一人の人生を読む
机に積まれた原稿を見て、息子のタッドが父親に尋ねた。この紙の束は本になるのか。父は、書いたものがすべて本になるわけではない、と答えた。では、よい出来だったら本になるのか。返事は「たぶん」。その言葉を題名にしたらいい、と息子は言った。
これは小説の一場面ではない。2019年、作家ティム・オブライエン(Tim O’Brien)がラジオ番組で振り返った、息子との実際のやりとりである。原稿はやがて『戦争に行った父から、愛する息子たちへ』(Dad’s Maybe Book)になった。息子たちが大きくなるまでに、父親が伝えておきたいことを書きためた本だった。
オブライエンは50代後半で初めて父親になった。その前に、ベトナム戦争の元兵士として、自分が戦場で見たこと、感じたことを何冊も書いている。そして、その作品の中には、実際には一度も起きていない出来事が何度も登場する。
戦争を嫌った学生が、軍服を着るまで
オブライエンは1946年、アメリカ中西部ミネソタ州のオースティンに生まれ、近くのワージントンという町で育った。母親は小学校教師、父親は保険の仕事をし、第二次世界大戦には水兵として従軍している。父親が硫黄島や沖縄での経験を新聞に書いたこともあった。子どものティムは図書館で物語を読み、少年野球をし、手品の練習をした。兵士としての父親と、物語を読む息子が、同じ家庭に暮らしていた。
大学では政治学を選んだ。ミネソタ州セントポールのマカレスター大学で学生自治会長を務める一方、アメリカが関わっていたベトナム戦争に反対する集会にも参加していた。ベトナムは東南アジアの国で、当時は南北に分断され、アメリカは南側の政府を支援するため大規模な軍隊を送り込んでいた。国内では戦争への支持と批判がぶつかり、徴兵によって若者が軍隊に入れられていた。
1968年、オブライエンは大学を卒業した。21歳だった。作家になることも考えていた青年のもとに、その徴兵通知が届く。反対してきた戦争へ、自分が行かなければならなくなった。
後に書いた『本当の戦争の話をしよう』(The Things They Carried)には、この夏を扱った物語がある。徴兵された主人公ティム・オブライエンがカナダ国境へ車を走らせ、国境の川のそばで、国外に逃げるか戦争へ行くか迷う。名前も故郷も作者と同じなので、本人の体験談のように読める。
しかし、現実のオブライエンはその川へ行っていない。本人は後年のインタビューで、実際の夏はゴルフをし、多くの時間を不安のなかで過ごし、寝つけない日々もあったと語った。戦争に反対しながら、逃げずに従軍したという事実は変わらない。けれども、決断に至るまでの時間は、後に小説で描いたようなはっきりした舞台を持たなかった。
地雷のある村を歩く
1969年、オブライエンは歩兵として南ベトナムのクアンガイ省へ送られた。海から少し入った中部の地域である。米軍は敵の部隊やゲリラを探して村や田畑を移動していたが、どこから銃撃があるか、どこに地雷が埋められているか、簡単には分からなかった。
彼が歩いた地域には、前年の1968年に米兵による住民の大量殺害が起きたマイライ村もあった。オブライエンがここへ赴いたのは事件の翌年である。彼が後に語ったのは、現地の人々の言葉を理解できないまま、地雷を怖れながら村々を歩いた日々だった。
2009年に公開されたインタビューで、彼はこの地域が兵士たちのあいだで「ピンクヴィル」と呼ばれていたことを語った。軍用地図で赤く塗られた地域がピンク色に見えたことに由来する俗称だったという。数十年後、同じ中隊にいた人物から届いた電子メールにその地名が出てきただけで、当時の恐怖がよみがえったとも話している。危険がどこにあるのか分からず歩いた時間は、帰国後も簡単には遠ざからなかった。
彼は別のインタビューで、ベトナムへ持っていったものとして武器や弾薬とともに、両親や恋人からの手紙を挙げている。手紙は家に帰ることのできない兵士と、遠い故郷をつないだ。そこにある怖さは、装備の重さと同じようには量れない。
オブライエンは戦地で負傷し、戦傷章を授与されて1970年に帰国した。体験を振り返る彼の言葉には、同じ部隊の仲間への深い愛情と、戦争自体への拒否感が一緒にある。2019年にも、命の危険のなかで互いに支え合った仲間を愛していること、しかし戦争をもう一度やり直したいとは思わないことを語った。そこで見た兵士の行動を認めることと、戦争への賛成とは、彼の中で同じではなかった。
戦場から帰って、何を書けばよかったのか
帰国後、オブライエンはハーバード大学の大学院で政治学を学んだ。1973年、従軍経験にもとづく『僕が戦場で死んだら』(If I Die in a Combat Zone, Box Me Up and Ship Me Home)を出版する。銃を持つことを望まなかった若者が兵士になり、戦地に送られた経緯を、帰還後の目から書いた最初の本だった。
その後、首都ワシントンの新聞社『ワシントン・ポスト』で記者を務め、やがて小説の執筆に専念する。1975年の最初の長編小説『北の光』(Northern Lights、邦題は仮訳)では、ベトナムへ行った兄弟と、故郷で戦争に反対した兄弟を描いた。戦争をめぐる立場の違いは、遠い国の政治だけでなく、一つの家の中にもあった。
次に書いた『カチアートを追跡して』(Going After Cacciato)では、ある兵士がベトナムの任地から脱走し、はるか遠いパリへ歩いて行こうとする。部隊の仲間がその兵士を追ううち、物語は現実の戦闘と、兵士が思い描く途方もない旅を行き来する。オブライエン自身がパリへ逃げたわけではない。戦争のさなかに別の場所へ行けたら、という望みを、彼は小説の人物に歩かせた。
