Hegelroom / Biography

Togo Murano

建築 / 佐賀 / 1891–1984

建築を大きな思想だけで終わらせない。村野藤吾は、人が触れる細部まで設計し続けた。

1954年の村野藤吾
『国際建築』1954年4月号 / Wikimedia Commons / Public Domain
1891Born
1984Died
93Age
建築Field

02 / Profile

村野藤吾とは?

村野藤吾(1891–1984)は、早稲田大学卒業後、渡辺節建築事務所を経て1929年に独立し、日生劇場、読売会館、旧千代田生命本社、八ヶ岳美術館などを設計した建築家。近代建築の技術を使いながら、素材、装飾、曲面、階段や手摺といった身体に近い細部を重視し、単一の様式に収まらない建築をつくり続けた。

生誕
1891年5月15日
死去
1984年11月26日
年齢
93歳
出生地
佐賀県東松浦郡満島村(現・唐津市)
活動地域
佐賀、東京、大阪、京都、兵庫
分野
建築、デザイン、著述

03 / Life

一人の人生を読む

建築を学び、民間の実務へ出る

村野藤吾は1891年、佐賀県東松浦郡満島村、現在の唐津市に生まれた。1918年、早稲田大学理工科建築学科を卒業する。早稲田の建築は、官庁建築を担う技官を多く送り出した東京帝国大学とは異なり、民間の幅広い領域へ建築家を送り出していく学校だった。村野もその流れの中から出てきた一人である。

卒業後に入ったのは渡辺節の建築事務所だった。渡辺はオフィスや商業建築を数多く手がけた実務家で、村野はここで十年以上働いた。学校で建築を学んだあと、都市の中で実際に建物を成立させる仕事を長く経験してから独立したことになる。

1929年、38歳で自らの事務所を開いた。

一つの様式を繰り返さない

村野の建築を一つの形で覚えるのは難しい。直線的で大きな商業建築もあれば、柔らかな曲面を持つ劇場もある。石を重く見せる建物もあれば、細い手摺や軽い階段を際立たせる建物もある。

共通しているのは、抽象的な様式を先に決めて、あらゆる建物をそこへ当てはめる態度を取らなかったことである。用途、敷地、材料、人の動きに応じて答えを変える。そのため、一見すると別々の建築家が設計したように見える作品さえある。

村野藤吾設計の読売会館
1957年竣工の読売会館。Wiiii / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0.

1957年に竣工した読売会館は、有楽町駅前の大きな商業・文化施設である。都市の巨大なボリュームを扱いながら、壁面には細かな陰影とリズムがつくられている。大きさだけで押し切らず、人が近づいたときに見える表情を残すのが村野の仕事だった。

近代建築から、装飾を追い出さない

20世紀の建築では、装飾を過去のものとして退け、構造や機能を明快に表現することが進歩だと考えられる場面が多かった。村野は近代的な構造や設備を使いながら、それを理由に装飾を捨てなかった。

タイル、石、モザイク、木、金属。材料の表面をどう仕上げるか。階段の手摺をどの太さにするか。床の模様をどう置くか。大きな建築の理念と同じくらい、身体の近くにある細部を考える。

1962年に完成した早稲田大学戸山キャンパスの校舎群でも、建築だけでなく、辻晉堂の石彫やタイルモザイク、長谷川路可の床モザイクなどが空間へ組み込まれた。早稲田大学は、石、ガラス、タイル、スチールといった多様な材料が豊かな表情をつくっていたことを伝えている。

日生劇場では、音響と装飾を分けなかった

1963年、東京・日比谷に日本生命日比谷ビルと日生劇場が完成した。村野を代表する建築の一つである。

客席に入ると、壁も天井も直線ではなく、大きな曲面で包まれている。壁にはガラスモザイク、天井には着色した硬質石膏と多数のアコヤ貝が用いられた。華やかな装飾だが、単に見た目を飾るためだけではない。

