Hegelroom / Biography

Wolfgang Amadé Mozart

音楽 / ザルツブルク / 1756–1791

神童であることは、仕事を保証しなかった。25歳からは、自分で客を集める音楽家になった。

1780年頃の家族肖像から切り出したモーツァルト
Johann Nepomuk della Croce / International Mozarteum Foundation / Wikimedia Commons / Public Domain
1756Born
1791Died
35Age
音楽Field

02 / Profile

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトとは?

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756–1791)は、父レオポルトに育てられた神童から、1781年にザルツブルク宮廷を離れ、ウィーンで演奏会・レッスン・作曲依頼を自分で組み合わせる独立音楽家になった。1784年の父宛書簡には、客を集め、競合する演奏会を読み、日程を調整する仕事人としての姿が残る。

生誕
1756-01-27
死去
1791-12-05
年齢
35歳
出生地
ザルツブルク
活動地域
ザルツブルク、ウィーン、プラハ、ミュンヘン、欧州
分野
音楽、作曲、演奏

03 / Life

一人の人生を読む

神童であることは、仕事を保証しなかった

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadé Mozart)は1756年、ザルツブルクに生まれた。

幼いころから音楽の才能を示したことは有名だ。

ただし、「天才の子どもが自然に音楽を書き始めた」とだけ見ると、半分しか見えない。

父レオポルトは音楽家で、姉ナンネルとヴォルフガングを教え、1760年代には二人を連れてヨーロッパ各地を巡演した。演奏する場所を探し、宮廷や有力者に会い、移動し、次の仕事につなげる。

幼いモーツァルトの才能は、最初から家族が運営する仕事の中にあった。

1780年ごろのモーツァルト一家の肖像

1780年ごろのモーツァルト一家。左から姉ナンネル、ヴォルフガング、父レオポルト。壁の肖像は1778年に亡くなった母アンナ・マリア。ヨハン・ネポムク・デラ・クローチェ画。パブリックドメイン。 出典

演奏する。曲を書く。人に会う。評価される。次の依頼を得る。

この循環を、彼は子どものころから見ていた。

20代のモーツァルトは、就職に困っていた

後世から見ると、どこの宮廷でも欲しがる天才に思える。

実際にはそうではなかった。

ザルツブルク宮廷で働きながら、よりよい職を求めて旅をしたが、期待した常勤職を得られない時期が続いた。1777年からの旅では母アンナ・マリアを失い、仕事探しにも成功せず、1779年にはザルツブルクの宮廷・大聖堂オルガニストとして戻った。

才能があることと、望む働き方が手に入ることは別だった。

1781年、状況が変わる。

雇い主だったザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コロレドとの関係がウィーンで決裂した。

本人の父宛書簡には怒りが強く残る。ただ、これを「自由を求める天才が圧政を打ち破った」とだけ読むのも危険だ。固定給のある職を失うことは、生活の保証を失うことでもあった。

