一人の人生を読む
1866年、薩摩藩と長州藩の間で交わされた約束をめぐり、一通の手紙が残された。長州側の木戸孝允は、話し合った内容を六か条にまとめ、坂本龍馬に確認を求めた。龍馬はその手紙の裏に、書かれている内容に相違がないと朱筆で返している。
政治上の大きな約束にも、こうした確かめ合う仕事があった。土佐藩を離れていた龍馬は、なぜその場に関わるようになったのか。彼の足跡を追うと、書簡のやり取りだけでなく、船を動かす仲間、家族への手紙、事故の後始末までが見えてくる。
高知の家にいた末っ子
坂本龍馬は1835年、土佐国高知城下に生まれた。旧暦の11月15日は、現在使われている暦では1836年1月3日にあたる。父は八平、母は幸。兄姉が四人おり、龍馬は末っ子だった。坂本家は、才谷屋という商家から分かれて武士の身分を得た郷士の家である。武士の家ではあっても、土佐藩の上士とは身分の隔たりがあった。
少年時代には母の幸を亡くし、継母の伊与とともに育った。三歳年上の姉・乙女とは、その後も手紙を交わすことになる。少年時代の龍馬については、勉強が苦手だったとか、泣き虫だったという話も知られる。だが、そうした人物像を確かめる同時代の記録は乏しい。はっきりしているのは、十代で剣術を学び、1853年には修行のため江戸へ出たことだ。
江戸で剣を学んだからといって、進む道がすぐ決まったわけではない。外国船が日本に来航し、幕府の外交をめぐって諸藩の立場が揺れ始めていた。1861年、龍馬は武市半平太らが進めた土佐勤王党の活動に加わる。しかし翌1862年、土佐藩の許しを得ず国元を出た。脱藩は、故郷や藩の立場から離れて生きることでもあった。
剣術から船の仕事へ
脱藩後の龍馬が関わるようになったのは、幕臣の勝海舟が取り組んでいた海軍の仕事だった。勝は外国の船と技術に学び、日本の海上防衛を担う人材を育てようとしていた。龍馬は勝のもとに出入りし、船や航海について学び始める。剣術で一人が身につける技と違い、船を動かすには仲間の知識も、資金も、訓練の場も必要だった。
この頃の龍馬は、姉の乙女に何通もの手紙を書いている。1863年3月の手紙では、勝の弟子となった自分の近況を知らせた。6月の手紙には、外国船をめぐる事件への憤りや、国の政治を変えたいという激しい言葉がある。この頃の龍馬は、薩摩と長州を結ぶ交渉に関わる前から、幕府の外交に強い不満を抱いていた。
その同じ6月の手紙に、乙女が出家して山へ入りたいとこぼしたことへの返事もある。龍馬は冗談交じりに旅の方法をあれこれ書き送った。政治への苛立ちと、姉をからかう親しさが、一通の手紙に収まっている。藩を出た後も、乙女は龍馬が外での暮らしや考えを知らせる相手であり続けた。
勝の海軍教育に関わる活動は、幕府内の事情にも左右された。龍馬はやがて、その活動をそのまま続けるのではなく、長崎へ拠点を移して別の形で仲間と仕事を始めることになる。
長崎で仲間と始める
1865年、龍馬たちは長崎で亀山社中の活動を始めた。船を使った輸送や物資の取り扱いに関わる集まりで、薩摩藩などの支援も受けていた。龍馬一人が船も資金も持って動かした事業ではない。藩の外で仕事をするには、別の藩の援助、船を扱える仲間、取引をする相手が要った。
長崎での活動が形を取り始めた頃、龍馬は楢崎龍、通称お龍との関係を深めていた。1865年9月には、京都の寺田屋から乙女らへ送った手紙で、お龍の人となりや境遇を知らせている。親しい人を故郷の家族に紹介する手紙が残っている一方、二人がいつ正式に夫婦となったかは、後年の回想と同時代の記録を慎重に分けて考える必要がある。
亀山社中で船に関わる仕事をしながら、龍馬は藩同士の政治的な交渉にも足を運んだ。薩摩と長州は、幕府との関係や政局をめぐって互いに距離を置いていた。その間をつなぐ動きには、龍馬だけでなく中岡慎太郎をはじめ複数の人物が関わっていた。龍馬の仕事は、もともとの身分や所属に頼れない立場から、各地で築いた関係を使うものになっていた。
六か条の裏に書いたこと
1866年旧暦1月、薩摩と長州の協力に関する話し合いがまとまった。長州側の木戸孝允は合意を六か条に整理し、話し合った内容と相違がないか、龍馬に確認を求めた。
