一人の人生を読む
23歳の渋沢栄一は、銀行をつくろうとしていなかった
渋沢栄一という名前には、「日本資本主義の父」という言葉がついて回る。
第一国立銀行をはじめ、製紙、紡績、ガス、運輸、保険など数百の企業や団体に関わった。晩年には『論語と算盤』を語り、利益だけではなく道徳を重んじた実業家として知られている。
ところが、23歳の渋沢が考えていた社会の変え方は、銀行でも会社でもなかった。
1863年、渋沢は従兄の尾高惇忠、渋沢喜作らと、高崎城を奪い、武器を手に入れ、横浜の外国人居留地を攻撃する計画を立てていた。
計画は実行直前に中止された。
それからわずか十年後、33歳の渋沢は日本最初期の近代銀行を動かす中心人物になる。
幕府を倒そうとした青年が幕臣になり、明治政府の官僚になり、最後には官を辞めて民間へ出る。
渋沢栄一の91年を面白くしているのは、最初から正しい答えを持っていたことではない。むしろ、社会を変えたいという方向を残したまま、そのための方法を何度も取り替えたことである。
血洗島では、「論語」と「算盤」は別々の世界ではなかった
1840年3月16日、渋沢は武蔵国血洗島村、現在の埼玉県深谷市に生まれた。
家は農家だった。ただし、畑を耕すだけではない。藍玉をつくって売り、養蚕にも関わり、原料を仕入れ、品質を見て、価格を決め、取引をする。渋沢自身も若いころから家業を手伝った。
一方で、父から学問の手ほどきを受け、従兄の尾高惇忠から『論語』などの漢籍を学んだ。
後年の有名な言葉を借りれば、ここにはすでに「論語」と「算盤」があった。ただし、若い渋沢がこの時点で「道徳経済合一」という完成した思想を持っていたわけではない。
学問と商いが、そもそも同じ生活の中にあったのである。
1858年、18歳の渋沢は尾高惇忠の妹・千代と結婚した。そのころから、彼の関心は家業の外へ大きく広がっていく。
23歳、城を奪おうとする
幕末、日本は開国をめぐって大きく揺れていた。
渋沢は尾高惇忠らの影響を受け、尊王攘夷思想へ傾いていく。外国勢力を排し、幕府を倒し、政治を変える。そのためには実力行使も辞さないところまで進んだ。
1863年に立てたのが、高崎城を奪取し、その武器を使って横浜の外国人居留地を攻撃する計画だった。
しかし、計画は中止される。
後年の回想では、無謀な蜂起では政治を変えられないという意見を受け、渋沢たちは進路を考え直したと語られている。どこまで当時の心の動きを正確に再現しているかは分からない。それでも、実際にこのあと選んだ道は大きく変わった。
1864年、渋沢は一橋慶喜に仕える。
昨日まで幕府を倒そうとしていた青年が、将軍候補の家臣になる。
立場は大きく変わった。ここから渋沢は、外から政治を壊そうとするより、組織の内部で人と金を動かす仕事へ入っていく。
27歳、倒そうとした幕府の側からヨーロッパへ行く
一橋家で渋沢は、兵を集めることだけではなく、財政や家政の仕事にも関わった。実務能力を認められ、1867年、徳川昭武に随行してパリ万国博覧会へ向かう。
渋沢は27歳だった。
フランスをはじめ欧州各地を巡り、銀行、会社、鉄道、都市の仕組みを見る。財団の研究によれば、渋沢がとくに驚いたのは、資本を集めて事業を進める組織と、官と民の距離の近さだったという。
日本では、役人の側が上で、商人は下に見られる。その感覚を渋沢は青年期から強く意識していた。
ところが欧州では、商工業が社会を動かし、その人々が公的な場でも大きな役割を持っている。
渋沢が帰国したとき、幕府はもう存在しなかった。
倒そうとした幕府に仕え、その幕府の使節として海外へ行き、帰ってくると仕える政府そのものが消えている。
ここでも、もう一度進路を選び直すことになる。
29歳、旧幕臣が明治政府へ入る
帰国後、渋沢は静岡に移った。そこで商法会所を設け、商業と金融を組織する仕事を始める。
本人は新政府の官僚になるつもりではなかったと後年語っている。しかし1869年、政府に招かれて東京へ出ることになった。
大蔵省では、租税、貨幣、銀行、会計といった、新しい国家に必要な制度の整備へ関わった。
幕府を倒そうとした人が幕臣になり、その幕臣が今度は明治政府の制度をつくる。
立場だけを追うと、渋沢の人生は何度も反転している。
ただ、仕事の内容を見ると、少しずつ共通するものが見えてくる。
人と金が動く仕組みをどうつくるか。誰か一人の力ではなく、組織として社会を動かすにはどうすればいいか。