25歳のモーツァルトはウィーンに残った。

ここから、彼は自分で仕事を取らなければならなくなる。

作曲家だけでは食べられない

ウィーンでの仕事は一つではなかった。

ピアノを教える。貴族の家で演奏する。劇場から依頼を受けてオペラを書く。楽譜を出版する。そして、自分で演奏会を開く。

1782年にはコンスタンツェ・ウェーバーと結婚した。同じ年、『後宮からの誘拐』が大きな成功を得る。

だが、一つの成功が終身雇用を意味するわけではない。

毎年、毎季節、次の客と次の舞台が必要だった。

現代の言葉で完全に置き換えることはできないが、モーツァルトはウィーンで、かなり「フリーランス」に近い働き方を始めていた。

1784年3月20日――父への手紙は、営業報告でもある

1784年春、モーツァルトの演奏活動は好調だった。

3月20日、彼はザルツブルクの父へ手紙を書いた。

そこには自分の演奏会の購読者一覧が添えられていた。

3日前の17日に開いた最初の演奏会は満員だった。新しいピアノ協奏曲も非常によく受け入れられた、と彼は報告している。

それだけではない。

次の劇場公演を予定していたが、ある貴族が自邸でオペラを開くことになった。客の中心になる貴族たちも、優秀な楽団員も、そちらへ流れる。

だからモーツァルトは、公演を4月1日へ延期した。

名曲を思いついている天才の手紙というより、これはかなり具体的な興行主の判断である。

何人が申し込んだか。競合はいつ公演するか。客はどちらへ行くか。演奏者を確保できるか。

そして、その条件の中で新作を書く。

独立するとは、好きな音楽だけを書くことではなかった。

自分の才能が働ける場所を、自分でつくることだった。

一番うまくいった時期には、ちゃんと稼いでいた

モーツァルトは「貧しい天才」として語られやすい。

しかし、1784年前後の姿はそれだけでは説明できない。

演奏会は活況で、収入は改善した。新モーツァルト全集の研究解説によれば、同年秋には家賃460フローリンの新しい住居へ移っている。

もちろん、収入が安定したわけではない。

この働き方には固定給が少ない。流行、景気、戦争、貴族の好み、演奏会の競合がそのまま生活へ響く。

1780年代後半になると演奏機会は減り、モーツァルトは友人ミヒャエル・プフベルクへ繰り返し金を借りるようになる。

成功していた時期と、借金を頼む時期が、同じ十年間にある。

これは矛盾ではない。

むしろ独立して働く人間の収入が、どれほど振れうるかを示している。

オペラは、人と劇場の条件から生まれる

『フィガロの結婚』では、ロレンツォ・ダ・ポンテが台本を書いた。

『魔笛』では、劇場人エマヌエル・シカネーダーが台本を書き、興行を担った。

歌手がいて、演奏家がいて、劇場があり、客がいた。モーツァルトは注文、締切、出演者、劇場、客層といった具体的な条件の中で曲を書いた。

その条件を、後世に残る音楽へ変えることが、彼の作曲家としての仕事だった。

最後の年は、忘れられた衰退期ではない

1791年、モーツァルトは35歳だった。

この年、『皇帝ティートの慈悲』を書き、『魔笛』を完成させ、レクイエムにも取り組んだ。

9月30日に初演された『魔笛』は成功し、モーツァルト自身も重病になる直前まで公演へ足を運んでいた。

11月に体調を崩し、12月5日に亡くなる。

死因を現代の病名で確定することはできない。毒殺説を裏づける確かな証拠もない。

そして「貧しすぎて貧民墓へ投げ込まれた」という有名な像も正確ではない。当時のウィーンでは、彼と同程度の身分の人が共同墓穴へ葬られることは普通だった。

死後、コンスタンツェは作品、書簡、演奏会、伝記制作を通じて夫の音楽を残す仕事を続けた。

神童の本当の難しさ

幼いころのモーツァルトは、人に驚かれるだけで仕事になった。

しかし成人すれば、それでは生きていけない。

誰と働くか。どこで演奏するか。何を書くか。いくらで教えるか。いつ公演するか。

1784年3月20日の手紙には、その判断を自分でする27歳の音楽家がいる。

後世から見ると、彼は最初から「モーツァルト」だった。

本人にとっては違った。

神童として与えられた名声を、自分で続けられる仕事へ作り直さなければならなかった。

04 / Timeline

時間の輪郭

  1. 1756

    1月27日、ザルツブルクに生まれる

  2. 1763

    家族で長期の欧州巡演へ。1766年まで各地の宮廷・都市で演奏

  3. 1772

    ザルツブルク宮廷の音楽家として活動

  4. 1778

    パリ滞在中、母アンナ・マリア死去

  5. 1779

    ザルツブルクの宮廷・大聖堂オルガニストとして復帰

  6. 1781

    コロレドとの関係が決裂し、ウィーンで独立活動を始める

  7. 1782

    コンスタンツェ・ウェーバーと結婚。『後宮からの誘拐』初演

  8. 1784

    自主演奏会と購読公演が活況。3月20日、購読者一覧を父へ送る

  9. 1786

    『フィガロの結婚』初演

  10. 1787

    『ドン・ジョヴァンニ』初演

  11. 1791

    『魔笛』初演。12月5日、ウィーンで死去

05 / Works

名曲を作るだけでなく、自分の仕事を組み立てる

01

演奏・興行 / ウィーン / 1784

自主演奏会・購読公演

自ら購読者を集め、新作ピアノ協奏曲を発表し、演奏家として収入を得た。

02

オペラ / ウィーン / 1786

フィガロの結婚

ロレンツォ・ダ・ポンテの台本を得て書いたウィーン期の代表作。

03

オペラ / プラハ / 1787

ドン・ジョヴァンニ

ダ・ポンテの台本、劇場、歌手など具体的な上演条件の中で制作された。

04

ジングシュピール / ウィーン / 1791

魔笛

死の直前に成功が拡大した作品。晩年を単純な衰退として見る像を崩す。

06 / Conditions

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの人生をつくったもの

  • 01

    神童のあとを生きる

    幼少期の名声を、成人後の仕事と生活へ変換しなければならなかった。

  • 02

    独立して働く

    宮廷雇用を離れ、演奏会、レッスン、作曲依頼、出版を自分で組み合わせた。

  • 03

    才能と市場

    作品の質とは別に、客、景気、支援者、日程が生活を左右した。

07 / Read more

もっと知る

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