一人の人生を読む
建築を学び、民間の実務へ出る
村野藤吾は1891年、佐賀県東松浦郡満島村、現在の唐津市に生まれた。1918年、早稲田大学理工科建築学科を卒業する。早稲田の建築は、官庁建築を担う技官を多く送り出した東京帝国大学とは異なり、民間の幅広い領域へ建築家を送り出していく学校だった。村野もその流れの中から出てきた一人である。
卒業後に入ったのは渡辺節の建築事務所だった。渡辺はオフィスや商業建築を数多く手がけた実務家で、村野はここで十年以上働いた。学校で建築を学んだあと、都市の中で実際に建物を成立させる仕事を長く経験してから独立したことになる。
1929年、38歳で自らの事務所を開いた。
一つの様式を繰り返さない
村野の建築を一つの形で覚えるのは難しい。直線的で大きな商業建築もあれば、柔らかな曲面を持つ劇場もある。石を重く見せる建物もあれば、細い手摺や軽い階段を際立たせる建物もある。
共通しているのは、抽象的な様式を先に決めて、あらゆる建物をそこへ当てはめる態度を取らなかったことである。用途、敷地、材料、人の動きに応じて答えを変える。そのため、一見すると別々の建築家が設計したように見える作品さえある。
1957年に竣工した読売会館は、有楽町駅前の大きな商業・文化施設である。都市の巨大なボリュームを扱いながら、壁面には細かな陰影とリズムがつくられている。大きさだけで押し切らず、人が近づいたときに見える表情を残すのが村野の仕事だった。
近代建築から、装飾を追い出さない
20世紀の建築では、装飾を過去のものとして退け、構造や機能を明快に表現することが進歩だと考えられる場面が多かった。村野は近代的な構造や設備を使いながら、それを理由に装飾を捨てなかった。
タイル、石、モザイク、木、金属。材料の表面をどう仕上げるか。階段の手摺をどの太さにするか。床の模様をどう置くか。大きな建築の理念と同じくらい、身体の近くにある細部を考える。
1962年に完成した早稲田大学戸山キャンパスの校舎群でも、建築だけでなく、辻晉堂の石彫やタイルモザイク、長谷川路可の床モザイクなどが空間へ組み込まれた。早稲田大学は、石、ガラス、タイル、スチールといった多様な材料が豊かな表情をつくっていたことを伝えている。
日生劇場では、音響と装飾を分けなかった
1963年、東京・日比谷に日本生命日比谷ビルと日生劇場が完成した。村野を代表する建築の一つである。
客席に入ると、壁も天井も直線ではなく、大きな曲面で包まれている。壁にはガラスモザイク、天井には着色した硬質石膏と多数のアコヤ貝が用いられた。華やかな装飾だが、単に見た目を飾るためだけではない。
日生劇場が公開している村野自身の文章によれば、客席の曲面は音を拡散させることを考えて生まれた。30分の1の模型を作り、音響実験をしながら曲面を訂正していったという。
ここでは「機能」と「装飾」が別々になっていない。音をどう響かせるかという技術的な問題が、そのまま空間の形となり、形の上に材料の豊かさが重なる。村野にとって合理性は、建築を無表情にするための理由ではなかった。
建物の外より、人が触れる場所へ
村野の建築では、階段がしばしば印象に残る。大きな建物の全景より、手摺の曲がり方、段板の薄さ、壁との距離といった部分に設計の密度が表れる。
1966年の千代田生命本社、現在の目黒区総合庁舎もその一例である。企業の本社という大きな制度のための建築でありながら、人が歩き、曲がり、手を添える場所に細かな造形が置かれている。
建築は遠くから写真で見るだけの物体ではない。中に入り、歩き、触れ、時間を過ごす環境である。村野はその当たり前のことを、細部の設計によって繰り返し建築へ戻した。
晩年まで、同じ答えを繰り返さなかった
村野は90歳を超えるまで設計を続けた。1980年に開館した八ヶ岳美術館は、彼が手がけた最後の公設美術館とされる。森の中に連続する曲面の空間を置くその建物は、日生劇場とも読売会館とも違う。
長いキャリアを持つ建築家ほど、「自分らしい形」を反復することもできる。しかし村野は、作品を一つの記号へ固定しなかった。
その代わりに残ったのは、建築を人間の感覚から離さない姿勢だった。石をどう見せるか。階段をどう上るか。劇場で音がどう回るか。大学で学生がどう歩くか。
大きな理念を掲げることと、細部を考えることは対立しない。理念が本当に建築になるのは、人が触れられるところまで降りてきたときである。村野藤吾の仕事は、そのことを大量の実作で示している。