渋沢の関心は、しだいにそこへ集まっていった。
33歳、政府を辞めた翌月に銀行をつくる
1873年、政府内では各省が求める支出と財政をどう抑えるかをめぐって対立が起きていた。
5月4日、渋沢は井上馨とともに辞表を出す。
そして6月11日、第一国立銀行の創立総会に出席した。
この日の記録には、渋沢が何をしたかがかなり具体的に残っている。
銀行の営業をどうするか。役員をどう選ぶか。総監役という役を置くか。さらに自分で草案した規則を読み上げ、株主の賛同を求めた。
ここにいるのは、「近代化の理念」を語るだけの思想家ではない。
会議を開き、規則をつくり、役割を決め、出資者の合意を取り、実際に組織を動かす人である。
銀行は7月20日に営業を始めた。
渋沢の活動はここから一気に広がっていく。
「500社をつくった人」と言うと、少し違う
渋沢はその後、王子製紙、大阪紡績、東京瓦斯をはじめ、さまざまな企業・経済団体の創立や育成に関わった。
一般には「約500社」と言われる。渋沢栄一記念財団の研究では、集計方法によって約470社とされることもある。
ただし、「渋沢が500社を創業して経営した」と考えると実像から離れる。
彼が重視したのは、自分一人で会社を所有することではなかった。
必要な事業があるなら、そこに適した人を探し、資本を集め、信用をつなぎ、組織を成立させる。
渋沢はこの考え方を「合本」と呼んだ。
渋沢栄一記念財団の研究では、合本主義を、単なる株式会社制度ではなく、公益という目的のために「人材」と「資本」を集める考え方として整理している。
これは、渋沢が財閥のように自分の家の支配下へ事業を集めなかったことともつながる。
会社をたくさん持つのではなく、会社が生まれ、別の人間が動かせる仕組みを増やす。
渋沢の仕事の特徴は、会社の数そのものより、こちらにあった。
「論語と算盤」は、若いころからの標語ではなかった
渋沢は実業を続ける一方で、教育、福祉、医療などの社会公共事業にも関わった。
利益を得ることと、公益に関わることを、別々の人生として分けなかった。
その考えを象徴する言葉が「論語と算盤」である。
ただし、『論語と算盤』という本が刊行されたのは1916年。渋沢は76歳になっていた。
これは若い日に書き上げた思想書ではない。各地で長年語ってきた講演や談話を、後から編集して一冊にしたものだった。
そこで渋沢は、富を増やすこと自体を否定していない。むしろ実業が力を持ち、国が豊かになる必要を繰り返し語る。
同時に、正しい道理に基づかない富は長く続かないとも考えた。
道徳か、利益か。
渋沢の答えは、どちらかを捨てることではなかった。
利益を生む仕組みの中に、どうやって道徳や公益を入れるか。それを実業の問題として考えていた。
76歳で「引退」しても、仕事は終わらない
1916年、渋沢は第一銀行など主要な実業界の役職から退いた。
しかし、活動そのものをやめたわけではない。
教育、福祉、国際親善へ仕事の重心が移っていく。
とくに晩年には日米関係の民間外交に力を入れ、80代でもアメリカへ渡った。1923年の関東大震災後には救援・復興にも関わった。
若いころ、社会を変えるには武器が必要だと考えた人が、晩年には、企業、学校、福祉組織、国際的な人的関係を通して社会へ働きかけている。
方法は、ほとんど別物になっていた。
1931年11月11日、渋沢栄一は91歳で死去した。
一貫していたのは、答えより「方法を変えること」だった
渋沢栄一を『論語と算盤』の人としてだけ読むと、最初から道徳的な実業家だったように見える。
「日本資本主義の父」とだけ呼べば、近代経済をつくるために生まれてきた人のようにも見える。
実際の人生は、もっと不安定だった。
城を奪おうとする。
計画をやめる。
幕府側に仕える。
その幕府が消える。
新政府に入る。
そこも辞める。
そして民間で銀行や会社をつくる仕組みへ向かう。
渋沢が一生同じ場所に立っていたわけではない。
むしろ、同じ方法が通用しなくなるたびに、別の場所へ移った。
その末にたどり着いたのが、自分一人が強くなる方法ではなく、人と資本と信用を集め、他人と一緒に組織を動かす方法だった。
渋沢栄一の人生で見るべきなのは、500という会社の数だけではない。
社会を変えるために、自分のやり方そのものを何度も変えた。その長い試行錯誤の方である。




