一人の人生を読む
1873年10月23日、西郷隆盛は明治政府に辞職願を出した。西郷は陸軍大将であり、政府の重要な意思決定に加わる参議でもあった。翌日の辞令で参議などの辞職は認められたが、陸軍大将の地位は残された。幕府を倒し、新政府を築く仕事を担ってきた西郷は、政治の中心を離れて鹿児島へ帰ることになる。
四年後、西郷はその政府の軍隊と戦い、鹿児島の城山で命を落とす。政府ができたとき、西郷はその中心にいた。それなのに、政府を去ってから彼のもとには武器を持った若者たちが集まり、やがて戦争になった。その間に西郷は何をしていたのだろうか。
鹿児島城下の家から
西郷が生まれたのは1828年、薩摩藩の城下町だった。今の鹿児島市にあたる下加治屋町で、下級藩士の家の長男として育つ。弟妹の多い家は裕福ではなかった。武士という身分には属していても、城下の武士の間には細かい序列があり、西郷の家はその下の方にいた。
少年時代には、近隣の年上の若者たちと学び、武芸を鍛える「郷中」の仕組みの中で成長した。十代で藩の役人として働きはじめるが、家柄だけで中央政治に近づける立場ではなかった。
その行き先を大きく変えたのが薩摩藩主の島津斉彬である。斉彬は西郷を取り立て、京都や江戸の政治に関わらせた。当時、将軍の後継者や朝廷との関係をめぐって幕府と諸藩が揺れていた。藩内では高い家格を持たなかった西郷が、藩主の意向を携えて政治の現場を歩くことになった。
しかし、1858年に斉彬が急死する。幕府が反対派を取り締まる安政の大獄も進み、西郷の立場はたちまち危うくなった。西郷は僧の月照とともに入水し、月照は亡くなったが西郷は助かった。ほどなくして奄美大島へ送られ、藩の中央政治から遠ざけられる。
島に残した暮らし
奄美大島では龍郷で暮らし、愛加那という女性と家庭を築いた。二人の間には菊次郎と菊草という子が生まれた。藩の政治から遠ざけられた年月は、家族と暮らした年月でもあった。
政治への復帰は、その島での暮らしを変えることになった。奄美から呼び戻され、藩政に復帰した後、今度は実権を握る島津久光と衝突する。西郷は徳之島、さらに沖永良部島へと再び流された。中央の仕事に戻れるかどうかは、本人の努力だけでは決まらなかった。
再び政治の中心へ向かった西郷は、愛加那たちとの島での暮らしをそのまま本土へ移すことはできなかった。奄美に残る家族と、京都や江戸へ向かう西郷は、別々の場所で暮らすことになった。
攻める軍を止める
再登用された西郷は、薩摩の軍事・政治交渉の中心に立つ。はじめは幕府側の長州征討に関わりながら、のちに長州藩との協力を進め、1866年には薩長連合の実現に加わった。薩摩と長州はそれまで対立した時期も長かった。かつて敵対した長州と手を結ぶことが、幕府を倒す動きの支えとなった。
1868年、鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争で新政府軍が優位に立つと、その軍は江戸へ向かった。幕府の拠点である江戸城を攻撃すれば、江戸の町を巻き込む大きな戦いになりかねない。旧幕府側で交渉にあたったのは勝海舟だった。
1868年4月5日(旧暦三月十三日)、二人は高輪の薩摩藩邸で会った。勝の日記には、戦うか戦わないかの結論を翌日に持ち越す旨が記されている。会談は翌日にも続いた。西郷は江戸に迫る新政府軍の参謀として、勝は旧幕府側の代表として向き合った。
この会談に先立つ同年二月、西郷は大久保利通へ、神戸で日本側の兵と外国人が衝突した事件を早く収めるよう書き送っていた。解決が遅れれば外国から侮られると懸念していたのである。戦争が続くなかで、新政府は外国との関係にも対処しなければならなかった。
江戸城は総攻撃を受けずに明け渡された。勝と西郷の交渉に加え、旧幕府側と新政府側それぞれの判断が重なっての開城だった。西郷にとっては、軍を進めるだけでなく、攻撃を見合わせる判断に携わった出来事でもあった。
藩をなくす仕事
幕府が倒れた後には、政治の仕組みそのものをつくり直す仕事が待っていた。西郷は明治政府の参議となり、1871年の廃藩置県に関わった。全国の藩を廃し、県を置くという改革は、江戸時代から続く各藩の支配を終わらせるものだった。藩士や旧藩主にとって、それまでの身分や仕え先が大きく変わる決定でもある。