日生劇場が公開している村野自身の文章によれば、客席の曲面は音を拡散させることを考えて生まれた。30分の1の模型を作り、音響実験をしながら曲面を訂正していったという。

ここでは「機能」と「装飾」が別々になっていない。音をどう響かせるかという技術的な問題が、そのまま空間の形となり、形の上に材料の豊かさが重なる。村野にとって合理性は、建築を無表情にするための理由ではなかった。

建物の外より、人が触れる場所へ

村野の建築では、階段がしばしば印象に残る。大きな建物の全景より、手摺の曲がり方、段板の薄さ、壁との距離といった部分に設計の密度が表れる。

村野藤吾設計の旧千代田生命本社、現在の目黒区総合庁舎
1966年竣工の旧千代田生命本社、現在の目黒区総合庁舎。Wiiii / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0.

1966年の千代田生命本社、現在の目黒区総合庁舎もその一例である。企業の本社という大きな制度のための建築でありながら、人が歩き、曲がり、手を添える場所に細かな造形が置かれている。

建築は遠くから写真で見るだけの物体ではない。中に入り、歩き、触れ、時間を過ごす環境である。村野はその当たり前のことを、細部の設計によって繰り返し建築へ戻した。

晩年まで、同じ答えを繰り返さなかった

村野は90歳を超えるまで設計を続けた。1980年に開館した八ヶ岳美術館は、彼が手がけた最後の公設美術館とされる。森の中に連続する曲面の空間を置くその建物は、日生劇場とも読売会館とも違う。

長いキャリアを持つ建築家ほど、「自分らしい形」を反復することもできる。しかし村野は、作品を一つの記号へ固定しなかった。

その代わりに残ったのは、建築を人間の感覚から離さない姿勢だった。石をどう見せるか。階段をどう上るか。劇場で音がどう回るか。大学で学生がどう歩くか。

大きな理念を掲げることと、細部を考えることは対立しない。理念が本当に建築になるのは、人が触れられるところまで降りてきたときである。村野藤吾の仕事は、そのことを大量の実作で示している。

04 / Timeline

時間の輪郭

  1. 18910歳

    佐賀県東松浦郡満島村(現・唐津市)に生まれる

  2. 191827歳

    早稲田大学理工科建築学科を卒業

  3. 191827歳

    渡辺節建築事務所に入る

  4. 192938歳

    独立して村野建築事務所を開設

  5. 195766歳

    読売会館が竣工

  6. 196271歳

    早稲田大学戸山キャンパスの校舎群が竣工

  7. 196372歳

    日本生命日比谷ビル・日生劇場が竣工

  8. 196675歳

    千代田生命本社(現・目黒区総合庁舎)が竣工

  9. 198089歳

    八ヶ岳美術館が開館

  10. 198493歳

    死去

05 / Works

主な仕事

01

商業・文化施設 / 1957

読売会館

有楽町駅前の都市建築。大きなボリュームの中に細かな窓や外壁の表情を組み込んだ。

02

劇場 / 1963

日生劇場

曲面の客席空間、ガラスモザイク、アコヤ貝を使った天井など、音響と装飾を一体に設計した。

03

オフィス / 1966

千代田生命本社

現在の目黒区総合庁舎。外観だけでなく階段や内部空間の細部まで村野らしい造形を示す。

04

美術館 / 1980

八ヶ岳美術館

晩年の公設美術館。連続するヴォールト状の空間を森の中に置いた。

06 / Conditions

村野藤吾の人生をつくったもの

  • 01

    人の身体から建築を考える

    大きな形式を先に押しつけるより、階段、手摺、壁、素材など、人が触れ歩く場所の感触を積み上げた。

  • 02

    装飾を捨てない

    近代的な構造や設備を使いながら、タイル、石、モザイク、曲面などの装飾的な豊かさを建築から切り離さなかった。

  • 03

    用途ごとに答えを変える

    劇場、庁舎、大学、住宅、美術館に同じ様式を当てはめず、場所と使われ方に応じて設計を変え続けた。

07 / Read more

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