一人の人生を読む
神童であることは、仕事を保証しなかった
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadé Mozart)は1756年、ザルツブルクに生まれた。
幼いころから音楽の才能を示したことは有名だ。
ただし、「天才の子どもが自然に音楽を書き始めた」とだけ見ると、半分しか見えない。
父レオポルトは音楽家で、姉ナンネルとヴォルフガングを教え、1760年代には二人を連れてヨーロッパ各地を巡演した。演奏する場所を探し、宮廷や有力者に会い、移動し、次の仕事につなげる。
幼いモーツァルトの才能は、最初から家族が運営する仕事の中にあった。

1780年ごろのモーツァルト一家。左から姉ナンネル、ヴォルフガング、父レオポルト。壁の肖像は1778年に亡くなった母アンナ・マリア。ヨハン・ネポムク・デラ・クローチェ画。パブリックドメイン。 出典
演奏する。曲を書く。人に会う。評価される。次の依頼を得る。
この循環を、彼は子どものころから見ていた。
20代のモーツァルトは、就職に困っていた
後世から見ると、どこの宮廷でも欲しがる天才に思える。
実際にはそうではなかった。
ザルツブルク宮廷で働きながら、よりよい職を求めて旅をしたが、期待した常勤職を得られない時期が続いた。1777年からの旅では母アンナ・マリアを失い、仕事探しにも成功せず、1779年にはザルツブルクの宮廷・大聖堂オルガニストとして戻った。
才能があることと、望む働き方が手に入ることは別だった。
1781年、状況が変わる。
雇い主だったザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コロレドとの関係がウィーンで決裂した。
本人の父宛書簡には怒りが強く残る。ただ、これを「自由を求める天才が圧政を打ち破った」とだけ読むのも危険だ。固定給のある職を失うことは、生活の保証を失うことでもあった。
25歳のモーツァルトはウィーンに残った。
ここから、彼は自分で仕事を取らなければならなくなる。
作曲家だけでは食べられない
ウィーンでの仕事は一つではなかった。
ピアノを教える。貴族の家で演奏する。劇場から依頼を受けてオペラを書く。楽譜を出版する。そして、自分で演奏会を開く。
1782年にはコンスタンツェ・ウェーバーと結婚した。同じ年、『後宮からの誘拐』が大きな成功を得る。
だが、一つの成功が終身雇用を意味するわけではない。
毎年、毎季節、次の客と次の舞台が必要だった。
現代の言葉で完全に置き換えることはできないが、モーツァルトはウィーンで、かなり「フリーランス」に近い働き方を始めていた。
1784年3月20日――父への手紙は、営業報告でもある
1784年春、モーツァルトの演奏活動は好調だった。
3月20日、彼はザルツブルクの父へ手紙を書いた。
そこには自分の演奏会の購読者一覧が添えられていた。
3日前の17日に開いた最初の演奏会は満員だった。新しいピアノ協奏曲も非常によく受け入れられた、と彼は報告している。
それだけではない。
次の劇場公演を予定していたが、ある貴族が自邸でオペラを開くことになった。客の中心になる貴族たちも、優秀な楽団員も、そちらへ流れる。
だからモーツァルトは、公演を4月1日へ延期した。
名曲を思いついている天才の手紙というより、これはかなり具体的な興行主の判断である。
何人が申し込んだか。競合はいつ公演するか。客はどちらへ行くか。演奏者を確保できるか。
そして、その条件の中で新作を書く。
独立するとは、好きな音楽だけを書くことではなかった。
自分の才能が働ける場所を、自分でつくることだった。
一番うまくいった時期には、ちゃんと稼いでいた
モーツァルトは「貧しい天才」として語られやすい。
しかし、1784年前後の姿はそれだけでは説明できない。
演奏会は活況で、収入は改善した。新モーツァルト全集の研究解説によれば、同年秋には家賃460フローリンの新しい住居へ移っている。
もちろん、収入が安定したわけではない。
この働き方には固定給が少ない。流行、景気、戦争、貴族の好み、演奏会の競合がそのまま生活へ響く。
1780年代後半になると演奏機会は減り、モーツァルトは友人ミヒャエル・プフベルクへ繰り返し金を借りるようになる。
成功していた時期と、借金を頼む時期が、同じ十年間にある。
これは矛盾ではない。
むしろ独立して働く人間の収入が、どれほど振れうるかを示している。
オペラは、人と劇場の条件から生まれる
『フィガロの結婚』では、ロレンツォ・ダ・ポンテが台本を書いた。
『魔笛』では、劇場人エマヌエル・シカネーダーが台本を書き、興行を担った。
歌手がいて、演奏家がいて、劇場があり、客がいた。モーツァルトは注文、締切、出演者、劇場、客層といった具体的な条件の中で曲を書いた。
その条件を、後世に残る音楽へ変えることが、彼の作曲家としての仕事だった。
最後の年は、忘れられた衰退期ではない
1791年、モーツァルトは35歳だった。
この年、『皇帝ティートの慈悲』を書き、『魔笛』を完成させ、レクイエムにも取り組んだ。
9月30日に初演された『魔笛』は成功し、モーツァルト自身も重病になる直前まで公演へ足を運んでいた。
11月に体調を崩し、12月5日に亡くなる。
死因を現代の病名で確定することはできない。毒殺説を裏づける確かな証拠もない。
そして「貧しすぎて貧民墓へ投げ込まれた」という有名な像も正確ではない。当時のウィーンでは、彼と同程度の身分の人が共同墓穴へ葬られることは普通だった。
死後、コンスタンツェは作品、書簡、演奏会、伝記制作を通じて夫の音楽を残す仕事を続けた。
神童の本当の難しさ
幼いころのモーツァルトは、人に驚かれるだけで仕事になった。
しかし成人すれば、それでは生きていけない。
誰と働くか。どこで演奏するか。何を書くか。いくらで教えるか。いつ公演するか。
1784年3月20日の手紙には、その判断を自分でする27歳の音楽家がいる。
後世から見ると、彼は最初から「モーツァルト」だった。
本人にとっては違った。
神童として与えられた名声を、自分で続けられる仕事へ作り直さなければならなかった。