改革を告げるだけでは、各地の藩が従う保証はない。西郷は中央政府の軍事力を背景に、その実施を支えた。かつて薩摩藩の下級藩士だった人物が、藩という仕組みをなくす側に立っていた。
岩倉具視らが欧米への使節団として政府を離れていた間も、西郷は国内に残る政府の一員として働いた。政府では学制や徴兵制などの改革も進んだ。西郷はその判断に加わったが、制度を一人でつくったわけではない。
西郷と大久保利通は、ともに薩摩から出て維新を進めた人物だった。1868年には西郷が外交上の問題を大久保に書き送っていた。その二人の間にも、新国家をどのように進めるかで意見の隔たりが現れる。
席を立つ日
対立が表面に出たのは1873年、朝鮮への使節派遣をめぐる議論だった。新政府と朝鮮との外交関係はうまく進んでおらず、西郷は自ら使節として渡る案を進めた。一方、欧米視察から戻った大久保らは、国内の改革を優先し、派遣に反対した。
この対立は「征韓論」と呼ばれる。西郷は自らの使節派遣を求めたが、その先に何を想定し、外交交渉と軍事衝突の可能性をどう考えていたかについては、解釈が分かれる。
十月十五日に西郷の派遣がいったん内定すると、大久保は十七日に辞表を提出した。西郷が辞職を願い出たのは二十三日。翌二十四日には、明治天皇が派遣の無期延期を認めた。新政府をともに支えた二人は、この一連の決定を経て袂を分かった。
西郷はまもなく東京を離れ、鹿児島へ帰った。参議の職を辞しても陸軍大将の地位は残ったが、政府の政策を決める場からは退いた。
鹿児島に集まった若者たち
帰郷した西郷のまわりには、新しい政府への不満を抱く士族の若者たちが集まった。廃藩置県と徴兵制によって、かつて武士に与えられていた役割や待遇は大きく変わり始めていた。
西郷は1874年、鹿児島に私学校を設立した。学校といっても、教室で学問を教えるだけの施設ではない。若者たちは漢文を学び、銃や大砲の扱いを訓練した。分校も広がり、鹿児島の士族を結びつける大きな組織になった。西郷に従って政府を辞めた人びとも、この土地で新しい役割を求めていた。
中央の政治から離れた西郷も、農作業をする若者たちに交じることがあったと、地元の記録は伝える。帰郷後の生活を戦争の準備だけで説明することはできない。教育と労働があり、同時に武器を扱う訓練があった。
政府の側から見ると、鹿児島には中央政府の方針に従わない独自の力が育ちつつあった。私学校に集まった側から見れば、中央政府は、自分たちを支えてきた仕組みや働く場を変えていく存在だった。西郷が帰ってきた鹿児島は、すでに以前の薩摩藩ではない。そこに残る武士たちと新政府との対立は、しだいに深まっていた。
率いること、止められないこと
1877年一月末、私学校の生徒らが政府の火薬庫を襲った。政府が鹿児島へ密偵を派遣していたことも、双方の不信を強めた。
二月七日、かつての盟友・大久保利通は伊藤博文に書簡を送った。大久保は西郷の人柄や伝え聞いた近況から、火薬庫襲撃に本人が関わったとは考えにくいと記している。これは当時の大久保の判断であり、襲撃の経緯を最終的に確定する証拠ではない。
その後、西郷自身が軍勢を率いた。二月十五日、「政府に尋問の筋あり」として鹿児島を出発する。事態は、私学校の若者たちと政府との対立から、西郷が先頭に立つ大規模な戦争へ変わった。
西郷軍は熊本方面へ進み、政府軍と戦った。戦闘は九州各地に広がったが、次第に追い詰められ、宮崎を経て鹿児島へ退く。1877年九月、残った兵は城山に立てこもった。二十四日の政府軍総攻撃によって西郷軍は壊滅し、西郷も命を落とした。四十九歳だった。
戦争が始まった1877年二月、政府は西郷の官位を剥奪していた。1873年の辞職の際に残された陸軍大将の地位も、このとき失われた。かつて自らが成立を支えた政府から、今度は討伐される側になっていた。
九年前、西郷は勝海舟と江戸城への攻撃を避ける交渉をしていた。その西郷が、鹿児島では自ら兵を率いて政府と戦い、城山で死んだ。両者の間には、藩をなくす改革に携わった日々、盟友の大久保との決裂、鹿児島での私学校の設立がある。その転換は、西郷が周囲の人びとと結んできた関係の変化と切り離せない。




