一人の人生を読む
ことばを、あとから獲得する
竹内敏晴は1925年、東京に生まれた。生後まもなく中耳炎を患い、難聴になった。多くの人にとって、声を聞き、まねをし、いつの間にか身につけていくことばを、竹内は同じようには獲得できなかった。
後年の代表作『ことばが劈かれるとき』は、この経験から始まる。筑摩書房の紹介にもあるように、幼時に耳を病んだ竹内が、どのように「こえ」と「ことば」を回復し、自分と世界とのふれ合いを取り戻していったかをたどる本である。ここで重要なのは、難聴が単なる経歴上の出来事ではなく、竹内にとって「人はどうやって相手にことばを届けるのか」という問いの出発点になったことだ。
1951年、東京大学文学部を卒業した竹内は、演出家の岡倉士朗と出会い、劇団ぶどうの会で演出家としての道を歩み始めた。演劇は、書かれた台詞を正確に読むだけでは成立しない。誰が、誰に向かって、どんなからだで声を発するのか。竹内が自分自身のことばの問題として抱えてきた問いは、俳優の訓練とも重なっていった。
演技の問題が、からだの問題になる
ぶどうの会から代々木小劇場へと活動を進めるなかで、竹内は俳優の声や動きを根本から問い直していった。野口体操の創始者・野口三千三とも出会い、演劇の基本訓練として身体へのアプローチに取り組んだ。
1969年、44歳の竹内は、発声練習中に突然「ことばが劈かれる」と後に表現される体験をした。後年の研究でも、この出来事は竹内レッスン形成の重要な転機として位置づけられている。その後、1972年に竹内演劇研究所を開設し、1970年代には「からだとことば」のレッスンを展開した。俳優だけの特殊訓練ではなく、自分のからだに気づき、他者に向かって声を届け、人との関係を組み直す実践へと広がっていく。
『ことばが劈かれるとき』
1975年、『ことばが劈かれるとき』が刊行された。のちにちくま文庫となった同書の目次には、「失われたことば」「発語への身悶え」「師・岡倉士朗との出会い」「こえとの出会い」「話しかけのレッスン」といった項目が並ぶ。
これは、抽象的なコミュニケーション論から始まる本ではない。自分の声がどう生まれたのか、人へ話しかけるとはどういうことなのかを、竹内自身の身体の経験から考えていく。そのため竹内の仕事では、「からだ」と「ことば」を別々の問題として切り離すことができない。
演劇から、教育の現場へ
1979年、54歳で宮城教育大学教授となった。演劇の世界で形成してきたレッスンを、教師や学生、教育の現場へ持ち込むことになる。
竹内は教育を、知識を一方向に伝える仕事だけとして捉えなかった。人が他者の前に立ち、声を出し、相手の反応を受け、自分のからだの状態に気づく。その過程自体を教育の問題として扱った。1980年代には定時制高校などでも演劇的な実践に関わり、その記録は『からだ・演劇・教育』へまとめられた。
1986年からは南山短期大学人間関係科で教えた。演劇の専門家だけではなく、教師、学生、対人援助職など、異なる背景をもつ人たちが竹内レッスンに参加するようになる。
「レッスン」という考え方
竹内の実践が「訓練」ではなく「レッスン」と呼ばれてきたことには意味がある。決められた正解の姿勢や発声法へ身体を矯正するのではなく、まず自分のからだに何が起きているのかを感じる。相手に向かって声を出したとき、届いたのか、届かなかったのかを見る。そしてもう一度試す。
そこでは、からだは個人の内部だけに閉じたものではない。相手との距離や視線、場の空気によって変わる。ことばも、正しい文章を組み立てれば自動的に届くものではなく、誰かへ働きかける行為として捉えられる。
この考え方は、演劇教育だけにとどまらなかった。教育、心理、コミュニケーション、対人援助など、他者と向き合う領域で竹内の著作が読まれてきた理由の一つでもある。
最後まで、からだを通して考える
竹内は晩年までレッスンと演出を続けた。2009年8月29日、武蔵野芸術劇場で「からだ2009 オープンレッスン 八月の祝祭」を上演した。藤原書店の記録では、これが生涯最後の構成・演出作品となった。その9日後、9月7日に84歳で亡くなった。
晩年には、自らの歩みを語り下ろす作業も進めていた。死後2010年に刊行された『レッスンする人』は、最後のおよそ3か月にわたるインタビューをもとに構成された自伝である。
幼少期に音声言語を当たり前には獲得できなかった人が、演劇の世界に入り、声と身体を問い、やがて「人が人に話しかけるとはどういうことか」を教育の場へ広げていった。竹内敏晴の仕事は、ことばを情報としてだけではなく、身体をもった人から別の人へ届く行為として考え直す試みだった。