1978年刊行のこの作品は、翌1979年の全米図書賞を受賞した。軍隊を離れて十年近くが過ぎていた。経験した出来事を伝えるために書き始めた人が、実際には起きなかった出来事を通じても、兵士の心の動きを追えるようになっていた。
国境の川も、娘との旅も
1990年に出た『本当の戦争の話をしよう』では、その書き方がさらに入り組む。英語の原題は「彼らが持ち歩いたもの」という意味で、兵士の装備品と、一人ひとりが抱える恐怖や失った人の記憶を描く連作短編集である。章ごとに異なる兵士や出来事が現れ、同じ過去が何度も語り直される。
作品には「ティム・オブライエン」という語り手が登場する。戦争を経験し、帰国して作家になった人物として語るため、読者はつい作者の回想だと受け取るだろう。ところが、前に触れたカナダ国境の旅も、そこで会う老人も創作だった。オブライエンはインタビューで、その老人は父や母、祖国、良心などの存在を一人の人物として表したものだと説明している。
もう一つの作品には、キャスリーンという娘を連れてベトナムを再訪する「ティム」が登場する。戦場を離れて長い年月を過ごした父が、子どもに自分の過去を見せようとする話である。しかし、この娘も小説上の人物だった。1990年にオブライエンには子どもがいなかった。実際に1994年、彼はベトナムを再訪するが、同行したのは当時の恋人である。
この事実は、後年ハリー・ランサム・センターに残された原稿を調べた文学研究者によっても確かめられた。初期の原稿には、国境の旅や娘の存在が作り話だともっと直接に明かす一節があったが、刊行版では削られていた。作品を読む人に、どの時点で、何が本当だと感じられるのか。その順序までが推敲の対象になっていた。
オブライエンが実際に戦地へ送られ、負傷し、家からの手紙を携えていたことは動かない。それでも彼は、出来事を正確に並べるだけでは当時の恐怖やためらいが伝わらないと考えた。自分には起きなかった出来事を書くのは、そのためでもあった。実際の人生と小説上の「ティム」を区別すると、なぜ彼がその書き方を選んだのかが分かってくる。
作家であることが、暮らしのすべてではなかった
1994年には、戦争の過去を抱える政治家と、湖畔で姿を消す妻を描いた『失踪』(In the Lake of the Woods)を刊行した。主人公はオブライエン本人ではない。戦争は、戦場を離れた後の夫婦の暮らしや、他人に見せられない記憶を描く物語にも入り込んでいった。
『失踪』の刊行後には執筆をやめかけ、約9か月、筆を止めた。それでも仕事に戻り、2002年には『世界のすべての七月』(July, July)を刊行する。1969年に大学を卒業した人々が、約30年を経て同窓会で再会する小説だった。戦場を直接の舞台にしなくても、かつての若者がその後をどう生きたかを描くことができた。
もっと大きな生活の変化は、50代後半になってから訪れた。息子のティミーとタッドが生まれ、オブライエンは父親になった。本人は以前、子育てをする自信がなく、父になることを怖れていたと語っている。年を重ねて初めて子どもを育て、二人が大きくなった頃には、自分が彼らと一緒に過ごせる時間を意識せずにはいられなかった。
そこで息子たちへ書き始めたのは、戦争の説明だけではない。父の若い頃のこと、日々の暮らし、年を取って考えるようになったこと、自分が誤ることの多さ。二人がまだ読めない文章も、いつか手渡せるように書きためていった。2019年のインタビューでは、戦友への変わらぬ愛情と、戦争を二度と選びたくない気持ちを、息子たちに向けた手紙の話とともに語っている。
机上の原稿を見たタッドが「本になるのか」と尋ねたのは、こうした執筆の途中だった。戦場についての著作では、人に伝えるために架空の人物を作ることもあったオブライエンが、この本では自分の家にいる二人の子どもへ語りかけていた。原題にある「たぶん」という言葉は、完成を言い切れない作家の言葉であると同時に、何でも知っている父親を演じない人の言葉にもなった。
午前二時に書く人
2019年の手紙の本の後にも、仕事は終わらなかった。2023年、オブライエンは『虚言の国 アメリカ・ファンタスティカ』(America Fantastica)という長編小説を発表した。長編としてはおよそ20年ぶりだった。今度の舞台はベトナムの戦場ではなく、嘘や作り話が広がる現代のアメリカ社会である。事実と作り話をどう扱うかという関心は続いていたが、扱う人々や場所は変わっていた。
同じ年のインタビューで、彼は不眠に悩んだ時期から午前二時頃に起き、台所を片づけて書くようになったと話した。最初は望まなかった習慣が、やがて好きな時間になったという。夜明け前の静けさの中では、思いがけず言葉が浮かぶこともあった。
1968年の夏、戦争へ行くことに悩んだ青年は、実際にはカナダ国境へ行かなかった。何年も後に、その旅を小説に書いた。さらに年を重ねると、今度は実在する息子たちへ、戦場や家庭での自分について手紙を書いた。小説と手紙では、書く相手も書き方も違っていた。
戦友への愛情は戦争への反対を消さず、父になってもすべての答えを持てたわけではなかった。年を重ねた彼は、夜明け前に台所を片づけ、また机に向かっていた。机上の原稿は本になるのか。息子の問いに返した「たぶん」という言葉が、まだそこにある。




