一人の人生を読む
1864年の秋、京都の新選組で副長を務めていた土方歳三は、近藤勇と、故郷・多摩の佐藤彦五郎に長い手紙を送った。
数日前、新選組に入りたいという若者が二人、訪ねてきた。ところが刀を持たず、態度も大きかったという。土方は隊員たちへの示しがつかないと憤り、今後このような者を送らないでほしいと書いた。手紙には、それでも人手を必要としていることや、隊員が西洋式の砲術を毎日訓練していることも記されていた。
刀を携えずに来た若者の振る舞いを問題にする一方で、人員の補充を求め、訓練の進み具合を報告する。土方が京都で負っていたのは、剣を振るうことだけでは済まない仕事だった。
多摩の人びとの間で
土方は1835年、武蔵国多摩郡石田村、現在の東京都日野市にあたる地域の農家に生まれた。
幕府の直轄地だった多摩には、農業や商いを営みながら剣術を学ぶ人びとのつながりがあった。土方は天然理心流を学び、のちに新選組の局長となる近藤勇らと交わった。日野宿の佐藤彦五郎は土方の義兄にあたり、こうした人びとを物心両面で支える存在でもあった。
1860年、知人の小島鹿之助の母、きくが風邪をこじらせたと聞き、土方は薬を取り寄せる世話をした。きくへの手紙では、まず渡した薬を試して具合がよければ知らせてほしい、追加を手配する、と伝えている。一度にたくさん飲まないようにも注意し、家族への挨拶を添えた。
このころはまだ新選組が生まれる前だった。土方は多摩の知人の病状を気にかけ、薬の手配まで引き受けていた。
京都で人を束ねる
1863年、土方は近藤勇や沖田総司らとともに、将軍の上洛に伴う警護のため集められた浪士組に参加した。その多くが江戸へ戻る中、近藤らは京都に残った。彼らは京都守護職の松平容保が率いる会津藩のもとで、新選組として活動することになる。
当時の京都では、朝廷や幕府をめぐる政治的な対立が激しくなっていた。新選組は市中の警備に当たり、武装した浪士らへの取り締まりに関わる。1864年の池田屋事件では、近藤らの出動に対して褒賞金が下されたことが、幕府側の公文書にも残っている。そうした活動は、人を拘束し、時には命を奪う武力の行使でもあった。
副長として、土方は隊を支える人員の確保にも関わった。冒頭の手紙は、志願者の装備や態度を問題にしながら、さらに人を送ってほしいと頼むものだった。
同じ年の暮れ、土方は再び佐藤彦五郎に書き送った。新選組は御所周辺の警備を担当したものの、人数が足りず困っている。松平容保から副長の役目を命じられたことも知らせている。
故郷から遠い京都で、新選組は幕府側の治安組織として名を知られるようになった。それでも土方は、多摩の佐藤彦五郎との連絡を保っていた。佐藤に人を求め、隊の不足を訴え、京で起きたことを伝える。京都の仕事を支える連絡先が多摩にあった。
日記を預ける
だが、郷里へ届いたのは、隊の仕事を報告する手紙ばかりではなかった。
京都へ来た1863年、土方は小島鹿之助宛の手紙に、京や大坂で出会った女性たちとの交際を誇るような追伸を書いた。それがどこまで実際の関係を示すのかは分からない。それでも、公務を報告する文章とは違う、親しい相手に向けた口ぶりが残っている。
1864年には、京都でつけていた日記帳を郷里へ送った。土方は自分が戦死した場合を考え、日記帳を鉢金などとともに、帰郷する富沢忠右衛門に託して佐藤彦五郎へ預けた。
京都で警備にあたる土方が、自分の記録を預ける先に選んだのは、多摩で長く付き合ってきた佐藤家だった。
土方は佐藤彦五郎に志願者のことで苦言を送り、隊の状況を知らせ、日記帳まで預けた。多摩にいたころのつながりが、遠い京都での仕事にも続いていた。
幕府が終わったあと
1867年、土方は幕府直属の家臣である幕臣となった。多摩の農家に生まれた土方の立場は、大きく変わっていた。
だが、その幕府はまもなく政治の中心から退く。1868年、旧幕府側と新政府側の間に鳥羽・伏見の戦いが起き、新選組も敗れた。土方は宇都宮、会津などを転戦した。京都での市中警備に代わり、各地で戦う日々が続いた。
やがて土方は、榎本武揚ら旧幕府側の勢力に加わって蝦夷地へ渡った。旧幕府側の軍勢は箱館の五稜郭などを占拠した。箱館は、かつて幕府が役所を置き、すでに新政府へ引き継がれていた土地だった。そこを再び戦場にしたのである。
1869年の春、新政府軍が箱館へ迫った。陸でも海でも旧幕府側は劣勢となり、同年の旧暦5月11日、現在の暦で6月20日の総攻撃の日に土方は戦死した。五稜郭に残った旧幕府側の軍勢が降伏したのは、その一週間後である。
京都で入隊志望者について書いた手紙から、まだ五年もたっていない。土方はその間に幕臣となり、幕府を失い、それでも戦場を移っていた。
郷里に戻った一枚
箱館で土方が戦死した後、彼に関わる一つの品が遠く日野宿へ運ばれた。
箱館で撮影された土方の肖像写真がある。写真家の田本研造によるものだ。旧暦では明治元年12月の撮影と記録され、その翌年の7月、土方の近習だった市村鉄之助が日野宿の佐藤家へ届けたと伝えられる。写真の裏には、土方を追悼する漢詩も記された。
京都から入隊希望者への不満を送り、日記帳を託した佐藤彦五郎のもとに、箱館で撮られた土方の写真が届いた。生きていたころの手紙も、死後に届いた肖像も、日野宿に残った。



