながら形成された建物は、銀行という制度の建築に強い量感を与えた。
白井の建築は「哲学的」という言葉で説明されがちだが、実物は非常に物質的でもある。石、煉瓦、コンクリート、木。材料は思想を象徴する記号として置かれるだけではなく、重さや手触りを持つものとして使われる。
1968年度、親和銀行本店は日本建築学会賞を受賞した。
建築だけでなく、本の表紙もつくる
白井の仕事は建物に限られなかった。書に取り組み、文章を書き、本の装丁も手がけた。
現在も中公新書や中公文庫で、カバーを外すと現れる鳥の図案がある。渋谷区立松濤美術館によれば、これも白井のデザインである。
建築と本では大きさがまったく違う。しかし、文字、余白、材料、手触りをどう組み合わせるかという点では共通している。巨大な建物から手の中の本まで、白井にとってはどちらも形を与える仕事だった。
住宅地の小さな敷地に、美術館を入れる
晩年の代表作が、渋谷区立松濤美術館である。
1978年、白井晟一研究所に基本設計が委託された。敷地は閑静な住宅地にあり、建物の高さは地上10メートルまでという条件があった。一方で、美術館には展示室だけでなく、ホールや図書室なども求められた。
白井は地上部分を2階に抑え、地下にも2層をつくることで必要な面積を収めた。外周の窓は少なくし、中央の吹抜から光を取り込む。
建物は1980年5月に竣工し、1981年10月に開館した。外側を閉じ、内部の中心へ光と水の空間を置く構成は、住宅地の条件を制約として処理するだけでなく、美術館そのものの体験へ変えている。
一本道でなくても、仕事はつながる
白井晟一の経歴を並べると、一見ばらばらに見える。図案を学び、哲学を学び、建築を設計し、書を書き、装丁をする。
けれど、その間には一つの共通点がある。既に用意された形式へ自分を合わせるのではなく、対象ごとに何が必要なのかを考え、素材と言葉から形をつくることだ。
建築家になる前に哲学を学んだことを、建築家になるための無駄な遠回りだったと考える必要はない。白井にとって、その遠回りも後の仕事をつくる一部になった。
人生の途中で選んだものが、最初から一つの職業名に整理されていなくてもよい。別々に見える経験が、後から一つの仕事の中で結び直されることがある。白井の建築は、その可能性を実物として残している。