その直後の旧暦1月23日、龍馬は京都・伏見の寺田屋で襲撃され、手を負傷した。龍馬が木戸の手紙の裏に朱筆で返事を書いたのは、負傷後の旧暦2月5日だった。六か条の内容に相違がないと証した、その裏書がいまも残っている。
木戸たちが取り決めを文書にまとめ、龍馬がその内容を確かめて返す。朱筆の短い返事には、藩と藩の交渉における龍馬の具体的な役割が記録されている。ただし、合意がまとまるまでには多くの人物が関わっていた。木戸はその後の手紙で、寺田屋で襲われた龍馬の身を案じ、もっと用心するよう勧めている。
龍馬はお龍を伴って薩摩へ赴き、傷を癒やしながら各地を巡った。二人の旅は後に新婚旅行としてよく紹介されるが、ここで確かに言えるのは、負傷した龍馬が妻とともに療養へ向かったことである。京都で傷を負い、薩摩で回復を図る時間が、次の活動の前に挟まっていた。
沈んだ船と、残る約束
1867年春、亀山社中は海援隊という組織に改められた。海援隊の規則には、航海術や英語などを学ぶことが盛り込まれている。大きな志だけで人が集まるわけではなく、船を動かす技術を身につけ、役割を分ける必要があった。こうした規則を定めるのも、龍馬たちの仕事だった。
その年の旧暦4月23日、海援隊が運航していた船「いろは丸」が紀州藩の船と衝突し、やがて沈没した。船を失えば運航はできず、誰が損害を負担するのかという問題が残る。龍馬らは鞆の港で紀州藩側と話し合い、航海の記録などを確保した。交渉は長崎へ持ち越され、土佐藩の後藤象二郎や薩摩藩の五代友厚らも関わった。
この出来事では、相手の藩とどう折り合いをつけ、損害をどう認めさせるかが課題になった。合意を取り付ける話し合いも、沈んだ船の賠償を求める話し合いも、異なる立場の人間を相手にする。しかし、賠償の交渉には、事故の記録を押さえ、自分たちの主張を裏づける作業が欠かせなかった。
交渉が続く同年旧暦5月、龍馬は知人の三吉慎蔵へ手紙を送り、自分にもしものことがあれば、お龍が土佐へ帰れるよう世話をしてほしいと頼んでいる。賠償交渉に奔走する一方で、妻のその後の暮らしを知人に頼んでいた。政治や船の仕事で築いた人とのつながりは、お龍を託す相手にもつながっていた。
まだ形になっていない政治
同じ1867年、龍馬は土佐藩の後藤象二郎らと政治のあり方についても協議を重ねた。幕府が政治を朝廷へ返す大政奉還を含め、新たな議会や官制、外交などについて構想した案が、いわゆる「船中八策」である。土佐藩はこうした考えをもとに、大政奉還を幕府へ進言した。徳川慶喜が大政奉還を表明したのは、その年の秋だった。
ただし、藩や幕府を動かしたのは、龍馬一人ではない。土佐藩内の判断、諸藩の思惑、幕府自身の置かれた状況が関わっていた。龍馬は、長崎での海運の仕事を手放して政治家になったというより、船の仕事と政局への関与を並行させていた。
龍馬の直筆で現在まで伝わっている政体案に『新政府綱領八策』がある。「船中八策」と密接に関わるが、同じ現存原本ではない。そこには新しい政治の担い手をどう定めるかという問題が残され、伏せられた人名を誰と読むかも定まっていない。案を書いた人物が、完成した政府の人事まで決められたわけではなかった。
京都で途切れた続き
龍馬が陸奥宗光へ送った、刀剣についての用件を含む手紙が残っている。1867年旧暦11月13日付と推定されるその手紙は、政治の構想と同じ時期に、身近な仲間との具体的な頼み事が続いていたことを知らせる。
同年の旧暦11月15日、龍馬は京都の近江屋で中岡慎太郎と会っていたところを襲われ、命を落とした。中岡も重傷を負い、その二日後に亡くなった。大政奉還が表明されてから、まだ一か月ほどしか経っていなかった。龍馬は満31歳。海援隊の仕事も、政府の構想も、本人がその先を確かめる機会はなかった。
土佐の家を出てから、龍馬の身の置き場は何度も変わった。勝のもとで学び、長崎で船を扱い、木戸の手紙の裏に返事を書き、沈んだ船の賠償を交渉した。姉には政治への怒りと冗談を書き、妻のことは友人へ頼んだ。明治の政治がどのような形をとるか、龍馬自身が見届けることはなかった。それでも、交渉のために書いた朱筆の短い返事と、家族を気遣う手紙は、いまも同じ人の筆跡を伝えている。




